ねこみみプリンセス 03 まだおうちに、かえれないー?
次の日の朝が来た。
畳の感触を裸足の足に感じながら、カサンドラが障子を開けると眩しいくらいの光が差し込んできた。
旅先では、朝日までもが違う香りに感じるものなのだな、と思った。昔はこんなことを考えたことはなかったのに。
「……姫、姫、朝ですよ。そろそろお目覚めになってください」
「もにゃもにゃ……。ふなもりたべきれないー」
「もう朝ごはんの時間ですよ、姫」
やさしく揺り動かすと、瞼を重そうにしながらも姫は起きた。ねこみみが倒れっぱなしなのを見て、カサンドラは思わず背中を向け、布団をにぎりしめてこっそり萌え狂う。
「どうしたのー、じゃぱんー」
それに気付きもせず、姫はボサボサの頭で、同じようにゆさゆさと小さな妖精を揺り動かした。
いつもは元気に悪態をつくじゃぱんが、具合が悪そうに、動かないのだ。
「姫。どうせ酒でも飲みすぎたのでしょう。急いで支度をしなくては、チェックアウトに間に合いませんよ」
カサンドラは姫の服の埃を瞬時に払い、そう声をかける。
「……でも、かわいそうだよー、うごいたらー、ぐえっとなるよー」
そんな姫の言葉に、なんとお優しいのだろうと感涙しそうになるカサンドラ。
仕方なくじゃぱんの様子を見てみると、なるほど顔を赤くしてぐったりしている。妖精は病気には普通かからないものだが……。じゃぱんのエレメンタルは水属性だし、温泉で人間っぽく体調を崩したのかもしれない。
「わかりました。プラータ殿に聞いてみましょう。謎な男ですが、治癒魔法のひとつも使えるかもしれません。妖精に効くかはわかりませんが」
カサンドラは部屋を出て、ぺたぺたとスリッパで歩いていった。
流石にプラータと姫たちは部屋は別である。隣の部屋であってもカサンドラが落ち着かないので、プラータは二階上の部屋をとってあったのだが、そこにプラータはいなかった。
「あの男……、まだのんびり風呂でも入っているのだろうか」
踵を返そうとしたその時。
カサンドラは足に、重い何かの抵抗を感じた。
「!」
そのとき部屋の畳に浮かび上がったものは、魔法陣だった。しかも次元魔方陣だ。
この魔方陣は、異次元に繋がっている。広さは術者の能力によるが、抵抗の強さからいって、なかなか大きなものだという印象を受ける。
和風な畳に、薄緑の光が筋となり、文字を刻んでいく。
その魔方陣の中央から、細い手が現れ、カサンドラを手招いた。
「……カーさーんー」
小さな手。声。それは姫のものだった。一瞬痙攣したカサンドラはしかし思い直し、手に向かって叫ぶ。
「……お前だなプラータ。なんのまねだ。姫のふりをしただけでも死罪に値する!」
細い手は力なく沈んでいった。かわりに金茶の髪が現れ、浮かびあがった。やはりプラータだった。いつもの微笑で、しかし不敵に、カサンドラを見つめている。
一閃。
カサンドラの剣がプラータの服を切った、はずだったが、感じたことのある音と抵抗とともに、剣ははじかれた。
プラータの額飾りが、砂のように分解した。魔法具のようだ。見ると体中に、飾りや呪符がついている。それぞれはとても小さく精巧だ。かなりの魔力を感じるが、それでもカサンドラの瞳は迷い無い。
彼女は経験から、瞬時に正確に魔法力を計り、攻撃力を見抜いている。この程度では、カサンドラの優位は全く揺るがないのだ。
「やれやれ、もつかな」
プラータは頭を軽くかきながら何かの本を開いた。
カサンドラも知るそれは、セルゲムスの魔法書。魔力と術の秘められた本は術者の思うままに一文節ごとに異界の扉を開き、魔法を紡ぎ始める。
ページが舞い飛び、それは絶対零度の極小の氷の針となって、カサンドラを包み始めた。その細さと膨大な量は、あたりを霧がたちこめたように見せるほどだ。
その煌く鋭い刃が、カサンドラの全身に突き刺さった!
しかし、カサンドラの血が飛び散ることも、氷の砕ける音もなかった。いつの間にかカサンドラは自らのローブをはいでいたが、その下ではびっしりと、黒色の柔らかな羽毛が身体を覆っていたのだ。その十センチほど表面で氷の針は全て弾かれ、無効化された。
「黒不死鳥のフェザーメイル……。直にみると、やっぱりすごいねえ」
どんな物理攻撃も、自動的に黒羽とその魔力で柔らかく受け流すという鎧だ。闇のエレメンタルに属すという、黒不死鳥との契約を交わしている。
「なんのつもりだ……。私に勝てると思っているのか。いまなら土下座して、城中のトイレ掃除をし、二度と姫に近づきませんと誓えば、許してやるぞ」
よくわからない条件を出すカサンドラ。
しかし、プラータは不敵に笑うだけだ。
「……カーさん、たすけてー」
「!? 姫!」
プラータの足元から聞こえてきた声が、命取りとなった。
一瞬の油断とともに、カサンドラは背後から縛めの呪縛をかけられた。
「……く、っ! なにっ、お前は……」
見るとプラータではなく、黒いローブを目深にかぶった男がカサンドラの背後から呪をかけている。プラータはもう一つ次元魔方陣を発動させていたのだ。
「まさか無詠唱呪文が使えるとはな……。お前は、ただの王子ではない……、ぐ!」
微笑むプラータ。いつもと何も変わらない笑顔を、緑の魔法光が照らしている。ゆらめく影は、何か恐ろしいものを秘めているように見えた。
「アンデッドフェザーは、精神魔法には無力だからね。君は攻撃も防御もどうしようもなく高いよ。ただ姫のこととなるとちょっと弱い。そうだろう。人が、人である限り、弱点はあるんだよカサンドラ」
何を、とカサンドラは精神を凝らす。こんなピンチは数限りなく受けてきた。拷問にかけられたこともある。でも私は屈しなかった。決して! 指を全部折られても、身体を焼かれても!
「……カーさんは、すごいねー」
涙が、浮かんでくる。姫の言葉。
「つよいしー、えらいしー、びじんだしー」
小さく、しかし白くて可憐な城だった。古くて何もない国、ミスリン。
ここは精霊戦争のあと諸国を流れゆき、ふと来てみた場所のひとつだった。
この小さな庭で微笑む、小さな姫の賞賛の言葉にも、カサンドラは愛想笑いで返した。賞賛は聞き飽きていた。同じ言葉、同じこと。
勝者にはいつも人は賞賛する。しかし、敗者には限りなく残酷だ。ただそれだけのことだ。人は、いいところだけしか見ない。
「でも、私の身体は、傷だらけですから……」
カサンドラは腕をまくって、小さな姫に傷だらけの身体を見せた。
思う。ああ、自分で見ても、醜いな。
熱さにただれ、ひきつれ、紫に変色した身体。
その身体で、姫は泣いてしまうと思った。泣けばいい。平和は悲しみや醜さの上に成り立っているのだ。数人の勇者の輝かしい武勲だけで成り立っているのではない。多くの死が、作り上げたものなのだ。
しかし、姫は少し大きく息をして、言った。
「カーさん、カッコいい……」
「へ?」
「カーさん、カッコいい……」
ついまぬけな声を出してしまったカサンドラに、眼を輝かせる姫。
「姫、あのですね、これは、痛いのですよ」
動揺のせいか、わけわからん返答をしてしまうカサンドラ。
「たたかってー、ついたんでしょー?」
「は、はい」
「かっこいいー、がんばったのはー、かっこいいー」
尊敬の視線を輝かせて、こちらを見つめる姫。
きらきらと純粋さをたたえる大きな目は、何のくもりもなかった。ただ見たことも無い美しい水と光が輝いているだけだった。
誰の目にもいつもあったものがなかった。策謀。羨望。虚栄。嫉妬。皮肉。邪念。欲望。戦士が浴び続けることに、疲れたもの。
正直言うと、カサンドラは、生き残ったことに失望していた。守るものがあって戦ったわけではない。戦ったのはただ死にたくなかったからだ。
生きて受けた賞賛も、名誉も、長寿も。カサンドラにとってはむなしいものだった。
思い出すのは血と腐臭のなかで戦った日々。死んでいった仲間。
心はあてもなく、空虚だけが広がっていく一方だったのだ。
カサンドラは、もう一度姫を見る。
この無邪気な姫は、嘘はいわない。それだけは真実のようだった。
誰もが眼をそむける傷を、カッコいい、と言ってくれた。他の者の言葉なら信じられないが、この素直すぎる姫の言葉は信じることができた。
いままでは地獄の中で戦い、生き残った自分を、ただ運の良い存在としか思えなかった。
けれど今初めて、そんな自分をカッコいいかも、と思うことができた。姫がそう、言ってくれたから。
気がつくと、カサンドラは涙を流していた。
「なぜなくのー?」
心底不思議そうに尋ねる姫。
わからない。私にもわからないんです、姫。
カサンドラはただ流れる涙を、どうすることもできなかった。これで勇者とは、まったく笑える。ただ泣きたい気持ちに動かされて、カサンドラは泣いた。熱くて静かな涙だった。
姫はずっとずっと、髪を撫でていてくれた。
それからの月日、カサンドラの空白も、痛みも悲しみも、癒してくれたのは姫だった。
カサンドラは姫が好きだった。かけがえのない人として、いつまでも傍にいたかったのだ。
……いたかった、のだ?
何故だろう。胸が痛い。
ばかな、姫はここにいる。ここに。
私はずっと、姫を護り続けるのだ。永遠に。
カサンドラは夢を見ていたような気がした。
「カサンドラ。どうしたんだい。早く帰ろう? 兄上たちが待ってる」
いとしい姫が、そっと髪に触れる。
いつだって、たおやかで可憐で白くて優しい指。私の、何億人もの犠牲よりも大切なもの。何百年もの旅の果てにやっと見つけた、たったひとつのもの。
「はい……、姫。失礼しました。……なんでもありません。早くしなければ……」
「そうだね」
カサンドラは、プラータの傍にそっと立った。魔方陣の中からは、妖精じゃぱんが浮かび上がる。
「すげーな……。あの凶暴女カサンドラを……。もう大丈夫なのか?」
黒く虚ろな目の前を、ひらひらと飛び回るじゃぱん。
「うん。解呪しないと、永遠にこのままだねー」
プラータはのんびり笑う。この最高の戦士は、自分を護るために命がけで戦うだろう。自分をいとしいのんびり姫と思い込んで。
にこにこと笑いながら、プラータは言う。
「おもしろいねー。じゃぱん」
「そんなことより!」
浮いているくせに地団駄を踏むじゃぱん。
「判ってるんだろうな! あのポエポエ姫を殺して! 俺の呪文を解除してくれる約束を!」
「わかってるよー。じゃぱん君。でも姫は、何かあったときの切り札に使わなきゃだからねー。まだ駄目だよ。で、姫は?」
「眠りの魔法で、あっさりグースカ寝てるよ!」
「私はもう、行って良いのか?」
黒衣のローブの男が、いさかいに水を入れて尋ねる。
「ああはい、ジェオートさんご苦労さまでした」
「また何かあったら、呼んでくれていい。退屈に、飽いているから」
軽い音とともに、男は、魔方陣を通って去っていった。
「すごいな、あいつは」
「ああうん。彼は、昔カッテラージとかいう国の王に邪妖精を送り堕落させて、宰相に実権を握らせたりして、すごい人なんだよー。それからあそこは、えーと何百年もめてるっけ」
「……あんたなにげに……」
「さて」
プラータは一つ伸びをして、言った。
「ねこみみプリンセスに、引導を渡してくるかな」
じゃぱんは、ぞくりとした。
その表情は、心底楽しそうに見えたから。
……オレは、失敗したのだろうか? とじゃぱんが思ったのは、この時が最初だった。