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Okinawa 沖縄 #2 Day 148 (28/11/21) 旧佐敷村 (8) Nakaiho Hamlet 仲伊保集落

2021.11.29 11:35

旧佐敷村 仲伊保集落 (なかいほ、ナケーフ)


前回、冨祖崎集落を巡った後に、隣の仲伊保集落の一部の文化財まで足を延ばしたが、今日は残りの文化財を巡る。



旧佐敷村 仲伊保集落 (なかいほ、ナケーフ)

仲伊保は方言でナケーフと呼ばれていて、 泥や砂礫が堆積した沖積層を示すナカイフが転訛したとされている。  泥だけから成る堆積土壌では なく砂礫も混じっているため、 半ら (なから) イフで、このナカライフがナカイフとなり、 仲伊保と漢字表記され、読みがナケーフに訛ったという。

仲伊保は伝承では屋比久から移住したのが始まりで、その後、廃藩置県での行政改革により、那覇、国頭、西原、中城、久米三六姓の子孫らが、旧間切の伊保 (イーフ) に集まって、いくつかの屋取集落を形成した。1903年 (明治36年) に手登根村、平田村、屋比久村の各一部をもって仲伊保が成立。当時の主要な屋取集落は、仲伊保、東風間 (クチマ)、仲であった。

1919年の地図では仲伊保、東風間、仲屋取が村として記載されているので、この時代ではまだ、この3つの村はそれぞれが独立した行政地区であったのだろう。(それを裏付けるものは、探しても見つからなかった。) 民家の分布は元々の屋取集落付近に限定しての少しだけ拡張しているぐらいで、それぞれが班を形成している。終戦直後の民家はそれ以前と現在の分布と大きく異なっている。推測では、元の住居に戻る前に一箇所に集められていた時代のものかも知れない。

現在の字仲伊保の人口は旧佐敷村の中では少ないグループに属している。那覇から離れるにつれて人口は少なくなっている。これは他地域でも共通している。

人口の変遷については、世帯数はコンスタントに増加いているのだが、人口はそれとは逆に減少が続いている。人口データは複数のソースからとっているので、変な数字も含まれている。国政調査が開始されてから一気通貫のデータが無いのが残念だ。近年数年間は人口が微増に変わっている様に見える。とは言え、明治大正時代の人口 (ピーク時は800人を超えていた) に比べると、現在は約500人で37%の減少となっている。


現在行われている御願行事は下記の通りで、班ごとに行われている。班共通の拝所がない。三つの主要な屋取集落の習慣がそのまま維持されている。

仲伊保集落訪問ログ





東風間 (クチマー) の風水 (フンシー)

冨祖崎公園の北側は仲伊保地区になる。この場所には仲伊保集落の四班の守り神のクチマーの風水という拝所があった。風水 (フンシー) の隣には、戦没者慰霊碑が建っている。慰霊碑の横にはこの碑を建てたときに唄った歌碑があり東風間殿 (クチマドゥン) の側に慰霊碑を建てたとある。東風間 (クチマー) の風水 (フンシー) は東風間殿 (クチマドゥン) とも呼ばれていた様だ。1919年の地図では仲伊保集落とは別にこの東風間村が記されている。当時は独立した村だったという事だろう。確かにこの東風間は冨祖崎集落とは隣接しているが、仲伊保集落とはかなりに距離がある。

慰霊碑には支那事変から沖縄戦までに戦死した仲伊保出身の日本軍兵の名前が刻まれ、それ以外の非戦闘員の50余名が慰霊されているとなっている。別の資料では、この慰霊碑では389柱が慰霊され、内13柱が沖縄戦での犠牲者となっている。かなりの食い違いがある。佐敷町がまとめた沖縄戦での各字の戦没者数の表 (下表) があった。おそらく、これが実態に近いのではないだろうかと思う。仲伊保集落での戦没者は字全体の人口の23%で旧佐敷村の中では最小だが、最小と言っても、ほぼ4人に一人はなくなっている勘定だ。




大屋井 (ウフヤガー、埋没)

東風間 (クチマー) 集落に大屋井 (ウフヤガー) という井戸があったのだが、道路整備で埋められてしまい、今は跡形も無くなっている。東風間から仲伊保に向かう道の途中に流れる川の橋付近にあった様だ。


仲伊保塩田跡 (マースナー)

冨祖崎公園から防波堤の遊歩道を通ると仲伊保漁港に出る。このあたりには冨祖崎と同じく塩田があった場所で、今は何も無く空き地になっている。以前は跡地に佐敷マリーナがあったにだが、それも老朽化で無くなってしまった。



仲伊保公民館

仲伊保集落の海側に公民館がある。入り口には酸素ボンベの鐘が吊るされている。冨祖崎の酸素ボンベの鐘は赤く塗られていたが、仲伊保では黄色になっている。

この後、仲伊保集落を巡っている途中にも酸素ボンベの鐘が二つあった。この集落では黄色で統一している様だ。


ティーチバナ (12月1日 訪問)

公民館の東の畑の中に、岩を覆い尽くすように木々が繁っている場所がある。ティーチバナと呼ばれている。ティーチバナはティーチバナリ (一つ離れ石) から来ている。岩の下には多数の人骨が あったという。かつての王国時代の餓死者や病死者の風葬場、あるいは無縁仏を集めた場所といわれているが、その詳細は不明だそうだ。伝承では六百年前に佐敷小按司 (尚巴志) が、中山を討つ前に中山系の知名之比屋を攻め滅ぼしたとある。

拝所は三つある。中央には木の根元に香炉と供物が置かれ、「山内ヌ?」と書かれている。意味はわからないが、この近くの山内小屋取と関係があるのかも知れない。向かって左には閻魔大王神と勢至菩薩が祀られている。これ程、はっきりと仏教の神様が祀られているのは珍しい。特に閻魔大王を祀っている拝所は、沖縄では初めて見た。


旧村屋跡 (ムラヤー)

先程の公民館はかつて村屋があった場所では無く、元々は公民館の裏北側にあった。現在では空き地になっており、雑草で埋まっている。


一班と二班の風水 (フンシー)

公民館の北西にある拝所。 仲伊保集落では字を4班に分け、各班で祭祀を行っている。 この風水は、一班と二班に拝まれている。戦前、山内の前 (ヤマチ小ヤードイ) にあった風水と、仲伊保の風水、竜宮神が合祀されている。この拝所については他の資料では祀られている神の名前が異なり、西之神、東之神、竜宮神となっている。西之神と東之神は一班と二班の風水 (フンシー) の事だろう。この二つの風水はこの近くにあったものを合祀してここに移設されたものだ。 山内の前 (ヤマチ小ヤードイ) とは別の場所なので、ここには四つの拝所が集められていると思われる。


當真の井泉 (トウマヌカー)

一班と二班の風水の前の道を海岸線に沿って北に進むと、マルヰガス会社のガスタンク施設があり、その敷地内に一班と二班に今でも拝まれている當真の井泉 (トウマヌカー) がある。ここはかつては第一尚氏系 孫氏の子孫の當真家の元屋の屋敷だった。ガスタンクには "Iwatani” とある。岩谷産業とは、会社勤めをしていた時に、取引先で年間100億円の商売をしていた。沖縄ではマルヰガスを引いているのだが、は岩谷産業の子会社だったことを知り、会社勤めで岩谷産業と仕事をしていたころを思い出した。


メーイー製糖場跡 (サーターヤー)

マルヰガス会社 (當真家元屋屋敷跡) の前は空き地になっている。かつては製糖場跡 (サーターヤー) があった場所。サーターヤー跡は個人所有ではなく村の敷地だったので、公園など集落の共同施設になっていることが多いのだが、跡地利用をしていない場合は空き地のまま放置されている。ここは特に施設などは造られておらず、漁船の置き場になっていた。メーイーサーターヤーと呼ばれていたが、メーイーが何を意味しているのだろう?メーは前の意味だろう。仲伊保の浜にある方はクシイーサーターヤーとありクシイーは「後」という意味で、前と後ろにあったサーターヤーということだろう。


仲伊保漁港

海岸には仲伊保漁港がある。漁港内は既に軽石は除去されているが、停泊している漁船は少なく、ほとんどは陸にあげられている。海には軽石が漂っている。まだ操業は再開していないのだろうか?仲伊保集落は半農半漁の村だった。


竜宮神

仲伊保漁港から仲伊保の浜に向かう。道の途中、砂浜の中にある林の中に竜宮神が祀られている。この辺りにもかつては民家があったのだが、今は雑木林になってしまっている。


仲伊保の浜

仲伊保の海岸は遠浅の砂浜が広がっている。夏は海水浴で賑わうのだろうが、海岸には軽石が砂浜に打ち上げられ、白い砂浜が灰色の軽石浜に変わってしまった。軽石は大きいものは拳ぐらいのものもある。


クシ―イー製糖場跡 (サーターヤー)

仲伊保の浜の内陸部にはクシ―イー製糖場跡 (サーターヤー) があった場所。川が流れている。ここも雑木林で覆われていて、昔の面影がない。


東 (アガリ) の風水 (フンシ)

クシ―イー製糖場跡 (サーターヤー) を流れている川を内陸部に行くと、民家が集まった小さな地域がある。この付近は、山内小屋取 (ヤマチグヮーヤードゥイ) 集落があった。民家の隣の畑の隅に拝所があり、東 (アガリ) の風水 (フンシ) と呼ばれている。山内小屋取の守り神の風水だろうか?先に訪れた一班と二班の風水 (フンシー) の場所に山内の前 (ヤマチ小ヤードイ) にあった風水が合祀されているとあったのだが...


山内之井泉 (ヤマウチヌカー)

東 (アガリ) の風水 (フンシ) の近くに18世紀初頭に、屋比久から移住してきて、山内小屋取を始めた山内家が掘ったといわれている山内之井泉 (ヤマウチヌカー) があるはずなのだが、探しても、資料に載っていた写真 (右) の拝所が見つからない。近くの家の三輪で作業をしていた男性に井戸跡を聞いてみると、「ここにあったよー」と隣の家の駐車場まで連れて行ってくれた。(写真左) 。家を建てる際に撤去されてしまったそうだ。男性は昔からここに住んでいる家の人の様で、この山内小屋取について興味があるそうで、自分が資料で調べた範囲で話をした。かつての山内之井泉 (ヤマウチヌカー) の写真も見せてもらった。


次は、かつての仲伊保集落から離れ、南の国道331号方面に進む。



平田小の井泉 (ヒラタグヮーヌカー)

国道331号の近くに平田小の井泉 (ヒラタグヮーヌカー) と呼ばれる井泉跡の拝所がある。屋号 平田小 (ヒラタグヮー) の前にあったので、こう呼ばれている。 1904年の旱魃では、この井泉以外の井泉は枯れたが、ここの湧水を各家庭に配って水を供給した。 それ以来、この井泉は集落住民の命を救った水の神様として崇拝されるようになったそうだ。


運天屋取 (ウンティンヤードゥイ) 集落跡

平田小の井泉 (ヒラタグヮーヌカー) の周りには、かつての小さな屋取集落で、運天屋取と呼ばれていた。


仲屋取 (ナカヤードゥイ) 風水 (フンシー)

国道331号を佐敷方面に南に進んだ畑の中に仲屋取 (ナカヤードゥイ) 風水 (フンシー) がある。この付近にも民家が集まっており、仲屋取 (ナカヤードゥイ) 集落が造られた場所だ。その仲屋取集落の守り神の風水にあたる。ガードレールに隠れるように置かれているが、多分ガードレールは後から設置されたのだろう。少し、気の毒に感じる拝所だ。


ユシミの風水 (フンシ)

仲屋取 (ナヤヤードゥイ) 風水 (フンシー) の前の道を民家が集まっている方に進むと、ユシミの風水 (フンシ) がある。見学している時に、この拝所の前の家の人が出て来た。挨拶をして、この拝所についてたずねた。二つの風水が近くにあるので、その経緯について聞くと。この二つの風水は同じものだそうだ。もともとはここにあったのだが、そこの地主さんの意向で、先ほどの場所に移した。その後、ここの拝所を造り、元の場所に戻したそうだ。今はこちらの方を三班が拝んでいるそうだ。ここは仲屋取集落だった場所で、仲屋取が三班になっている。色々と話を続けるのだが、その中で佐敷には各集落に風水がいくつもありますね。これは他の集落には無いことだと印象を話すと、怪訝な様子で、どこの集落にもあるでしょうと言われた。ここで、気が付いたのだが、佐敷にある風水拝所は風水の性格はなく、住民も本来の風水を意識はしておらず、地域の守り神を「風水」と呼んでいるだけの様だ。他の集落では単に「拝所 (ウガンジュ) 」、「火の神」、「ビジュル」など地域の守り神を置き、それぞれの集落で呼び方が異なっている。地域によって、その集落の信仰の形が微妙に異なっている。沖縄の宗教の特徴は、大きな宗教組織、例えば、本土の伊勢神道、出雲神道、仏教の各派などが教義を住民に布教したのではなく、祖先崇拝、自然崇拝が、各村ごとに、個別に発展して、現在でも集落ごとに閉じた形で存続し、集落住民の生活の重要な一部となっている。


シーターチ (三班の風水 [フンシー])

ユシミの風水で話した男性から、もう一つ風水 (つまり、拝所の事) あると教えられた。ユシミの風水がある道の向こうに見えている。石 (シー) が2つ (ターチ) 並んでいたので、シーターチと呼ばれている。昔は二つの岩があったのだが、現在は1つしかない。 1つは割られて消失したそうだ。子供が生まれた時に、酒を茶碗に入れて、供える習わしがあったという。現在でも、三班が祭祀を行っている。


知念井泉 (チニンガー)

ユシミの風水 (フンシ) とシーターチの間の畑の中に、井戸跡があった。知念井泉 (チネンガー) と呼ばれている。詳細は見つからなかったが、給水パイプがあり、農業用に使用されているのだろう。


この後、手登根集落に行き、集落中心部にある拝所を見学する。手登根には多くの拝所や見たいところがあり、丘陵を越えたところまで古墓があるので、巡り終わるにはあと二日はかかるだろう。このところ、気温も低くなり、雨が降る日が多くなってきている。大体、中二日のペースで集落巡りをしたいのだが、編集に時間がかかったり、訪問予定していた日が雨だったりと、予定通りにいっていない。11月の訪問はここが最後になり、次は12月に入ってからになる。


参考文献

  • 佐敷村史 (1964 佐敷村)
  • 佐敷町史 2 民俗 (1984 佐敷町役場)
  • 佐敷町史 4 戦争 (1999 佐敷町役場)
  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)