沢村さくら 20周年記念インタビュー 2021年1月号より
2020年11月号と2021年1月号の合併号として発表した沢村さくらさん20周年記念のロングインタビュー。入門前の落研時代から20周年記念公演の話まで。今考えたら、よくここまでお話を聞かせてくださなったと。そう思えるくらいめっちゃ深い話してくださってます。浪曲のこと、曲師のこと、そしてさくらさんのこと、これを読んで初めて知ることが絶対あると思います。一回で読まなくていいですので、ぜひ全部読んでください!
目次
1.入門から東京時代
2.大阪での活動
3.20周年記念公演
4.DVD発売
1.入門から東京時代
―まず入門のきっかけから教えてください。
さ:きっかけは大学時代に落研にいて、寄席を見に行ってるうちに(国本)武春師匠にはまって、ライブにも行くようになったんです。それで、本芸の方を見とかなアカンなと思って、木馬亭に行き、木馬亭にも通うようになりました。
―学生の頃から木馬亭に通っていたのですか。
さ:はい。
―いきなり話が逸れてしまいますが、その時に今は亡くられた名人方も見ていたり。
さ:それが、私は微妙に間に合ってなくて。
隼:でも(三代目・玉川)勝太郎先生に間に合ってるんでしょ。
さ:勝太郎先生は間に合ってるけど。
隼:ぼくらの世代からしたら勝太郎先生は亡くなってた名人なんですよ。
さ:そうなんや。だけど、浦太郎先生は総会であってるんですけど、舞台は見れてないんです。見ようと思えば見れたのに。これはちょっと悔しいな。
―学生時代に落語より浪曲が好きだったんですね。
さ:落研の名簿に本名や血液型、好きな噺家とかを書く欄があるんですけど、私は好きな浪曲師を書いてましたからね。
―当時からそんなに好きだったとは。それでも卒業後は就職をされたんですよね。
さ:看護学部だったので、やはり看護師にならないとと思いまして。私が大学時代に佐藤貴美江さんとか伊丹明さん、奈々福さんが三味線教室一期生で、皆さんの卒業公演があったんですよ。私はそれを観に行ってて、この三人が教室からプロになることも聞いてたんですけど、私はプロになりたいわけじゃないから、私が行くならこの教室じゃないって思ってましたね。
―プロになることを全く意識されてなかったのですね。
さ:私は精神科のナースになることだけを考えてたし、働いてからも仕事に誇りも持ってましたからね。
―それだけ看護師の仕事に熱を持っていたさくらさんが、なぜ浪曲の世界に入っていったのか、すごく気になります。
さ:本当ですよね。浪曲がどんどん好きになっていったのもあるんですけど、ちょっと別の話で、私は学生の頃から三味線がすごい好きやったんで、卒業したら三味線を習いたいと思ってたんです。ただ浪曲協会の教室はプロ前提やから選択肢になくて、家から近かった柳家紫文師匠のところに卒業と同時に習いに行ったんです。
―就職後も三味線は続けてたのですね。
さ:習ってるうちに、紫文師匠が自分と弟子とで「柳家紫文と東京ガールズ」というのを結成して活動し始めたんですよ。そこで私は三味線をやることになって。
―和楽器のアイドルみたいな感じですかね。
さ:私がぶっちぎりの最年少でしたけどね(笑)。それで東京ガールズがお座敷かかったりするんですよ。それがけっこう忙しくて、そのうち、何をやってるんだろって思えてきて、こんなんやってるなら好きな浪曲をやった方がええって考え出したんです。それで、どこに入ろうかなって考え始めて、2年くらい経ってますね。
―2年も!看護のお仕事もしつつ、すごく考えられたのですね。その結果、なぜ豊子師匠に入門することになったのでしょう。
さ:当時、豊子師匠って今ほど舞台によく出てきてなかったんで、私も豊子師匠の三味線をほとんど知らなかったんです。それで迷ってたんですけど、国友先生の会に行った時に、豊子師匠が弾いてるのを聴いて、「これだ!」みたいな感じで。
―それで豊子師匠に入門することを決めたのですね。
さ:そうですね。それから、武春師匠に繋いでもらって。
―既に武春師匠とお知り合いだったのですか。
さ:ロックの三味線を弾く「ちとしゃん塾」っていうのがあって、それにも行ってたんで。
―そんなのにも行ってたんですか。
さ:一日義太夫教室とかにも行きましたよ(笑)
―紫文師匠だけでなく武春師匠のお稽古も行って、本業では看護師してるって多忙過ぎませんか。
さ:夜勤も出張してましたからね。
―ようやってましたね(笑)。
さ:本当忙しかったです。
―それは体のためにも早く入門した方いいですね(笑)。それで武春師匠に口利いてもらって、豊子師匠にお会いしたのですか。
さ:(豊子師匠の)家に行くことになって。細三味線でいいから持っておいでって言われて行ったら、岩崎節子師匠と玉川美代子師匠が泊まりに来てて、豊子師匠と三人がワーワー言って、「騒ぎってどう弾くの」とか聞かれて。
―逆に教えるみたいな。
さ:そうそう、私が音曲の手を弾いて。そしたら国友先生が縁側から遊びにきて、(豊子師匠が)「ちょうどよかった先生、節やってよ」ってなって、お稽古してもらってそのまま入門したみたいな。
―当時は茨城まで通ってたのですよね。
さ:けっこう遠かったですね。片道3時間くらい。
―遠いですね。その時は豊子師匠もさくらさんがプロになることを前提として入門を認めてたのですよね。
さ:そうですね。プロになりたいのか聞かれて、はいって答えて。「すぐには食べられないから仕事はやめないようにしなさいよ」って言われましたからね。他にも出演料のこととか、仕事の進め方をわりとすぐに教えてくれましたね。
―稽古はどのくらいの頻度で通っていたのですか。
さ:週に2回くらい行ってましたね。
―仕事も続けながら、そんなに行ってたのですか。
さ:そうなんです。
―休みがなかったのでは。
さ:最初は夜勤明けとかで行ってたんですよ。それはさすがに1年くらいして、キツくなってやめましたけど、それでも少なくとも週1は行ってましたね。豊子師匠も今ほどは忙しくなかったんで。
―豊子師匠のお稽古はどんな感じでしたか。厳しいお稽古だったのでしょうか。
さ:私はそんなに思わなかったけど、今から考えると厳しかったですね。国友先生が唸って、豊子師匠が弾いた後に、私がそれを弾いてみて、豊子師匠が違うとか言うようなスタイルでした。
―なるほど。入門までに音曲や寄席囃子を経験されているので、浪曲の三味線もすんなりと覚えられたのですか。
さ:私は浪曲を自分なりに研究して、なんとなくですけどキザミくらいは弾けたんです。
―それめちゃくちゃすごいですね(笑)。ホンマに準備をちゃんとされるのですね。
さ:節が切れるとはどういうことなのか、節の切れかかっているところから、弾いたら合うんだというところまでは自分で研究していて、初日に国友先生が梅鶯節をやって私が弾いた時に、国友先生が「弾けるね」って言ったテープが残ってますからね。
―初日って三味線の持ち方や弾き方やを教わっててもおかしくないのに。
隼:だから、今どきの子は向こう見ず過ぎるなと思うのは、三味線を弾けもしないのに、これでなんぼ貰えるんですかって聞いてくるとこなんですよ。下手したら調子も合わされへんのに。さくら姉さんが初日からポッとできたら「弾けるね」って言われて、みんなが期待したのもわかります。
さ:でも、下手を弾いたらダメだって国友先生に言われて、秘蔵っ子としてずっと温存されてたから、木馬のデビューはけっこう遅いんですよ。
―それだけ国友先生にはかわいがられてたのですか。
さ:めっちゃかわいがられましたよ。
―国友先生にも、豊子師匠にも。
さ:豊子師匠は普通やったけど(笑)。国友先生がとにかく私をかわいがってくれて。
―そうなんですね。よくできるからでしょうか。
さ:どうなんでしょうね。真面目やったし。期待はされてましたよね。
―入門後に特に自分の中で成長が感じられたことはありますか。
さ:私は関西節の低調子を自分で研究してたので、関東節はやっぱり手こずりましたね。あんまり聞いてこなかったし、関西節が好きだったんで。それでも最初わからなくても、次に行くときには手は覚えて挑めるように家でも稽古してました。
―めっちゃすごい(笑)。吸収しようとする意欲がハンパないですね。
さ:節に合わせられるかが、難しいんです。だから手は覚えて行ってたんです。
―そういうことか、手は弾けることが前提でお稽古なのですね。
さ:それが当たり前やと思ってましたからね。
―それが曲師の稽古の当たり前なのか。
さ:それに、覚えたまま弾いてたら、豊子師匠に「ダメだよ」って怒鳴られますからね。
―そうなんですか。
さ:早節なんかでも覚えたまま弾いたら、節と合わないんです。そういうことが2,3回あると「さくらにはまだ無理だね」って言って、その日は稽古おしまい。
―こわ…。
さ:だから、次の時にまあまあできるねってならないと、その先に進めないから、どうやって合わせたらいいのか病院に行く時も稽古の音源をずっと聴いてました。
―勝手なイメージで、曲師の修業って三味線の手を沢山覚えることだと思ってたのですが、そこじゃないのですね。手は覚えて当然で、いかに浪曲師に合わせられるかが大切なのですね。
さ:だから同じ手を弾かないようにしてて。
―習ったのと同じように弾かないということですか。
さ:習ったのと同じように弾くと、実践した時にどこかがちょびっと合わなくなるんですけど、ちょびっとだけ合わない部分を修正するのではなく、とにかく毎回違った手を弾いてみようとしてました。それでダメなところを豊子師匠に言ってもらったら、わかるようになるんじゃないかと思って。
―国友先生が唸ってるのに対して、色んな手を弾いて試すのですね。
さ:そうです。節もすごい上手いから。めちゃくちゃ贅沢でしたね。
―なるほど、節に自分が一番合うと思う手を合わせるのですね。普通には考えられないです。
さ:曲師の修業としては普通やと思うけどな。
―でも、さくらさんの浪曲や稽古に向かう姿勢が真摯な気がします。
隼:やっぱり浪曲を好きなことが大切ですよね。弾きたいという思いでしょう。
さ:豊子師匠って現代的なタイプの三味線の弾き方をするんですよ。もうちょっと前の世代の人は「なにこれ?この間はなに?」ってなるような三味線なんです。美代子師匠の三味線もあれはできないでしょって思ってしまう。間があまりに浪曲で。
例えば、(京山)華千代先生と(東家)美佐子師匠のどうやって合わせてるのみたいな浪曲を聴いてるから、手くらい覚えないと、そういうところには一生いかれへんって思ってたんですよね。今でも一生いかれへんって思ってるけど、そんな所でウロウロしてられないですね。
―そこを見てたのですね。なんとなく浪曲に興味があって、曲師になったではなく、曲師像を明確に持っていて、こういうことができなアカンってわかった状態だったのですね。
さ:わかってたかはわからないですけど、私なりに曲師像はありましたね。
―話が戻りますが、木馬亭に出たのはいつ頃でしょうか。
さ:2000年に入門して、2001年くらいですね。
―その頃が年期明けといった感じでしょうか。
さ:年期明けという感覚はなかったんですけど。豊子師匠が忙しくなったんでしょうね。だから、豊子師匠が武春師匠弾き出して、仕事が忙しくなって、そっちに私もついて行くのがメインになって、木馬もちょっとずつ出るようになって。そうこうしてるうちに大阪に行くんですけど。
―激動ですね(笑)。東京の終わりの頃はどなたかをよく弾いていたのですか。
さ:イエス師匠ですね。
―そんなにイエス師匠と周ってたのですか。
さ:というか、曲師の第一選択肢として私に頼んでくれてたのはイエス師匠くらいじゃないですか。
―イエス師匠はどんな方ですか。
さ:福太郎師匠の兄弟子にあたるんですけど、漫談で売れてるんで。浪曲はあんまりやってなかったんですけど、私がつき始めた時にたまに浪曲もやるって感じになってて。それこそ紫文師匠がご自分の会にイエス師匠をゲストに呼ばれた時に、曲師は私に頼んでくれて、それをきっかけにイエス師匠を弾くようになったんですよね。
―イエス師匠がさくらさんにハマった理由は何だったのでしょうか。
隼:ちゃんとしてるから。イエス師匠のことを色んな風にいう方いますけど本当にちゃんとしてる方。
―常識を重んじられる方ということですか。
さ:めちゃめちゃ常識人ですよ。浪曲界の中でトップレベルですね。発想は人と違うものを持ってますけど、芸人として筋は通ってますし。
―なるほど、隼人さんの分析も含めると、ちゃんとしてるイエス師匠やから、ちゃんとしてるさくらさんを気に入ったという訳ですね。
隼:がっちりハマったんでしょうね。
―さくらさんはイエス師匠と周って、師匠にどんな印象を持ちましたか。
さ:やっぱり一流の方やなっていうか。売れた人は違うなっていうのは感じましたね。売れた話も偉そうに言わないというか普通に言う。自慢じゃないんですよね。私が東京にいた時はイエス師匠と武春師匠が売れてる人たちで、お二人からは共通して学んだところがあったと思います。
―芸人としての部分だけでなく人間的な部分でも学ぶことがあったのかもしれませんね。その後、大阪に行くわけですが、東京時代をまとめるとどんな感じでしょうか。
さ:東京時代は豊子師匠・国友先生に育てられて、一応一本立ちして、周ってたのはイエス師匠ということでいいと思いますね。
2.大阪での活動
―それでは大阪に来てからの話を聞いていきたいと思います。大阪に来た当初は苦労もされたと聞きましたが、どういった苦労がありましたか。
さ:私が大阪に来た時は、大阪にも浪曲あるし大阪でも続けていこうと思ってたんです。ただ、何が大変だったかというと、大阪の浪曲師や曲師と知り合うツテがまずなかったんです。
―協会にも入れなかったということですか。
さ:もちろんです。だから、東京の頃はめっちゃ忙しかったのに、急に浪曲も仕事もなくなったから退屈しちゃって、一回病院に就職したんですよ。半年ぐらいで辞めましたけど。
―そんな生活をされていたさくらさんが復帰するきっかけは何だったのでしょうか。
さ:それは春野恵子さんなんですよ。私が大阪来るか来ないかぐらいの時に、ケイコ先生が浪曲に入るらしいって噂は聞いてたんですけど、特に面識があった訳でもなかったから、私も普通に大阪で生活してたんですよね。それが恵子さんが東京の舞台に出て豊子師匠に弾いてもらうことがあり、その時に豊子師匠から私の話を聞いたんです。そしたら、「そんな人いるんですか!」ってなって、なんと四郎若師匠に話してくれたんですよ。
―なんと。
さ:四郎若師匠には私が入門したての頃に一心寺でご挨拶したことがあって。それも私は挨拶するつもりなかったのを、後ろの席に座ってた百合子師匠のご贔屓さんに連れられて思いがけず挨拶に行ったんですけど。その時のことを四郎若師匠は覚えてくれてて、豊子師匠のとこの子なら間違いないと言って、豊子師匠と私に電話をくれたんです。それが2006年の夏くらいやったと思います。
それから一心寺に行き、四郎若師匠についてもらい、協会の皆さんに挨拶をして、協会も入れて、そっから一心寺にも出れるようになったんです。
―色んな人が繋いでくれて、一心寺に繋がったんですね。
さ:そうなんです。誰が欠けてもダメだった。
―それからは色んな人を弾くようになったのですか。
さ:そんなに沢山は弾いてなかったかな。当時は新宣組ってあったので、あそこに入れてもらって、いってんお兄さん、恵子さん、まどかさんを弾かせてもらったり。
―さくらさんは色んな人を弾いてこられてますね。
隼:だから、ぼくが入門した時も「さくらちゃんは色んな人の節を弾きこなすことができるんだ」って聞きましたからね。
さ:そんなことはないけど。
隼:でも、天龍師匠まで弾いてるんですから。
さ:これはすごいでしょ。
―天龍師匠はやはり印象に残りましたか。
さ:そうですね。稽古に行きたいって言ったんですけど、来なくていいってなって。その代わりテープを送ってくれたりとか、手紙がめちゃくちゃ来るんですよ。だから、本番までに手紙は何通も来くるけど、稽古はしないという。テープだけ聴いて、これは大変やなと思いながら、藤信のお師匠さんの手をとにかく覚えましたね。
―それは不安になりそうですね。
さ:当日は天龍師匠に朝の8時に来いって言われたんですけど、私は保育園に預ける必要もあったので、どうにか9時半にしてもらって。それで行ったら、天龍師匠が一節唸って、私が弾いたら、天龍師匠が「ハイ」って言って終わり。えっー!終わり!?みたいな(笑)。一席稽古できるかと思ったのに。それで本番までお稽古せずに2,3時間待ち。こんなんやったらもっと遅くてもよかったわって(笑)。10秒で見切る男・天龍三郎師匠ですよ。
―その一節でさくらさんの実力を見極めたのですか。
さ:「あなたは私が思ってたよりもずっと上手です。」って言ってくださって。
―すごい(笑)。さくらさんは何回もテープを聴いてるからある程度安心してたのですか。
さ:いやいや、そんなことないですよ。本番を終わって、貰った手紙では、普段は他人を褒めない天龍師匠の奥さんが「さくらちゃんは藤信さんと似てるから、今後はさくらちゃんでやったら良いと」褒めてくださったそうで、それは嬉しいなと思いましたね。
隼:天龍師匠のすごいところは普通の地節から急にキザミ始めるんですよ。
さ:だから、当時はめっちゃ聴いて。ここだってわかるくらい何回も聴きましたね。
―なるほど。大阪に来てからは藤信のお師匠さんにも教えてもらいに行ってるのですよね。
さ:はい。家にも行かせてもらって。
隼:だから、(藤信のお師匠さんの三味線に)本当に似てる。
さ:嬉しいけど、そうかな。
―東京では豊子師匠に入門して、大阪では藤信のお師匠に教えてもらい。貴重な経験をされてますね。
さ:藤信のお師匠さんはお弟子さんもいてるので、そんな教えてもらった訳ではないんですけど。そんな中でも印象に残ってるのは「ネタ飲み込んどかんとな、弾かれへんからな。もうちょっとネタ飲み込んだらよう弾けるんちゃうか」って言われたことがあって、それって何なんだろうってずっと考えてて、それをずっと考えてるから啖呵の受けというか、啖呵のところでどういう風に弾けば物語が生きるか、めっちゃ考えるようになって、少しずつはできるようになったと思うんです。こんな風にわりとお師匠さんの一つ一つの言葉を覚えてたりして、それをずっと考えてたりしますね。
―なるほど。お師匠さんは弾き方の技術だけでなく、曲師としての在り方とか考え方に関して命題を与えてた気がしますね。それをお師匠さんが亡くなった後も、さくらさんは問い続けているような。
さ:そうですね。もうちょっとしたら、そういえばこんなことを言ってたってまた思い出すんちゃうんかな。あと、豊子師匠に最初に言われたこともずっと覚えてて。「自分より下手やと思ったら同じくらいの実力やと、自分と同じくらいやと思ったらちょっと上いってる、自分より上手いなと思ったら相当先にいってる。これだけは覚えときなさい」。この言葉はいつも心に留めてますね。
―藤信のお師匠さんは隼人さんにも「あんた三味線でやったらいい」って言葉を残してますし、今のお二人にも繋がってますね。
さ:そうそう。藤信のお師匠さんが「あの子はやっぱ若いからな、声が落ちてこないで伸びるねん」って楽屋でおっしゃてるのを聞いて、正直それまで隼人君に興味なかったんやけど、それを機に見る目が変わったんですよ。
―お師匠さんの影響大きいですね。その後、隼人さんの曲師をするようになり、今では5年の月日が経っています。これまでの15年と比べて、この5年間で変わったことはありますか。
さ:やっぱり私の中で歴史があって、関西に来て一番最初にじっくり一人の人を弾く機会をいただいたのは小円嬢師匠で、この節はこうとか、息がこうとか、少しずつわかってきて、だんだん信頼関係ができていく中で、私も育ててもらったと思っています。
その後にいってんお兄さんを弾くようになり、これまでの小円嬢師匠のようなベテランの人から引っ張ってもらうのと、同じくらいの年期の人を弾くのではまた違って、こういう風に弾くと上手くいくんだとか、こっちが引き上げてるわけじゃないんやけど、いっしょにやって二人とも良くなっていく手ごたえを掴んだところもあるんですよ。いってんお兄さんが落ち込んだ時なんかは、励ましたりもするし、この節はよかったとか、あそこはもうちょっとゆっくり弾いてとか、次もこれでいこやとか、一本下げましょうかとか、そうやってお互い良くなる経験をして、その後に隼人君を弾くんですけど、この経験から人と組むノウハウを少し得てるんですよね。ただ、隼人君は隼人君のやり方があるので、それをまた私は勉強させてもらってるところですね。
隼人君と小円嬢師匠とが違うのは、小円嬢師匠は円熟した緻密な芸なので、息をつくタイミングに上手く三味線を入れたり、言葉を邪魔しないように弾くとか師匠に教えてもらいながら勉強したんですけど、隼人君の場合は作り込んでない分、私も自分で考えて弾ける新しい経験ができてますね。
―さくらさんも自分のやりたいように弾ける。
さ:そうそう。弾かないところと、強く弾くところの抑揚が大切やと思うんですけど、隼人君は若くて声の幅があるから、私も強く弾けて、めちゃめちゃ抑揚がつけられるんですよ。あとは隼人君は自分の考えとか思考があると思うから、それに対して私があんまり言い過ぎたら良くないと思ってます。
隼:ぼくも言われても聞いてないんです。ああだこうだ言われても、良いところは聞いて、違うと思ったら聞かないんで。でも、大体同じようなことを考えてますね。
さ:ちょっとずつ意見が合ってきてるんやろな。最初はもっと違ったはずで、思うことが10あっても1しか言わないところから始まって、それが2言えるようになり。
隼:まあ、初めは日本人とインド人くらいの違いですよ。同じ浪曲でも住む世界が全然違ったんですから。それが今は山形県民と三重県民くらいには近づいたわけですよ。海は越えて陸続きです。
さ:意見が合うのが良いことなのかはわかんないけど、そんな感じで私的には良い感じで歩んできてますね。
―聞いてるうちに、隼人さんにインタビューしていた時のことを思い出しました。隼人さんもさくらさんのおかげで自分が成長できたと言ってて、さくらさんも同じ様に言ってる。落語や講談だと師匠から教わることが多いと思うのですが、浪曲の場合はそれが曲師や浪曲師だったりもするので、そこが面白いし魅力だなと思いました。
さ:それはやっぱり師匠に教わったことだけをやってても浪曲として不完全ということなんでしょうね。
―なるほど。だからこそ、自身の芸、二人だからこその芸が生まれてくるわけですね。
3.20周年記念公演
―先日は「二十周年記念曲師の会」お疲れ様でした。今回の公演は浪曲界にとっても画期的な試みになったかと思いますが、そもそも開催に至ったきっかけは何だったのでしょう。
さ:2020年は隼人君が10周年で私が20周年やから春に10周年、秋に20周年の公演をやろうって前から話をしていて、私自身は曲師の会をずっとやってきていたので、それを記念公演的な形で開催することにしました。
―なるほど、ベースには曲師の会があったのですね。曲師の会を継続していく中で、今回の会に繋がるような手ごたえもありましたか。
さ:会を始めた頃は他にも浪曲会をプロデュースしてて、その内の一つくらいの気持ちだったんですけど、そのうち曲師の会だけに来る人も出てき始めて、三味線好きな人がいるんやなと実感は出てきましたね。
―私自身も曲師の会に行くと、さくらさんの解説を聞いて初めて知ることも多くて、毎回新鮮な驚きが得られている印象です。
さ:私たちだけしか知らない情報を見せることが流行る時代にもなってきてると思うんですよ。メイキングも好まれるというか。そういうお客さんの趣向とも関係するかなと思うんです。
―まさにこれまで一般の人は知ることが難しかった情報を発信し始めたのが曲師の会だったと思います。この活動があったからこそ、あれ程の規模で開催できるに至ったわけですね。
公演の話になりますが、会の最初はさくらさんの挨拶と三味線の演奏から始まりました。そこも普段の浪曲会とは構成や雰囲気も違っていて印象的でした。
さ:今回は私が曲師としての自分自身をクローズアップしなければならないんで、そこにすごく悩みました。その結果、最初は一人で出て挨拶をして、曲弾きとかはせずに浪曲の三味線だけにした方がいいと思って、ああいう形にしました。
―なるほど。その後の構成も関東節と関西節それぞれの節が聴ける演目やコーナーが用意されていて、さくらさんならではでしたね。
さ:そうですね。一応私の特徴としては元々は関東にいて、関西に来たっていうことやと思うんで。どっちも紹介することが一人でできるわけやから、そういう意味での構成ですね。
―演目の「陸奥間違い」もさくらさんが選ばれたのですか。
さ:相談して選んだんですけど。関東節らしい節使いのものとして選びました。陸奥間違いは玉川の系統からの節付けしたものなので。他のネタになると最後は大阪みたいな長めのバラシになったりするので、関東節のみの演題にしてもらいましたね。
―ちなみに、関東節を弾いてて感じる魅力はどういうところにありますか。
さ:歯切れが良くて、弾いてても気持ち良いんですよね。あと、関東節は決まりがすごくいっぱいあって、その決まりの中で、手がうまく入ったら嬉しいみたいな。会の時にも言いましたけど、俳句みたいなイメージです。けっこうな縛りのある中で自由にやるから、制約された中の自由っていうのが面白い。
―逆に難しさはどういったところでしょう。
さ:節を聴きながら、それをやるから。その時々で浪曲師の節の伸ばし方も変わるし、いつ切れるかなとか考えながら弾くのは関東節の難しさでもありますね。
―次は関西節ですが「名刀稲荷丸」を選んだ理由としましては。
隼:やっぱこれじゃないっていう。これに関してはそれだけやったような。関西らしい節という意味では浮いたのもあるし。
さ:ちょっと浮いたようなバラシ。関東の関西節の人がやるようなパアッーとした早節とかではなくて、ちょっと浮いたような関西にしかないようなバラシの節やったり、あいだの節も関西特有の節で。
―そういう節があるのですね。その節にも名前があるのですか。
さ:あれは小円節を隼人君がアレンジをしてるよね。
あと理由としては、稲荷丸は小円嬢師匠からもらったまんまじゃなくて、鶯童先生の部分を入れたりとか二人で相談して練ってきたのでそういうのも聴いてもらいたい想いがありましたね。
―稲荷丸は隼人さんの記念公演でも演じられているし、二人で作ってきたイメージは大きいですね。実際に公演が終わってみた感想はどうですか。
さ:ホッとしましたね。けっこう大変やったんでね。
隼:大変なことしかなかったですよ。
―隼人さんはどういうとこが大変でしたか。
隼:自分の会やったり、落語会やったら、決まった流れがあるじゃないですか。でも、曲師の会としてどうやって普通に浪曲をやりながらさくら姉さんにクローズアップするのか考えるのに非常に骨が折れましたね。どういう風に盛り上げていくのか。
―普通に浪曲をやりながらも、いつもよりも曲師に注目してもらうにはどうしたらいいのか。
隼:本編の浪曲はぼくが真ん中でせなアカンわけやし。
―難しいですね。こういう難しさを乗り越えたからこそ、今までになかった会ができたのかと思います。隼人さんの目から見て、この会の凄さはどういったところにありますか。
隼:曲師は浪曲師の陰にいるべきや、そんな感じで浪曲界で虐げられてきた存在。レコードのジャケットでも曲師の名前が間違えられているのは日常茶飯事やし。そういう中で、曲師という職業があるんやと、さくら姉さんは地道に曲師の会をやってきた。そして、今回の20周年公演ができた。これまで曲師が20周年の公演をやることってなかった。これは浪曲の歴史、明治の中頃からを含めて、僕の知る限りでは初めてですね。浪曲界に燦然と輝く金字塔を打ち立てましたよ。
―これまでもなかったし、今後の浪曲界にも影響を与える出来事になったかと思います。さくらさんはこれまでの活動や今回の公演を振り返って、思うことはありますか。
さ:私は曲師が目立つべきではないって自分でも思ってるんですね。浪曲を弾くときに悪目立ちするのは良くないし、物語や節を邪魔するのはよくないと思ってるんやけど、(曲師は)あまりにも目立たないできたから、このままでは曲師の存在が続いていかないと思うですよ。昔はそういう立場やって理解できたけど、今はやるからには自分も注目を浴びたいって思う人が多くなってるんで、(曲師が続いていくためには)支える側として三味線を弾いていることが正当に注目されて、正当な対価をもらえるようになることが一番近道やと思ってるんです。だから、浪曲を盛り立ててるのは曲師なんやって伝えていくことで、曲師が職業として成り立つようにする。それが私が死ぬまでに一番やりたいことですね。
隼:浪曲の存続にも関わってる問題ですよ。曲師の技は生きてる間に伝えてもらわないと、後々になって音源で聴いてもわからないですからね。
―そうですよね。評価という意味では先日「第18回上方の舞台裏方大賞」の受賞が決まりましたね。これはどんな賞なのでしょう。
さ:関西の舞台や文化に関わる団体から組織されていて、上方の舞台芸術に関わる人が毎年2,3人表彰されてるんですよ。今年は私といっしょに、文楽人形の首の製作をしている方が受賞されています。
―なるほど、幅広いジャンルの中から選ばれているのですね。
さ:過去には照明の方やサウンドデザイナーの方も選ばれたりしてますからね。演芸界では私で4人目で、曲師では過去に岡本貞子師匠も受賞されてます。
―こういう賞の存在が曲師の正当な評価や認知にもつながっていきそうですね。
さ:そうですね。これをきっかけにラジオにも出演させてもらったりもしましたし。
―さくらさんの活動の継続がこういった形で、少しずつ実を結んでいってるのが本当にすごいなと思います
4.DVD発売
―次に浪曲三味線教材DVDの話をお聞きしたいと思います。これを作ろうと思ったきっかけは何だったのでしょう。
さ:一番最初はお客さんに「曲師の会のDVDを出してください」って言われてたのがあります。その後、三味線のワークショップを始めて、コロナ禍になった時に、通いづらい生徒さんから家で稽古するための教材がほしいという声があって、最初はカラオケのようなものを作ったんですけど、もうちょっと解説とかもできたら良いよねってなって。そういう時に今井三絃店の今井さんから京都市の助成金のことを教えてもらって、これならDVDが作れるかなと。
―教材的な目的で作られたのですね。
さ:そうですね。浪曲の三味線をやりたい人に観てもらいたいと思ってたんですけど、浪曲を楽しむために買ってくれてる人もけっこう多くて。DVDを観たお客さんが浪曲会に来て「こういうことかってわかって面白かったです」とか言ってもらえたり。
隼:だから教材でありながらも、浪曲を楽しむ新たな見方として、これは絶対面白いと思う。
―私もDVDを観て、浪曲がより面白くなりました。物語だけじゃなく、三味線や節も楽しめるようになった気がします。さくらさんも好きな節とかあるのでしょうか。
さ:私はメジャーのウレイが好きですね。
―どういった場面で使われている節ですか。
さ:例えば稲荷丸の「無理はないぞえ直助よ、手元不如意の~」とこですね。
―魅力はどういうところですか。
さ:マイナーに入らへんくてベタベタに悲しくないけど、ホロっと悲しくて。情があるって言うのかな。岡島八十衛門の気持ちを想像して。
京山華千代先生の「秋色桜」でもメジャーのウレイが使われていて。貧乏な駕籠屋の娘が俳句が上手で、お殿様に見いだされて、そこに出入りするんですよね。それでお父さんがお殿様に挨拶しようとするんやけど、駕籠かきが入れるところじゃないんですよ。そこで親子の情みたいなのを歌うところがあって、ホロっとくるんですよ。
―人が亡くなるとかめっちゃ悲しいことではないけど、日常の中の我慢やったり、思いやりやったりが出せる節なのですね。
さ:奥ゆかしい悲しさというか。これがトントントントン早くなって、盛り上がっていく。悲しいのに、どんどんいって、その後にバラシに繋がったりするのも多いしね。
―隼人さんの好きな節は何でしょうか。
隼:僕はウレイの入った駒蔵節が好きですね。
さ:関西の感じやな。
隼:なんとも言えないおかしみや味があって。これが好きですけど、僕はできないですね。あれはその時代を生きてきた人じゃないと、僕が今から頑張ってやってもああいうのはできないですよ。
―当時の大阪らしさとかが染みついてるような。
隼:それだったり、徹底したケレンの人やったり。
―なるほど、人柄だったり、イメージにも関わるのですね。
最後に曲師が職業として成り立つように、今さくらさんが思うことを教えてください
さ:曲師に確立された師弟制度ってあんまりなくて。それが果たして正しいのかって最近思い出して…。
隼:僕が今後の曲師の業界に思うのは、あくまで僕が思うのは、曲師にも責任を持たす部分を増やす。
さ:それはあるでしょうね。
隼:曲師やからと言って、今まで許されてきたことが沢山あるんです。それをやめることが、曲師が市民権を得る大きなきっかけになるんじゃないでしょうか。
―なるほど。
さ:曲師の地位の向上とか職業として成り立たせるためには、もっとせなアカンことがある。曲師やからええんやって言われてた礼儀のこととか。人付き合いのこととか。良いとこどりしてた部分もあったので、そこは責任をもってやるようにすることかなと。
―技術的な側面だけでなく、意識や振る舞いを変えていくことで、周囲からも認められていくことが大切なのかもしれないですね。そのためにはこれまでの曲師の師弟制度とは違った新しいものが必要になってくるかもしれない。さくらさんがそうやって道を切り開いていくのを今後も期待しています。