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Okinawa 沖縄 #2 Day 150 (04/12/21) 旧佐敷村 (10) Ibara Hamlet 伊原集落

2021.12.04 13:10

旧佐敷村 伊原集落 (いばら)


今日は先日見れなかった丘陵上にある手登根の古墓見学に向かう。途中に伊原集落があり。まずはこの集落を見学することにした。ここでの訪問記は伊波集落のみとして、手登根集落訪問記は別にする。



旧佐敷村 伊原集落 (いばら)

伊原はかつてイフントゥ屋取と言われ、旧知念村久手堅に属していた。 イフントゥは「いほ (イフ) の (ヌ) たう (担)」という意味で、 チナマタガーラ (知名谷) とセクガーラ (谷川ー>底川) から流れてきた堆積した土壌の平坦地のを表している。 イホ (フ) バラのホ (フ) が脱落してイバラ (伊原) になったという。

伊原は首里からの旧士族が旧知念村の久手堅のこの地に帰農して形成した屋取集落だったが、1908年 (明治41年) に、旧佐敷村の字屋比久に移管され、同時に手登根の底川屋取が旧知念村に編入された。 伊原は1923年 (大正12年) に屋比久から分離し独立行政区となっている。手登根から伊原に向かう途中には山内屋取集落 (字手登根に属している) があり、同じ屋取集落として交流は深い。伊原集落は明媚な「ソコニヤ御嶽 (シュクナ森)」の麓に位置しており、地理的には山手に近く、かつては不便だったが、1916年 (大正15年) に始まった島尻郡道に割取 (ワイトゥイ、切り通し) ができ、さらに1931年 (昭和6年) の県道開通で村道ができて隣りムラとの交流も開けた。

伊原の人口は外間に次いで二番目に人口の少ない字。

県道が丘陵を越えて知念に通じてはいるが、やはり交通は不便で、比較的交通の便の良い他の佐敷地位に比べて居住性は劣っている。まだ屋比久に属していた1919年の地図では伊原は表示されず、落水と山内の集落名が表されている。知念に向かうワイトゥイ (切通) 道も見えるが、その後、ゴルフ場建設でこの道は消滅している。

そのせいなのか、人口は1955年には約500人まで増えたのをピークにその後は減少が続き、現在では229人と約半分になってしまった。人口減少はまだ続いている。


琉球国由来記には伊原集落の御嶽や殿の記載はない。


外間集落訪問ログ



上ヌ毛 (ウィーヌモー)

手登根集落から山内屋取集落を経由して伊原集落に入る。集落入り口付近に上ヌ毛 (ウィーヌモー) と呼ばれ低い丘がある。ここには、地祖神の拝所があることから、御願毛 (ウガンモー) ともよばれている。写真に写っている平場はかつての前組のサーターヤーの跡。


伊原公民館

上ヌ毛の上には、公民館がある。前は広い広場になっており、集落の行事などが行われる。


村屋跡 (ムラヤー)

もともとの村屋 (ムラヤー) は、この広場の入り口付近にあった。


御願毛 (ウガンモー) の地祖神 (ジソシン)

公民館に向かって左手に地祖神 (ジソシン) が置かれている。コン クリートの祠の奥には守り神と書かれた石柱が立っている。 この地祖神は伊原集落の守り神で、集落の拝所の中での中心的な存在だ。1月1日 (新) のハチウガミ (初拝み) で最初にここを参拝し、その後、蘇鉄井泉、議員ター井泉 (議員の井泉) と巡拝する。


大道 (ウフミチ)

公民館がある上ヌ毛 (ウィーヌモー) から東に伸びる道は集落のメインストリートで大道 (ウフミチ) と呼ばれている。ここでは綱引きが行われていた。


蘇鉄井泉 (スーティチガー)

大道 (ウフミチ) の真ん中付近南側に蘇鉄井泉 (スーティチガー) がある。 名幸子 (ナコーシー) という人物が掘った井戸と伝えられている。以前は名幸井泉 (ナコーガー) と呼ばれていた。水道が普及するまで飲料水として使用されていた。井泉の傍に蘇鉄 (スーティチ) が生えていることからこう呼ばれる様になった。資料の一つには旧名幸井泉とあり、手登根集落には同じ名前の名幸井泉がある。


免原井泉 (ミンバルガー)

大道 (ウフミチ) の南側の免原 (ミンバル) に並行して走る路地があり、そこに免原井泉 (ミンバルガー) があると資料にはあった。資料の写真の場所は見つかったのだが、井泉跡は撤去されてしまったのか見つからない。この井戸は宮次子 (ナーシシー) が掘ったと伝えられ、手登根では宮次井泉 (ナーシガー) とも呼ばれていたそうだが、手登根集落内にも同じ名前の宮次井泉 (ナーシガー) があった。別の資料ではここは旧宮次井泉となっていた。先ほどの訪れた蘇鉄井泉も旧名幸井泉となっていた。井戸が移動することはないので、この二つの井戸は何か関係があるのだろう。


御願 (ウガン)

前ヌ井泉 (メーヌカー) の南側の畑の中に石積みの御願 (ウガン) と呼ばれる拝所がある。伊原集落ではこの拝所のある地域は御願毛 (ウガンモー) と呼んでいる。この拝所は免原ヌ御神ともいわれている。 この拝所は伊原集落では御願されておらず、手登根のウフシ門中の拝所だそうだ。かつては、この拝所の付近に手登根の集落があっそうだ。という。 字手登根のウフシ門中の拝所である。字伊原ではこの拝所のある地域は「御願毛」と呼ばれている。


クチャビラグヮー、ナカシビラ

御願 (ウガン)の近くに丘陵に登る道が二つあった。クチャビラグヮーとナカシビラだ。どこまで道が続いているのか、丘陵の上まで登れるのかと思いこの二つの道に入っていった。クチャビラグヮーへはブロックで階段が造られている道で入る。途中で舗装された道に出て、進んだが行き止まりになってしまった。

この山はトングヮヤマと呼ばれている。道は墓群に通じていた。丘陵への上り道では無く、墓への道だった様に思える。

ナカシビラも登るが、クチャビラグヮーと同じく行き止まりになり、ここも墓への道の様だ。


東恩納組サーターヤー跡

御願 (ウガン) の前の畑となっている場所には、かつては東恩納組のサーターヤーがあったそうだ。この東恩納が手登根のウフシ門中の集落の事ではないかと思う。


次は集落の北側に移動する。


伊原農村広場 (闘牛場跡)

集落内の北の高台にあるウシモーと呼ばれる場所は現在は伊原農村広場になっている。かつてはここで闘牛が行われていた。それでウシモー (牛毛?) と呼ばれているのだろうか?


慰霊之塔

伊原農村公園の一画に慰霊之塔が建てられている。昭和35年に建てられて、 51柱 (内 沖縄戦 29柱) が祀られている。

この慰霊塔に慰霊されている柱以外にも、沖縄戦では戦没者があり、合計90名の人が犠牲になっている。当時の人口は298人で、30.2%の村民が犠牲になっている。


議員の井泉 (ギインターヌガー)

伊原農村広場になっているウシモーをぐるりと回る道があり、南側の道の民家の庭に集落で拝まれている井戸がある。ここの渡名喜家の主人が議員になったことがあり、 また、屋号もギインターと呼ばれていたことで、議員の井泉 (ギインターヌガー) と呼ばれる様になった。個人宅内にあったのだが、かつては集落住民の生活用水として開放されていた。失礼して塀の外から写真を撮らせてもらった。


後組のサーターヤー跡

伊原農村広場の西側にも、サーターヤー跡があり、ここは後組が使用していたそうだ。


イリグムイ屋取集落、サーターヤー跡

伊原農村広場の東側には、かつてイリグムイ屋取集落があった。そこにはイリグムイ組が使ってたサーターヤー跡がある。現在は民家はほとんどない。


金城門中神屋

イリグムイ屋取集落跡の中に朽ちかけた神屋がある。金城門中の神屋で、中には香炉が整頓されて置かれている。現在でも定期的に拝まれている様だ。


ウティンダ屋取集落、サーターヤー跡

伊原集落から外れた北の丘陵の麓にも屋取集落があった、そこはウティンダと呼ばれていた。現在は民家が2-3軒程あるだけ。

そこにも独立したサーターヤーが置かれていた。


拝所

かつてのウティンダ屋取集落があった畑の中に拝所があった。資料には見つからなかったのだが、ウティンダ屋取集落と関係がある拝所だろう。


クニンドー屋取集落

伊原集落の東側の丘陵の麓にも屋取集落があり、クニンドー屋取と呼ばれていた。この伊原は屋取集落の特徴が今でも残っている。帰農した旧士族はその血縁者で耕作する畑の近くに住まいを持っていた。この伊原の様に数軒で構成される屋取集落がいくつも、ある程度の距離をおいて散在している。


割取 (ワイトゥイ、切り通し) 

クニンドー屋取集落の奥の丘陵地は現在は守礼CCのゴルフ場になっている。字知念にまたがったゴルフ場で、伊原地区の四分の一ぐらいがコースになっている。伊原としては元々人も住んでいなかった場所なので、特に住民への影響はないだろう。

1916年 (大正15年) に知念に通じる島尻郡道が建設され、ここから丘陵には切り通し (沖縄では割取 ワイトゥイという) が造られていた。ただ、この道は設計に問題があり、大雨の際には、決潰し、とうとう昭和7年頃までには廃道となってしまったそうだ。 (写真左の丘陵が窪んでいる付近) かつてはこの廃道となった道が、丘陵を越えて知念への道だったそうで、手登根で出会った80歳のおじいは、この道を通って知念に通ったと言っていた。現在はゴルフ場建設で道は完全に消滅してしまっている。(道はゴルフ場のクラブハウス付近を通っていたそうだ) ワイトイへの道はドンドンビラグヮーと呼ばれていたが、既に道はなくなっていた。ゴルフ場で道が無くなったので、通る人もいないので、当然なのだが..


知念に出る道は1931年 (昭和6年) に手登根の山内屋取集落から丘陵を横断して造られている。この付近では現在でもこの道が丘陵へ上がる唯一の道になっている。ここから、伊原集落を後にして、県道で丘陵の上にある標高160mの手登根のアカバンターに向かう。(写真の丘陵上の風力発電のプロペラのある所)



続きは手登根集落訪記に記載する。


参考文献

  • 佐敷村史 (1964 佐敷村)
  • 佐敷町史 2 民俗 (1984 佐敷町役場)
  • 佐敷町史 4 戦争 (1999 佐敷町役場)
  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)