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Okinawa 沖縄 #2 Day 151 (07/12/21) 旧佐敷村 (12) Yabiku Hamlet 屋比久集落

2021.12.08 03:02

旧佐敷村 屋比久集落 (やびく、ヤビル)


今日は旧佐敷村の最後の訪問地になる屋比久集落を訪れる。


旧佐敷村 屋比久集落 (やびく、ヤビル)

屋比久はやまびこ (山傍処) のことで、須久名 (スクナ、ソコニヤ) 山の傍らの処を表している。村立ての頃の屋比久村は須久名山の傍らにあった。ヤマビコ→ヤマビク→ヤビクと転訛し、 屋比久と表記されるようになったと考えられている。

琉球王府時代から明治41年までは屋比久村で、明治41年に知念村久手堅のイーフントウ屋取を編入して佐敷村の字の一つとなる。戦前は養蚕が盛んで,昭和初年に養蚕組合を結成し,50坪の養蚕室も設け、種繭を生産して普及を図ったが昭和15年頃閉鎖された。ここは土帝君信仰が厚く、その広場で毎年お盆のあとに行われる屋比久綱引きは勇壮な民俗行事として内外から大勢の人が集まった。その他、旧暦7月17日のヌーバレーでは、雄獅子が歌に合わせて舞う獅子舞が行われ、古くはエイサーや臼太鼓 (ウスデーク) も行われていた。集落内には幅員約18m、長さ約300mの屋比久ガニク (馬場) が1700年代につくられ、競馬 (ジーバイ) が1932年 (昭和7年) 頃まで行われていた。また、屋比久ガニクには聞得大君加那志の御新下りの時に仮屋が設けられていた。

屋比久の現在の人口は321人と以前に比べ、かなり減少し、旧佐敷村の中では少ないグループに入る。屋比久全域は農地区分になっているので、新しく住宅を建設することは、法的に困難なので、人口の増加は期待できないと思う。

明治時代の集落の範囲と現在の民家の分布地域はほとんど変わっていない。

明治13年の人口775人 (戸数137) で佐敷間切では第二位の人口だった。明治36年に外間村を編入し、一部が仲伊保村、冨祖崎村に移管され人口 962人 (戸数198) に増加している。昭和23年に外間が分離し独立行政区となったが,地籍は未分離のままで外間住所は屋比久と表示されている。下の人口推移グラフでは、外間が屋比久の一部だった期間は外間人口を差し引いて表示している。全盛期には約780の人口だったが、現在は321人と半分以下になっており、ここ10年で見ると、徐々に人口が減少している。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)


屋比久集落訪問ログ



ヤシ並木ロード (国道331号)

与那原から国道331号を通り向かう。この331号線はヤシ並木ロードと呼ばれており、道路の両脇に椰子の木が植って並木道になり、南国の雰囲気がある。331号線は戦後、米軍が敷設してもので、これにより知念への交通が改善された。戦後沖縄の復興には米軍主導で開発された設備が大きく寄与してはいるのだが、資金は米国政府からでは無く、全て沖縄の資金で賄われている。県民の犠牲の上での事だった。今でも県民の中には、米軍が復興に貢献したとの評価には否定的な人も多い。


港橋 (ンナントバシ)

手登根集落と屋比久集落の村境には港川 (ンナントガーラ) が流れている。

この川に架かっている港橋 (ンナントバシ) を渡って屋比久集落に入る。この橋の脇に拝所が置かれていた。この拝所が何を祀っているのかは、調べられなかったが、この港橋に関わるものでは無いだろうか?


穂取田 (フートゥーイダー)

港橋を集落側に渡った畑はかつての穂取田だった。屋比久も以前は稲作が農業の主体だったが、その後サトウキビ栽培が主流となり、稲作は無くなってしまった。稲作全盛期はこの穂取田で田植えを行い御願をして、各自の水田で田植えを始めた。


外間古島 (フカマフルジマ)

港橋 (ンナントバシ) から屋比久集落に向かう道の途中には、かつて外間が現在の集落に移動する前、外間集落が始まった古島跡がある。現在は畑になっている。ここは現在の屋比久集落の南の外れにあたる。


下ヌ外間井泉 (シチャヌフカマガー)

旧外間集落内の西側にはかつてのサーターヤーの跡地があり、空き地になっている。屋比久集落にはサーターヤーが三か所あった。残りの二つは集落北側の西の端と東の端にあった。

そこには下ヌ外間井泉 (シチャヌフカマガー) と呼ばれる井戸跡があった。


上ヌ外間井泉 (ウィーヌフカマガー)

かつての外間古島の東側には上ヌ外間井泉 (ウィーヌフカマガー) があったそうだ。現在は井戸跡は見当たらない。先程の下ヌ外間井泉とこのは上ヌ外間井泉の間に外間古島が存在していたのだろう。


屋比久グスク

旧佐敷村にはグスクは二つ確認されている。一つは訪問した佐敷上グスクで、もう一つがここにあった屋比久グスクだ。少し意外な感じがする。尚巴志親子の本拠地だった地域で、その兄弟、家臣がその領内を分割して治めていたので、もっと多くあると思っていた。佐敷の地形が理由なのかもしれない。丘陵地は大里、玉城、知念で多くのグスクが存在していたが、佐敷はそこから見下ろされる平地にある。城塞としてのグスクに適した場所は多くないだろう。それよりは、貿易で国力を付けたほうが良かったのかもしれない。この地にある屋比久グスクは城塞として使用されたことを証明する発掘物はなく、通説では聖地としてのグスクと考えられている。グスクと比定されている場所も、明確にはなっていないのか、資料によって異なっていた。これから訪問する上ヌ毛 (ウィーヌモー) を屋比久グスクとしている資料、土帝君がある丘をグスクとしている資料。この二つの丘全体がグスクだとする資料。素人にはそれ程重要なことではないのだが、この地には屋比久大比屋 (ヤビクウヒヤー) と呼ばれた、尚思紹/尚巴志の重臣の一人がおり、屋比久を治めていたという。想像では、馬蹄形を成している二つの丘の上に住居を置くことは統治するにも、敵からの守りにも適している。地形的に大掛かりなグスクは築けないのだが、それでもあえて館を選ぶとしたらこの地になるだろう。

佐敷にある前集落をいろいろと調べながら巡って、尚巴志が佐敷按司になって島添大里グスクを落とし、島添大里按司になる以前に (1392年-1402年) 、領内に配置していた家臣は以下のような感じだったのではないかと思う。佐敷は強力な汪英紫率いる島添大里、英祖王統系の名門の玉城、知念に囲まれた、まだまだ弱小地方豪族だった。


神座良山 (カンジャラヤマ)、上ヌ毛 (ウィーヌモー)

集落は北側に向けて登り坂の丘になっており、その丘は神座良山 (カンジャラヤマ) で、そのは上ヌ毛 (ウィーヌモー) と呼ばれていた。馬蹄形の二つの丘の西側の丘。現在は屋比久児童公園、更にその上には広場になっている。公園内には酸素ボンベの鐘が吊るされていた。ここは屋比久グスクの一部とされている。


西の石獅子跡 (消滅)

神座良山 (カンジャラヤマ) の南側の道路沿いに石獅子が置かれている。新しく作られた石獅子で、昔からあった石獅子は消失している。石獅子は村を外から入ってくる魔物から守るために村の入り口に置かれれいた。この場所は村の南端にあたる。


神座良嶽 (カンジャラタキ) 

屋比久児童公園の中には神座良嶽 (カンジャラタキ) があり、外間と屋比久の拝所が集まっている。屋比久嶽及び外間嶽とも言われている。神座良嶽 (カンジャラタキ) には外間集落の香炉が2個、屋比久子 (ヤビクシー) の香炉が1個、玉城へのウトゥーシの香炉が4個あるとあるが、どれがどれなのかは分からなかった。祠もあり南に向かって参拝するように設置されている。 六月カシチー、御願解き (ウグヮンブトゥチ) で拝まれている。琉球国由来記に カミヂヤナノ嶽 (外間村) とあり、 旧外間村にあったことがわかる。 外間ノロの管轄であった。 神名は「ナカモリツカサノ御イベ」で、「右、外間巫崇所。年浴麦初種子 ミヤ タネノ時、屋比久村嶽々同断也 右嶽々 十八ヶ所、毎年三八月、四度御物参有 祈願 此時、自百姓中五水四合宛 神 (蕃薯・栗之間) 半宛、供し之。巫御崇也。稲穂祭三日崇之次日、間切中巫々、其掌ル 嶽々へ五水壱対宛供し之、タカベ仕、扇コバ取申也。」とある。


屋比久公民館 (村屋 ムラヤー)

神座良嶽 (カンジャラタキ) がある児童公園の坂道の向こうには公民館がある。戦前から村屋があった場所に建て替えられて公民館になっている。公民館の庭には差し石 (力石) では無いかと思う石が置かれていた。公民館の裏側にも建物があり、その中には、村の祭りで使う旗頭などの道具類が保管されていた。


慰霊塔

上ヌ毛 (ウィーヌモー) の広場の奥に慰霊塔が建てられている。沖縄戦では村内には日本兵は常時は駐屯しておらず、また軍施設もなかった。この慰霊塔がある上ヌ毛の丘の斜面には幾つもの避難壕が掘られていた。

この屋比久村における戦没者も多く出ている。資料では121名の犠牲が出ており、当時の集落人口の34%にあたる。沖縄戦では昭和20年6月に、南部戦線の避難民がここ屋比久、新里、伊原に、当時、金網収容所といわれた収容所に移動させられていた。後に、収容住民は,国頭郡久志村の瀬嵩に収容され,昭和21年1月知念村、玉城村、大里村に移動させられ、4月には屋比久での農耕は許可されていた。


殿の屋 (トゥンヌヤー)、大 (ウフ) ナカノ殿 (トゥン)

慰霊塔がある場所は屋比久ノロの住居跡で、屋比久殿 (ヤビクドゥン)、ノロ殿内 (ドゥンチ) ともいわれている。コンクリート製の建物があり、建物正面入口真ん中にはコンクリート製の香炉が置かれ、奥には火又神が祀られている。 建物の右側には祠が二つ祀られており、ヌンドゥンチと書かれている。琉球国由来記では「屋比久巫火神 (ヤビクノロヒヌカン)」と記され、「麦穂祭 稲穂祭三日崇、且、三· 八月、四度御物参之時、佐敷巫火神同。稲穂祭之時、穂・五水四合 (百姓)。年浴三日二神酒壱 (百姓)。 年浴之日、五水四合 神酒壱 (百姓)。麦初種子ミヤタネ 三日崇二花米九合五水四合 神酒壱 (百 姓)。 麦初タネ・ミヤタネノ日、供物上同、自百姓供し之。巫祭祀也。」 とある。現在では、5月15日の五月ウマチー、6月15日の六月ウマチー、6月24日の六月カシチー、6月25日のアミシ、12月24日の御願解きの際に拝まれている。


渡嘉敷殿 (トゥカシチドゥン)

屋比久殿の裏側にある広場にも拝所がある。タンタキヒチ (新垣門中) の拝所という。 琉球国由来記の渡嘉敷之殿に相当する。渡嘉敷之殿では屋比久ノロにより、稲二祭が司祭されていた。クシヌ嶽には四つの香炉があり,左から2番目がキャ城ノ御嶽,3番目がフカーヤマ,4番目がソコニヤ嶽を遥拝しているという。


新垣 (アラカチ) の神屋

渡嘉敷殿 (トゥカシチドゥン) のすぐ近くには新垣門中 (タンタキヒチ) の屋敷があり、その敷地内に新垣門中元屋の神屋が建てられている。ウフザトクサイヌ神、根人、根神、ニーヌ神、アジシー、火ヌ神が祀られているそうだ。 根人、根神、ノロは、新垣門中から出されていたというので、この屋比久集落のリーダーだった筆頭門中になる。


ヤマヌメ (未訪問)

屋比久殿の北西すぐの所に、ヤマヌメ (上ヌ屋比久小、中元 [ナカムトゥー]) と呼ばれる新垣門中支流の平田門中の神屋があると資料には載っていたので探すのだが、それらしきものが見当たらない。平田門中)の始祖は第二尚氏初代王の尚円の子孫といわれている。

屋比久集落内には主要な神屋 (神アシャギ) が五つあり (新垣、ヤマヌメ (平田)、小谷、玉城、知念)、その一つにあたる。この拝所を探している最中に、集落の人に「何か探しているのか」と声をかけられ、この拝所について尋ねたがわからないという。村の人たちは文化財として表示板が設置されているものはわかるのだが、各門中の神屋となると知らないケースがほとんどだ。調べた範囲で屋比久の事を話し、質問などをしていると、こちらが屋比久に興味を持っていることに喜んでくれた。帰りには「今日は暑いから」と言って、冷えた缶入りのお茶を持たせてくれた。この集落では、すれ違う村民は皆んなが笑顔で挨拶をしてくれる。気持ちの良い一日になった。


土帝君 (トゥーティークン)

屋比久原の馬蹄形をした小高い丘の上ヌ毛とは反対側の丘に土帝君 (トゥーティークン) の祠が立っている。

ここに祀られていた土帝君は旧知念村の安座真 (アザマ) の役人が唐へ行った際にソロバンを手にした土帝君像一体を持ち帰って屋比久に寄贈したという。戦後その像は紛失し、現在は別の土帝君像が安置されているのだが、当時、屋比久と安座真は古くから交流があり、屋比久は安座真が台風や干ばつにあった時は芋のツル等を分け与えていた。その縁で、安座真の役人が恩返しとして土帝君を送ったというわけだ。現在、2月2日の土帝君ヌ御願、8月15日の十五夜に集落住民が拝んでいる。


キヤ城 (グシク) の嶽 (タキ)

土帝君の奥の広場にはキヤ城 (グシク) の嶽 (タキ) がある。方言ではチャーグスクヌタキという。グシク殿とも呼ばれており、ここは屋比久グスクの一部にあたる。今帰仁グスクへのお通し (ウトゥーシ) の殿といわれている。琉球国由来記のキヤ城ノ嶽 (神名 クニナカツカサノ御イベ)、殿 (有城内) に相当するとみられる。殿では屋比久ノロが稲二祭を司祭していた。この場所は村の信仰拠所とするクサティ (腰当) と考えられ、古琉球の典型的な集落を形成し,御嶽のオソイ (愛護) を受けて村人の生活が営まれていたことがわかる。御嶽の周辺は沖縄戦で破壊されたため,現在では集落後方にあるクシヌ嶽より遥拝されている。(クシヌ殿は後之殿と書くと思われるが、この殿についての所在地を含め情報は見当たらなかった)


マチ井泉 (ガ-)、グスク殿 (トゥン)

キヤ城の嶽の隣に井戸跡の拝所があり、マチ井泉 (ガ-) またはニービガーと呼ばれている。もともとは、集落北端にあった屋比久古島にあり、新垣門中の祖先が使用していたといわれているものをここに移し御願されている。井戸の近くに大きな松 (マチ) があることからその名がついたという。古島の産井 (ウブガー) として、ウンサク (神酒) の水や産水が汲まれていた。マチ井泉 (ガ-) の隣にも拝所が置かれているが、この拝所についての説明は見つからなかったのだ。このキヤグスクないにはグスク殿があるとされているのでこれがグスク殿と思われる。(写真下)


昔墓 (ンカシハカ)

土帝君がある丘の前の傾斜地に昔からの古墓がある。昔墓 (ンカシハカ) または古墓 (フル墓) と呼ばれ、昔の戦で死んだ人を葬った墓といわれる。この地で戦いがあったのかは、文献では確認できないのだが、集落間での戦は三山時代にはあったはずなので、その時代の出来事なのかもしれない。


下の殿 (シチャヌトゥン)

下の殿から土帝君から昔墓を通り、坂道を降りたところに下の殿 (シチャヌトゥン) がある。大中殿 (ウフナカヌトゥン) とも呼ばれていると資料にはあると、別の資料では古くは中之殿 (ナカヌトゥン) と呼ばれていたとある。多分、同じ殿を意味しているのだろう。ここは今帰仁子 (ナチジンシー) の住居跡と伝わっている。 木の下の香炉は火ヌ神になっている。下ヌ殿では、東門門中と平田門中が神人 (カミンチュ) を出し、屋比久祝女と祭祀を行っていた。


小谷 (ウクク) の神屋

下の殿と昔墓の間に屋比久集落のクニデー (村立ての家) といわれる小谷門中の屋敷跡があり、その敷地内に神屋が置かれている。現在、小谷門中の人はこの集落内にはおらず、村落祭の時には、字屋比久の役員等により拝まれている。資料に掲載されていた写真の神屋 (写真右下) は取り壊されて、ちょうど新しい神屋を建て始めていた。


東の石獅子跡 (消滅)

小谷 (ウクク) の神屋、下の殿 (シチャヌトゥン) がある付近は屋朴集落の東端になり、その集落への入り口には石獅子が置かれていた。かつての石獅子は消滅してしまったのだが、そこには新しく造られた石獅子が置かれている。

屋比久集落内にはもう一つ石獅子があったそうだ。沖縄戦当時の民族地図にその場所が示されていた。ちょうど西と東の石獅子がある道の中間地点になのだが、復活した石獅子は置かれていない。



集落内の文化財はこれで見終わったので、次は集落の外側を巡る。集落を外れた畑地帯之西側から見ていく。



ハチャガー

集落から外れた北西の畑の中にハチャガーがあったそうだ。写真もなくはっきりとした場所はわからないのだが、地図で示された付近に、畑の中に雑木林がポツンと残っている。この様な場違いに思える場所は大体のケース拝所であることが多い。聖域としてそのまま残しているのだろう。雑木が深く中まで見れなかったのだが、ここにハチャガーがあったのかもしれない。


深山ヌ井泉 (フカーヤマヌカー) 

ハチャガーから少し東に進んで、丘陵の麓に深山ヌ井泉 (フカーヤマヌカー) の拝所が設けられている。 フカン井泉とも呼ばれている。 この奥の山が深山 (フカーヤマ) で、その麓にある井泉でそう呼ばれている。もともとは、拝所の後方にある森の中の木の根元にあったという。この井泉で屋比久ノロが体を清めた聖地だったといわれている。


今帰仁子 (ナチジンシー) 墓

今帰仁子 (ナチジンシー) 墓とされる場所がある資料では二つ示されていた。今帰仁子という名称はその人の名前では無く、身分を表しているので、今帰仁子が何人もいてもおかしくは無い。地図で示された場所に行ってみた。深山之井泉から丘陵に登る山道があり、ゴルフ場近くまで続いていた。行き止まりには亀甲墓があり、その周りには数カ所古墓が残っている。このうちのどれかが今帰仁子の墓かも知れない。(写真などは見当たらないので、違うかも知れない)


新井泉 (ミーガー)

深山ヌ井泉近く、南の畑の中に井戸がある。民族地図では新井泉 (ミーガー) となっている。新井泉と呼ばれているので、比較的新しい井戸と思われる。


穴井泉 (アナガー)

新井泉 (ミーガー) 之すぐ近くのビニールハウスの一画に穴井泉 (アナガー) がある。ここにはかつては小川が流れていたのだが、小川は枯れてしまったが、湧水が出る穴だけが残っていたそうだ。それを囲って井戸としたことから穴井泉といわれる。近所の人 (70歳よりうえと思う) と話したが、子供の頃には水は既にでなくなっていたが、今でも、集落の外からもこの井戸を拝みに来る人がいる。昔はこの井戸の水に助けられたのだろうと言っていた。


シードー井泉 (ガー)

集落から外れた伊原集落との境付近、東の畑の中に、小さな森が残っている。ここも集落にとってはありがたい場所で、畑にはせずにそのまま残っている。ここにはシードー井泉 (ガー) または、シーロー井泉、 タンバラ井泉と呼ばれている井戸がある。草が生い茂っているので、持参している鎌で周りの草を刈って、ようやく井戸が見えてきた。円形で石積みがされている井戸で今でも水が沸いているようだ。


古島 (フルジマ)

シードー井泉 (ガー) から北側に見える丘陵の麓から斜面には、屋比久集落が村立てされた最初の場所になる。伊佐良原というところだ。

屋比久古島と考えられている場所は二ヶ所ある。 まずはここに集落を造った。いつの時代かは不明だが、現在の屋比久集落がある場所に移り、更に現在の外間集落の北側にあった古島原に移動したとされている。この古島原が第二の古島にあたる。「球陽」によれば、尚穆王29年 (1780年) に「屋比久村を川麻志原 (現在の屋比久原で集落がある場所) に遷すことをゆるす」とある。「屋比久村はしばしば不幸の思いに遭う。人口が減少して甚だ哀微に及ぶ。 今、村地は肥えて、畑地は痩せているので収穫が少ない。ただ川麻志原だけは土地が痩せて堅く農業には良くない。もしその地に移したならば即ち、風水 (フンシー) は吉で水を汲み野に行くのに都合がよい。言うまでもなくまた雨が降る時、村中の泥水が流れて田んぼに入り多くはためになる。各役及び村民皆その地に移すことを請う。故にその請いを許す」当時は農業政策である地割制度 (寛文年間 1661 - 1672) が施行されており、村の移動は1731年以降は許可制となっていた。この地割制度では肥沃な土地にある村を強制的に幸地に適していない場所に移動され、それ以降の村の移動を禁じていた。呼びく集落からの請願は地割制度の趣旨に沿っていたので許可が下りている。

かつての最初の古島のあたり丘陵の斜面は墓群になっていた。墓に向かう斜面は段々畑だったのか、かつての集落跡なのかは分からないが、石垣で段々になっている。今は民家も畑もなく雑木林になっている。

幾つもの墓があり、その一つは墓の口が空いてあり、花が備えられて、墓の口には何やら紙が貼られていた。不思議に思っていたのだが、山を降りると道に多くの人が集まっていた。お坊さんも来ていた。先程の墓に納骨に来ているのだとわかった。みんなで山道を墓に向かって登っていった。

山に登る道はもう一つあった。その道も墓に通じていた。ここはひとつだけ門中墓があり、更に奥には古墓があった。古墓は昔使っていた墓で側にはガジュマルの大木が生えており、なんとも言えない雰囲気が漂っている。先に見た墓が当世墓で現在使われているものだ。


今帰仁墓 (ナチジンバカ)

もう一つの今帰仁子 (ナチジンシー) の古墓と伝わるものがある。北山が戦で敗れた時、今帰仁子は屋比久へ避難した。その子孫が後世にこの墓を建造したと伝えられている。その子孫の長男は大里間切稲嶺に、次男は知念間切安座真に転居したため、明治初期以降この墓は使用されなくなった。 同一門の位牌は、現在小谷家にあるといわれる。と資料にあった。ここでいう北山が敗れた戦いとは何だったのかが気になった。北山での大きな戦いは3つあるだろう。❶ 1322年に怕尼芝 (後北山) が北山の仲昔今帰仁按司丘春とその長男の今帰仁仲宗根若按司 (中北山) を滅ぼし北山王国を樹立した。❷ 1391年に中山王武寧が北山に軍事遠征をおこなっている。➌ 1416年の尚巴志が北山の攀安知を滅ぼした戦い。この3つの戦いで、➌は尚巴志と北山との戦いで、屋比久は今帰仁子にとっては敵の本拠地にあたるので、この地に逃れてきて屋敷を構えたとは考えにくい。❷は大きな戦いには発展せず、北山が敗れたわけではなく逃走する理由はない。➌が可能性が一番高い。これは北山内での王権を争った戦いで、敗れた中北山系の士族の多くが、中山や南山に逃れてきている。尚巴志はこの中北山系士族を関係を深め、後北山の怕尼芝を滅ぼしている。中北山の逃れてきた士族は手厚く迎えられていたと思える。


須久名 (スクナ) 森 (ムイ)、須久名嶽 (ソコニヤタキ)

今帰仁墓 (ナチジンバカ) の北東丘陵は須久名 (スクナ) 森 (ムイ) と呼ばれ、その上には屋比久集落住民が御願していた須久名嶽 (ソコニヤタキ) が存在していた。琉球国由来記のソコニヤ嶽 (神名: キミガタケツカサノ御イベ ) にあたり、「此嶽、西方八屋比久村ノ拝所、東方八知念 間切知名村ノ拝所也」 と記されている。 現在、御嶽があった場所一帯は守礼ゴルフ場になっており、その所在はわからなくなっている。ソコニヤ嶽はかつては屋比久ノロにより年浴、麦初種子ミヤタネが司祭されていた。所在が不明となった今では、屋比久集落内のお通し (ウトウシ) から遙拝されている。また、この御嶽は知念間切知名村の拝所でもあった。


これで、旧佐敷村のすべての集落巡りは終了。次回からは南城市にある4番目の間切だった旧知念村巡りに移る。


参考文献

  • 佐敷村史 (1964 佐敷村)
  • 佐敷町史 2 民俗 (1984 佐敷町役場)
  • 佐敷町史 4 戦争 (1999 佐敷町役場)
  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
  • 尚巴志伝 (酔雲)
  • 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)