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「宇田川源流」【日本万歳!】 「瑞穂の国」日本において「米の日本一」を決める切磋琢磨

2021.11.28 22:00

「宇田川源流」【日本万歳!】 「瑞穂の国」日本において「米の日本一」を決める切磋琢磨


 月曜日は「日本万歳!」をお届けしている。特定の国以外、世界で信頼され、そして愛される日本人のすばらしさを、日本人の生活の中で探し出し、そして我々の中にもその日本人のすばらしさが内包されているということをしっかりと考えてゆきたいという連載である。誰か一人のヒーローがいるというのではないし、また、何か特別な悪い人間がいて、そのことから殷洪人全体が卑下してしまって委縮するというのではなく、日常の「名もなき」といえば失礼な言い方であるが、実際に、普段普通に暮らしていて、ニュースなどに取り上げられない日本人の一般的な生活習慣や、日本人の日常にスポットライトを当て、その生活の中に、世界とは異なるというか、世界の各国にはあまりない日本人のすばらしさを見てゆこうということをしている。

 もちろん、世界各国に行けば、煮たいような現象はあるであろうと思うし、また、日本人だけを特筆すべき内容ではないのかもしれない。しかし、それが日本人の日常全体の中に入りこみ、「日本人として普通」という、特に注目もしないような内容の中に、実は日本人のすばらしさというのは隠れている。そのように思うのである。

 私などは、海外の人と話すと「一つ一つの日本人の日常」は、どこかにあるし、また似たようなことを行うことは少なくない。しかし、その内容を組み合わせたり、あるいは「やり続ける」という勤勉さは、他の国にはあまりないのかもしれない。日本人は何よりも、そのように続けること、そしてまじめに行うことに関してその内容に疑問を持たないということが最も優れているのであり、それを「常識」として、疑わずに継続することができる。そしてそれを常に改良し、何とかより良くするという努力を全くいとわない字、また、その改良した結果を、一人で独占するのではなく、多くに人と共有し、全体が底上げできるというような形になっているのではないか。あまり日本人は「権利」とか難しい話をせず、全体がよくなるということを考える性質があるので、なかなか良い話になる。

 そのように考えれば、実は日本人はどの分野においても、日本人のすばらしさを共有しているのではないか。

「日本一」の米決定 「コメワンGP」で岐阜の「いのちの壱」に栄冠

 全国の農家自慢の米から「日本一」を決める「米―1(コメワン)グランプリ」の決勝大会が21日、北海道蘭越町であった。

 10回目の今回は全国から295品の応募があり、岐阜県下呂市の「源丸屋ファーム」が出品した「いのちの壱」がグランプリに輝いた。

 295品のうち北海道内からの出品が187品と約6割を占めるが、そのほかは米どころの新潟県や遠くは鹿児島県からも応募があった。全国の調理専門学校の生徒などの食べ比べの結果、30品が決勝大会に進出。予選を経て6品が最終審査に進んだ。

 過去9大会でグランプリに輝いた銘柄は、道産米の「ゆめぴりか」が7回、いのちの壱が2回。今回も最終審査に進んだ6品のうち、3品がゆめぴりか、2品がいのちの壱と強さを見せた。

 源丸屋ファームは第2回大会に続く「日本一」。代表の曽我康弘さんは表彰式で「前回のグランプリから、より安全で安心なお米が作れるかを考え続けてきた。受賞を会社のみんなに知らせたい」と話した。

 準グランプリは北海道赤井川村の石川隼人さんのゆめぴりかと、蘭越町の三上智祥さんの「ななつぼし」だった。(鈴木剛志)

2021年11月21日 21時14分 朝日新聞デジタル

https://news.livedoor.com/article/detail/21230684/

 切磋琢磨ということになれば、様々な意味で日本では「頂点」を目指すことになっている。実際に、日本とかインドネシアのような「島国」では、ほかにこだわるところがないので細かいところにこだわり見えないところまできっちりと仕上げるようなところがある。閉鎖された環境の中にいると、人間というのは細かいところに目がゆくようになるし、また、細かいところや人が見えていないところまで仕事で手を抜かなくなるという性質がある。

 例えば、船乗りが編み物が得意で、意外とその編み物のクオリティが高いとか、あるいは、刑務所に入っている人の仕事が意外と丁寧で、また細かい細部まできっちりと仕事ができているというのは、まさにそのような人間の性質によるものである。インドネシアの「籐細工」なども、日本の職人芸と同じようにその細かさに関しては大陸には存在しない特徴ではないかという気がする。

 当然に、その内容は日本人のお家芸であっても高みを目指すというのは、かなり様々な内容になってくるということになる。日本人は「道」というように、その内容を考える。何かを極めることを「道を進む」というように表現し、その道を知り尽くし極めることが重要である。そしてその道は一本道でありながら様々な道と交差しまたは平行に走り、そして最後に行き着く場所は似たような場所になるというような考え方を持っている。「茶道」「柔道」「剣道」「香道」など、様々な内容に道をつけ、極めるというような形になる。

 さて、「米作り」には「道」を言う言葉がない。一つには、当然に農業が道だけではできないからである。農業は「太陽」「土」「水」「風」「雨」などの自然状況に合わせて、同じ内容を行うということが重要なのであり、人間が道を究めるものではなく、神の作用によるものが大きいということになる。つまり、人が道を究めるものではないということになる。これは、酒に関しても同じであり、また、農業などに関しても同じだ。それは、神にかかわるところであるからに他ならない。

 しかし、では「神に責任を転嫁する」のではなく「人ができることは、極める」まさに「人事を尽くして天命を待つ」ということになる。このことこそ、日本人の最も素晴らしいところではないか。つまり「神」いや、現代で言えば天候などの自然現象に関して、そこに妥協することはなく、自然現象と共存して人事を尽くすことによって最高のものを作り出す。これを「日本中の農業関係者が切磋琢磨する」ということになる。その姿勢こそが日本人の物づくりのすばらしさであり、また、その努力が日本人のすばらしさになるということになるのである。

 源丸屋ファームは第2回大会に続く「日本一」。代表の曽我康弘さんは表彰式で「前回のグランプリから、より安全で安心なお米が作れるかを考え続けてきた。受賞を会社のみんなに知らせたい」と話した。<上記より抜粋>

 まさに「安全で安心なお米が作れるかを考え続ける」この姿勢こそが日本人のすばらしさではないか。そんな米を、明日からもまた食べられる幸せが日本人にはあるのではないか。