07. ご利益はない方がいい
日本は、四季と豊かな自然から多くの恵みを得、また天災によって失うこともありました。そのため心の根底にあるのは人間がコントロールできない自然への畏敬の念。昔より神さまとともに生活をし、信仰してきた国でした。
自然そのものに神が宿ると考え、その中で生かされている存在であることを常に忘れない。他の生き物を食べることで自らが命をつないでいること。そうしなければ生きられない自らの弱さを認め、自然の恵みを頂く感謝の気持ちが「いただきます」に込められているように感じます。
旅のお土産でお守りをいただくことがあるのですが、手にすると不思議な気持ちになるのです。八百万(やおよろず)の神を祀る民俗信仰があった当時のお祭りや、お札、お守り。対する現代のそれらのもの。少し様子が異なるように思えてしまうのです。 一体なにが違うのでしょうか。
昔の素朴な信仰心を持っている人は現代にどれほどいるのでしょうか。いつのまにか神さまを信じない国になってしまった。多くの現代人の『信じる』は、困ったときに万能猫型ロボットに助けを求めるようなカンカクなのかもしれません。
最近では、神社のお祭りもただの伝統行事、イベントになってきているように感じます。神社に行くのは、正月や願い事があるとき限定。商売人は商売繁盛、受験生は合格祈願。そこで授かる様々な種類のお札や色とりどりのお守りはなんだかグッズのよう。信仰はいずこへ…?ですが、ご利益をいただくという歴史だけはしっかり受け継がれているようです。
『ご利益は誰のために』
幸せを願い手を合わせ真剣に祈る。その気持ちは純粋なものかもしれません。家族の健康を願ったのかもしれないし、世界平和を祈ったのかもしれない。この「祈り」を通じて神さまに願いが届けば叶うとされる『ご利益』。
無神論者で無宗教だけれど、純粋な祈りならば神さまは聞き入れてくださるのでしょうか?人びとがご利益ばかりを願いにくる場所で、神さまはじっと見守ってくれているのでしょうか?そんな人間にとってだけ都合の良い解釈はないと考えるのが自然なように思います。
偉大な存在であるほど、人間にこう言うのではないでしょうか?
『自由に生きよ』と。
人間に平等に与えられた自由意思。信じる自由もあれば、信じない自由もある。全ては自由であるゆえに、その結果は自己責任であると。
ご利益を求め各地を回る。現代日本ではこの行為によって神さまではなく、不道徳なレイコンと接触する確率が高いという現実は知っておいた方がよいと思います。ご利益目的の参拝は思わぬ危険をはらんでいるようです。