ねこみみプリンセス 15 うしなうもの
ミスリンの城は、封印を守る殻にすぎない。
ミスリンの国も、ただ封印の上に建った国にすぎなかった。
まるで、古い剣に土をかぶせ、その上に植物が咲いて森ができるように、誰からも忘れ去られようと望んだとしても。
カレニーナは、雲の上から、割れた国土を見下ろしていた。
「ぶーたん……?」
海風が、焼けた匂いを吹き流す。
「カレニーナ?」
いぶかるジョスリンにもかまわず、雲をすいー、と降ろすカレニーナ。地面に着く間もなく、姫はひょいっと降りる。ぽて。
そこに、カサンドラがあわてて駆けて来た。
「姫、まだ雲の上にいてください。ここはまだ危険です」
「カーさん、カーさん、ぶーたんがいるー、きてるー」
「え?」
「ぶーたんー……」
「ああっ、姫!」
たったかたー、と、姫は駆け出して行ってしまった。あわてて、徒歩で追うカサンドラ。
取り残されたジョスリンも追おうとしたが、低い声が引きとめた。
「お前が行くこともあるまい」
父の声だった。振り向くと、父が一人で立っていた。見ているものはジョスリンではなく、海だった。
城の向こう側に見える、どこまでも青い海。
「……父上」
あたりを見ると近くに人影はなく、遠くで兄が残った兵を集めている。父王はもうジョスリンにかまわず、城の方へ歩いていった。ためらった後、数メートル離れてジョスリンもついていく。
「……この国の王たちは命に別状ないそうだ。残念だったな」
残念だった?
王は、明らかにジョスリンに話しかけた。それはとても稀なことだ。いいやそれはどうでもいい。
重要なのは、残念だった、と言ったのだ。
「お前は、どうして私がこの国に来たと思う。わかっているか?」
残酷なことを言おうとしている。
そんな予感がして、ジョスリンは一瞬身をこわばらせる。
「この国には、海と、世界の封印がある。海は富であり、封印は権威だ。二人の王が死んでいれば、そのままこの国を奪うことができた。まあ残念なことに生きていたが、恩は売ることができた。恩を売れば、この小さな国は後でどうとでもできる」
わかっていた。
ジョスリンはわかっていた。姫に対する同情などはない。マーガライトへの恐怖も。十三層の危機も。父にはどうでもいいことなのだ。
父はただ、国に益することだけを貪欲に求めている。死さえもいとわない。ただ国王として、それだけを求めて生きているのだ。
それでも何かを言いたくて、そんな父に反抗したくて、ジョスリンは唇を動かそうとした。
「……父上、私は……」
「ジョスリン、お前は何故ここにいる?」
え?
気がつくと、父は振り向いていた。
「お前は昔、母親に会いたいと言った。だめだというと、諦めた。何故だ?」
身体がこわばる。
なに?
うまく動けない。
何を言われているのか、わからない。
「魔法学校に行きたい、という言葉に、私は期待した。お前も自分の力を持ちたいと思ったのだと。しかし習得もそこそこに帰ってきてしまった。必要ないから戻れと言っても、帰らなかった。お前は何を考えている? 母親に会いたいなら、何故力づくでも会いに行かない? ここで、ただ無為に日を過ごして、お前は何のために生きている」
頭の中が、真っ白になった。
わたしは。
わたしは、いつかどこかに嫁ぐのかと思っていた。それだけだと。
だが考えて見れば。
そんなことを言われたことは、一度もなかった。
いや、嫁ぐとか嫁がないとか、そういうことではない。
問題は、私が、何もしなかったということ。
無力な上、姫という場所に甘え、力を持とうとしなかったこと。
……父は、私を軽蔑していたのだ。
少し時が流れたように思う。
父は背を向け、また歩き出した。海へ向かって。
私はその場にへたりこまず、力を振り絞り、そっと、駆け出した。
どこかどこか。
泣き出してしまえる場所へ行かなくては。
泣いているところを誰かに見られたら。
僅かに残ったプライドさえも粉々になって。
もう二度と立ち上がることができなくなってしまいそうだったから。
それを誰からも忘れ去られようと望んだとしても。
真実はそこにいつも、眠り続けている。
洞窟には、青い結晶がほとんどなくなっていた。
層に繋がる門を限られた場所に集め、扉を作り、そこに集中して封印を施す。
二人の王も、軽く身支度を整えただけで、休まずその様子を見続けていた。
この封印の国の王として、全てを見届けなくてはならないのだ。
幾つあるのかわからないほどに、数え切れない扉が作られ、そして封印の結晶の色は、一つ一つ、全て違っていた。
そんな作業が全て終わりかける頃に、プラータが現れた。
「やあ」
二人の王を見て笑いかける、他国の王子。
いつもと変わらぬ様子に、全ては夢なのではないかと思えた。マーガライトは青年に進みよる。
「プラータ。身体を見せてください。少しは何かできるかも」
「……どうかな? 無駄だと思うよ?」
軽くローブを脱ぐと、その場の全員が息を飲んだ。
肉体に刻まれた、数え切れないほどの紋章。しかしそれも体の僅かな部分にすぎない。その身体の八割は、結晶化していたのだ。
透き通る体、腕。顔の左半分ももう結晶に侵され、口を開くことも、表情を形作ることもできない。
普段見せていたプラータの姿は、全て幻影にすぎなかったのだ。
魔術師が少し光を帯びた手を身体にあて終わると、ローブを直す。
もう青年の顔は、いつもの姿に戻っていた。
「痛いでしょう。結晶が細胞と入れ替わるとき、刺すような激痛が走るから」
「さあ……、痛くなかったことなんてなかったから。いや、そうだね、夢を見ているときは痛くなかった。夢の中でも痛い夢をみるときはあるけれど、楽しい夢をみていれば、痛みもなくて、幸せだった」
二人の王は結晶化を知っている。自分達の母親が死んださまを見ていたから。
「プラータ……、君は、十三層の人間じゃなかったのか?」
「いいや、半分はそうだよ。十五層のことは聞いているかな。そこは『歪んだ鏡の世界』、この十三層と対になっているけれど、少しだけ違う世界。僕の母は、歪みに巻き込まれて、この層に来た。知らなかったんだ。ほとんど何も変わらないけれど、この層の人間との子供を産むと、結晶化が起こることなんて」
母は、僕を産んだから体内で結晶化が進んで死んだ。
そして父は、苦痛にうずくまる僕を、役にたたないと言って、捨てたんだ。
プラータがさらりという口調は、いつもと変わりは無い。しかしこれも幻影なのだろうか。真実の姿など、誰も見たことがなかっただけだったのか。
「こうするしかなかったのか? 他に方法はなかったのか?」
弟王が尋ねる。
「試す方法は、全部試した。この層のどんな場所にも行った。一つの場所に留まると結晶化の進みが速いから、どこまでも旅をしたんだ。もう十五層に行くこと以外、方法は見つからない。結晶化が止まらなくてもいいんだ。僕はここにいたくないんだよ。ここにあるのは痛みと放浪。十三層がずっと憎かった。死ぬなら十五層で死にたいんだ」
ふむ。
マーガライトは、床にいたネコを抱き上げて、言った。
「結晶は十五層寄りに安定しかけています。確かに十五層に行ったら、結晶化が止まる確率は高いですね。治す手段はあちらにも無いかもしれませんが、歪んだ鏡の世界ですから、こちらには無いものがあることもあります」
「そうだな。どのみち、もうここにいれば命はもつまい」
ネコも相槌をうつ。
そして一人と一匹は、扉を見つめた。
扉の前は、短い階段になっている。
プラータが軽く会釈をして、階段を登ろうとしようとしたとき、兄王が言った。
「最後に、カレニーナに会わないのか」
「会わない」
思いのほか、きっぱりとした言葉だった。
「あの子に顔を合わせることだけは、できないよ」
てとと。
とたたたたたー。
そこに、皆が同じ人物を想起する、あの足音が聞こえてきた。
「ぶーたーんー!」
「姫、姫、お待ちください、転んでしまいます、姫」
一同に流れる微妙な空気。
息を切らせて、カレニーナが現れた。続いてカサンドラとじゃぱんも。いつもあったねこみみは、もう無い。
「……やあ姫」
プラータは、階段の上から声をかける。
「ぶーたんどこいくのー」
「楽しい夢を、見にいくんだよ」
その言葉に、一同は固まる。カレニーナは息を整えつつ、言った。
「もうあそびにきてくれないのー」
「うん、二度と会わないよ、姫」
その言葉を聞いて。
姫はとたたた、とプラータの傍に駆け上り、抱きついた。がしっ。
「いやー」
「姫?」
「いやー、いやー」
思いのほか、強い力だった。プラータは軽く外そうとしたが、姫は離れない。
その様子に、流石に困った表情を浮かべて、プラータは上から、その姫の青いつむじを見ていた。
兄王も、そっと声をかけて諭そうとする。
「カレニーナ、プラータはこの層を離れないと死んでしまうんだよ。行かせてやりなさい」
「いやー」
それでも姫は抱きついたまま離れようとはしなかった。
皆が驚くほどかたくなな態度。
その様子に、カサンドラは気付かなければよいことに気がついてしまった。
姫は。
プラータがすきなのだと。
「ぶーたんいっちゃやだー」
「困ったな、てっきり嫌われてると思ったから」
「むー」
姫は必死でプラータにしがみついている。
「姫、僕は嘘つきで、意地悪で、人殺しなんだよ。姫の傍にいちゃいけない。姫はもっと心の温かい人に囲まれていなくちゃ」
「ぶーたんー」
「姫、これからは僕の悪いところだけ思い出して。憎んで、忘れて」
「いやー、ぶーたん、いっちゃいやー」
ただ嫌がり、かぶりを振り続ける姫。もう何を言ってもダメだろう。
プラータは一つ息をつき、軽々と姫を抱え上げると、二人の兄王に渡した。
そしてあっという間に駆け上がり、扉の向こうに消えていった。
「!」
あわててカレニーナが振り向いたとき、もう、階段の上には誰もいなかった。
すぐさま一人と一匹によって封印が開始され、扉の隙間は小さくなっていった。
封印の光が満たす、幻想の空間。
そんな中、カサンドラが呆然と見ていたのは、姫の目にひかる涙だった。
姫。
わたしの、姫。
永遠に、泣いたりしないでください。
「……姫、姫があの男をお望みならば、私が地獄の果てまでも追い、連れ戻してさしあげましょう」
カサンドラの、震えるような声がした。
「! カーさん!?」
カサンドラには、驚くほど迷いはなかった。それはやっと人が通れるような、僅かな隙間。
赤い戦士は、目にもとまらぬ速さで扉の向こうへ飛び込んでいってしまったのだ。