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粋なカエサル

「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」15 禁裏御守衛総督

2021.11.27 04:54

 横浜鎖港方針の幕府の側に立って参預会議を解体に追いやった慶喜だが、いくつかの点をここで確認しておきたい。まず、幕府の「鎖港方針」について。幕府は日米修好通商条約に続き、イギリス・フランス・オランダ・ロシアともとも相次いで通商条約を結んだ(安政の五カ国条約)。そして、外交体制を整備するとともに、各国公使館が江戸の寺院などを借りて開設された。このような幕府の「開国方針」が転換されるのは文久3年(1863年)。朝廷から執拗に攘夷実行を迫られ、将軍家茂が自ら上京し、朝廷へ攘夷の誓約を行った。当時の幕府の大方は開国派。彼らは、攘夷の名のもとに鎖港談判に取り掛かれば戦争になり、開戦すれば西洋諸国を相手に勝算はないと考えていた。それにもかかわらず「鎖港方針」に転換したのは苦肉の策。攘夷実行という朝廷の意志を奉じて(奉勅攘夷)政務を委任されるかたちを作り、実質的には武力衝突(戦争)を回避しようとしたのだ。幕府は徹底した避戦方針をとる一方で、攘夷実行の中身を「交渉による横浜鎖港の実現」にすり替えようとしていたのだ。

 もう一つ確認しておきたいのは、参預会議を解体させても幕府の慶喜への不信感は払拭されなかったということ。家茂の後見職として将軍に直属する身の慶喜が、幕府の枠を超えた参預会議に加わった時点で、幕府の慶喜への疑惑は決定的になっており、参預会議を解体して幕府の主導権を回復させてやっても、慶喜の人気回復の材料にはならなかった。

 元治元年(1864年)、慶喜は将軍後見職を辞し、新設のポストである「禁裏御守衛総督」・「摂海防禦指揮」に就任する。それは慶喜の強い希望によるものだったが、京を防御する職ならすでに京都所司代・京都守護職が設置されている。それにもかかわらず、固有の軍事力も経済力もないに等しい慶喜が、当然それを必要不可欠とするポストに就くことを強く希望したことは、当然不審の眼で見られた。この慶喜の転職希望はどう理解すべきだろうか?そもそも「禁裏御守衛総督」・「摂海防禦指揮」は、徳川政権ではなく。朝廷がまず任命し、幕府がそれを追認したことからも明らかなように「朝臣」職の色合いが濃いポスト。「将軍後見職」同様、ともに将軍の代わりをつとめるポストであったことに変わりはないが、それに就任することは、忠誠を尽くす直接の対象が、将軍から天皇へと大きく変わることになる。慶喜は、将軍に直属するところから解き放たれて、朝廷直属になるのである。

 このように慶喜は、転職によって天皇(朝廷)との結びつきを強め、何かと自分に疑惑の目を向ける徳川権力ではなく、朝廷サイドにむしろ自分の政治基盤を求めた。もちろん、それは江戸の幕府首脳や幕臣から、「京都方」と疎まれることにもなったが。さらに、慶喜の転職希望の理由には、薩摩藩の思惑への対応も関係していたようだ。慶喜は、これより前、側近の平岡円四郎を通して、島津久光に禁裏御守衛総督就任の希望があり、藩士に大坂湾の防禦について調べさせているとの情報を聞きつけた。朝廷に深く入り込んでいた薩摩藩に対する警戒を強めていた慶喜が、先手を打ったという側面もあったと思われる。

 念願かなって元治元年(1864年)3月25日、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に就いた慶喜は、すぐに御所警備プランを提示する。これにより諸大名は御所九門の警備からはずされた。もちろんその狙いは、諸大名の京都警備に名を借りた滞京を阻止して帰藩を促し、諸藩(特に有力外様大名)の朝廷への影響力を排除しようとすることにあった。また、4月7日、いっとき軍事総裁職に遷(うつ)されていた松平容保が京都守護職に復職し、4月11には容保の実弟である桑名藩主松平定敬(さだあき)が京都所司代に就任する。二人の実父、美濃高須の松平義建(よしたつ)は、水戸藩第六代藩主徳川治保(はるもり。1751-1805。水戸藩中興の祖。)の孫(慶喜の父徳川斉昭も同じく治保の孫)だから、京都には水戸血筋ばかり集まった。松平春嶽らはこれを「一会桑」(一橋・会津・桑名)と通称したが、これを江戸の幕府から相対的に自立した「一会桑政権」の成立ととらえる学者もいる。

「横浜異人商館」1861年

「横浜異人商館之図」1861年

芳員「横浜異人屋敷之図」文久元年(1861年) 

 左手が食堂、右手は調理場、その奥に理容室がある。外国人居留地内のホテルを念頭に描かれたもの。

「横浜波止場景色」1861年