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Okinawa 沖縄 #2 Day 149 (01/12/21) 旧佐敷村 (9) Hokama Hamlet 外間集落

2021.12.02 13:40

更新: 2021年12月7日 再訪問 (外間子の墓、外間殿、外間古島)


旧佐敷村 外間集落 (ほかま、フカマ)


今日は前回 (11月28日) に訪れた手登根集落を巡るのだが、一日はかからないので近くの外間集落を見てから行くことにした。外間集落は見終わり、手登根集落を巡ったのだが、丘陵上の文化財までは行けなかった。そこは次回に持ち越しとなった。ここでは外間集落の訪問記だけにして、手登根集落については、次回に残りを見終わってからとする。


旧佐敷村 外間集落 (ほかま、フカマ)

外間集落はいつ頃から存在したかは明確でないのだが、琉球国由来記 (1713年) には佐敷間切に外間村とあり、18世紀初頭には既に成立していた。外間 (フカマ) と呼ばれるようになったいきさつは、屋比久側から見て外 (表) に面した場所、または「よその処」という意味と考えられる。現在の集落に移動してくる前は、屋比久集落の外、南側にあったという。1903年 (明治36年) に外間は屋比久に合併したが、合併後も祭事は合併前同様に屋比久と外間では全く別々に行われていた。この傾向は他の集落でも同じで、合併してもかつての村単位で自治は運営されている。これが、沖縄のほとんどの集落が昔の行政単位のまま続いている理由と思われる。(見方によっては、門中など血縁一族で形成されている沖縄の村の閉鎖性を表している。) 戦後、1948年 (昭和23年) に行政区として屋比久か ら分離して、現在に至っている。ただ、外間は住所表示は屋比久のままになっている。集落によってはこの住所表示にもこだわるところがあり、変更を求め運動を行っていたところもある。外間はどうなのだろう?

外間には沖縄戦の遺構や慰霊碑はないのだが、この集落でも大きな被害を被った。沖縄戦では56名の戦没者を出し、集落住民の34%だった。

外間集落は旧佐敷村では最も小さな集落で、人口も最も少ない地域だった。現在でもそれは変わっていない。

集落の民家分布の変遷を見ると、その広がりは明治大正時代と比較してもほとんど変わっていない。外間は南城市の都市計画区域では全域が農地となっており、現在の土地区分では他地域から転入したり、業者による住宅地開発などで住宅地が広がる余地はない。ただ、これが地域住民にとっては、それほどの意味を持っている様には思えない。国道331号が走り、利便性の高い津波古へはすぐ近くで、特に不便は感じていないだろう。

外間の人口は戦前がピークで、260人だったが、戦後は何とか200人台を維持していたが、1980年以降減少に転じ、それ以降は180人で現在二至っている。人口は明治時代とほぼ同等になっている。


琉球国由来記にある外間集落の拝所は

  • 御嶽: カミヂヤナノ嶽 (神名 ナカモリツカサノ御イベ、屋比久地域)
  • 殿: 外間之殿、真謝之殿 (所在地不明)、 外間巫火神 (所在地不明)

外間村の御嶽としてカミヂヤナノ嶽が記載されている。外間村が現在地に移動する前の旧外間村 (古島) にあり、外間ノロの管轄だった。「右、外間巫崇所。 年浴麦初種子 ミヤ タネノ時、屋比久村嶽々同断也 右嶽々 十八ヶ所、毎年三八月、四度御物参有 祈願 此時、自百姓中五水四合宛 神 (蕃薯・栗之間) 半宛、供し之。巫御崇也。稲穂祭三日崇之次日、間切中巫々、其掌ル 嶽々へ五水壱対宛供し之、タカベ仕、扇コ バ取申也。」とある。

外間集落としての最も重要な行事は7月16日に行われるヌーバレーで、これは、海の彼方から五穀豊穣をもたらす神のヌーバレーのミルクの神を迎える「世果報 (ユガフー)」を行う。弥勒を先頭にして集落の要所を練り歩く道ズネーが行われ集落を巡る行事だ。無病息災と五穀豊穣を祈り、その後、伝統芸能を行っている。弥勒がミルクユガフーを願う「弥勒踊り」 があり、先ず、門門中の前庭でガーエー (威勢づけ) を行い、その後、弥勒を先頭に道ズネーが始まり、集落の石シーサーのある要所 (三ヶ所) で弥勒がガーエー隊に呼応して踊りながら、志茂門中 (シムムンチュウ) まで行き、前庭で弥勒が踊りを奉納し、神屋で豊作と無病息災を祈願する。その後、弥勒を先頭にして通ってきた要所でもう一度踊りを奉納しながら門 (ジョウ) に帰り、そこでまたガーエーと弥勒踊りが行われ終了となる。


外間集落訪問ログ



外間殿 (フカマトゥン)

国道331号沿いの外間毛 (フカマモー) の丘の上にある。殿の屋根は2012年の台風の際に崩壊したが、石の柱は今でも残っていた。外間邑を始めた外間子 (ホカマシー) の屋敷跡といわれている。敷地内には他に祠が3つある。琉球国由来記の「外間之殿」 にあたり、 「稲二祭之時、シロマシ・神酒二 宛 (百姓) 供之 外間巫祭祀也。 白米六合宛、百姓ヨリ巫へ遣也。 且、祭前日晩ヨリ祭ノ日朝迄、巫老人根神壱人居神 七人へ百姓ヨリー汁一菜ニテ賄仕也。」 と記されている。稲初穂祭 (五月ウマチー)、稲大祭 (六月ウマチー) が外間ノロによって執り行われていたことが分かる。この祭祀では、ノロ、ニーッチュ (根人)、ニーガン (根神) が馬で訪れたといわれ、使われた鞍は三日間は、はずさない習慣だった。現在は、5月15日の五月 (グングッチ) ウマチー、 6月25日のアミシで拝まれている。沖縄戦当時は、この外間毛 (フカマモー) には暁部隊の陣地や避難壕が造られていた。

以前の外間殿のアサギのスケッチがある。これで、当時はどのようなものだったのかがわかる。

12月7日にここを通った際にサーターヤー跡の公園の草がきれいに刈られていた。ひょっとして外間殿も草刈りが行われているのではと思い再度寄ってみた。やはり、草が刈られて綺麗になっていた。これで神アシャギの石柱跡がはっきりと分かる。

外間殿の前の広場には5つの拝所が広場を囲む様に置かれている。名称は不明だそうだが、この拝所も6月25日のアミシで拝まれている。


外間古島 (フカマフルジマ) (2021年12月7日 訪問)

港橋 (ンナントバシ) から屋比久集落に向かう道の途中には、かつて外間が現在の集落に移動する前、外間集落が始まった古島跡がある。現在は畑になっている。ここは現在の屋比久集落の南の外れにあたる。


外間の西之石獅子 (イリシーサー)

外間殿から国道331号を渡り、外間集落の中心部への道の脇に南々東に向けて石獅子が置かれている。外間集落には石獅子が三体あったのだが現存しているのは、この一体だけ。残りの二つはこの通りに一つ、もう一つは路地を入ったすぐの所10m程の間隔で西に向けて並んでいたそうだ。これほど近距離に石獅子が集まっているのは珍しい。通常、石獅子は村の守りとして村の隅に置かれることがほとんどなので、ここは例外の様だ。何故、三体も近距離で並べて置いていたのかは興味がある。資料にはそのいきさつについては書かれていなかった。

石獅子の側にあった石敢當が目を引いた。新しいデザインで造られたもの。確かに、形にとらわれる必要は無いのだろう。


サーターヤー跡

西之石獅子 (イリシーサー) の前は小さな公園になっている。以前はサーターヤーがあった場所だ。使われていないのが、公園は雑草で覆われて、中に入るのが躊躇われるぐらいだ。

12月7日にここを通った際に、綺麗に草が刈られていた。何か行事があったのか、行事を予定しているのか。今でも何かに使用されているようだ。


志茂門中 (シムムンチュウ) の神屋

石獅子から1ブロック西に志茂の屋敷跡がある。かなり広い敷地で、この門中が当時は村の有力者であったことがわかる。志茂門中は大里按司の末裔といわれている。敷地内に神屋がアシャギとして別棟で建てられている。今まで見てきたコンクリート打ちっぱなしの神屋では無く、綺麗なデザインのモダンな神屋になっている。この様な神屋は初めてだ。ここは志茂門中の元屋 (ムートゥヤー、主家) にあたる。 敷地内なので、内部を見る事は出来ないが、資料には香炉が五基あり、その内の四基は外間子の親、外間子、ノロ、中ノ世のもので、祖先を祀っている。

 

外間公民館 (村屋跡)

志茂門中 (シムムンチュウ) の神屋から西へ1ブロックのところに公民館がある。小さな公民館で、狭い前庭の脇に、恒例の酸素ボンベが吊るされていた。沖縄戦当時の地図ではクムイ (池) になっている。外間集落は戦前は字屋比久に属しており、村屋はなかったのだろう。戦後、屋比久から独立してここに公民館を設置してと思う。ちょうど酸素ボンベが吊るされているところには拝所があったとも書かれていたが、今は残っていない。


門門中 (ジョームンチュウ) の神屋

石獅子があるブロックの北側には外間集落の有力者だった門門中 (ジョームンチュウ) の元屋 (ムートゥヤー) の屋敷跡がある。門門中は英祖王統の玉城王の末裔と伝わっている。外間集落で行われているヌーバレーでは道ジュネー (行列) の出発地点で、志茂門中屋敷に向かい、神屋で御願を行って、 またここに戻ってきて道ジュネーが終了する。この門門中にはカシチーで使用する弥勒の衣装が保管されている。


屋比久ガニク馬場跡 (ウマィー)

冨祖崎集落との境界線となっている道路は、かつての馬場跡 (ウマィー) で屋比久ガニクと呼ばれていた。ここでは廃藩置県前後に始まった農作物の優劣を競う原山勝負 (ハルヤマスーブ) が盛んに行われ、その終了後には競馬 (馬勝負 ウナスーブ) や闘牛が催されていた。ここでの競馬は1935年 (昭和10年) 頃までは毎年5月と9月の原山勝負の日に行われ盛況だったという。


龕屋跡

外間と屋比久が共同で使用していた龕を治めた龕屋があった場所。


元々の龕屋は国道331号を渡った墓地群の一画にあったそうだ。


これで外間集落巡りは終了。小さな村なので、時間はかからなかった。この後、手登根集落に移動する。



外間子 (フカマシー) の墓 (2021年12月7日 訪問)

12月7日に屋比久集落を訪れた際に外間集落外れに、外間子 (フカマシー) の墓があるとの情報があったので、立ち寄った。国道331号沿いの雑木林の中にあった。昔ながらの墓は失われってしまっている様で、墓石が建てられていた。


参考文献

  • 佐敷村史 (1964 佐敷村)
  • 佐敷町史 2 民俗 (1984 佐敷町役場)
  • 佐敷町史 4 戦争 (1999 佐敷町役場)
  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)