恋になれずに散っていく
名門貴族家に寄生する最下層の孤児人間。
この学年におけるルイス・ジェームズ・モリアーティの評価なんてそんなものだった。
人当たりの良い長男の憐れみを誘っているんだろうとか、優秀な次男に媚びて取り入っているんだろうとか、そんな噂ばかりが先行している。
目にも入れたくないほどに痛々しく醜い傷跡を化け物のようだと、本人のそばで揶揄している学生を見たこともある。
だからルイス・ジェームズ・モリアーティとは、己の弱みを狡猾に活かし兄らの同情を引く恥知らずだと認識していた。
見た目に反して性格が悪いのだろう。
成績は全て兄に取り入って金で買ったのだろう。
優秀な二人の兄は狡猾なルイスに騙されているのだろう。
そんなふうにルイス・ジェームズ・モリアーティを認識している学生は、この学年に数多くいる。
「何をしているのですか?」
上に立つ人間を育てるという名目の教育機関だからこそ、どうしたって強者と弱者は存在する。
強者の条件は持ちうる地位こそが重要だが、学校という場所ゆえにその成績だって左右される。
要は貴族家において最上位である公爵家の人間こそが強者で、成績上位者の証でもあるキングススカラーを持つ人間こそが強者で、そのどちらも持っていない人間は強者によって蹂躙される。
それが常なのだ。
どちらも持っていない僕のような人間は、強者に従うか虐げられるかしか道はない。
だから今日もそんな一日を過ごすのだと、廊下に呼び出されて浴びせられる罵倒に耐えていたというのに。
「通行の邪魔なので退いていただきたいのですが」
「…ぇ…」
「お前は…ちっ、行くぞお前ら」
「あ、あぁ」
教本とノートを抱えて凛とした顔で立つ彼は、狡猾と噂されるルイス・ジェームズ・モリアーティだった。
彼そのものは圧倒的弱者のはずだ。
伯爵家に在籍していようと元孤児で、キングススカラーを仰せつかってはいるけれどそれは金で買っただろう肩書きなのだから。
本来ならばこの場にいることすら相応しくない人間で、彼もクラスでは強者に蹂躙される側なのだと思っていた。
「…そこのあなた、大丈夫ですか?」
「え、あ…」
「怪我はないようですが、気になるところがあれば医務室へ行った方が良いかと思います」
「ぁ…と…だい、じょうぶ…大丈夫だから」
「そうですか。では」
今まで奴らに殴られたことはない。
目に見える傷を負わせることのリスクを知っているのか、奴らはただただ言葉で僕という人間を否定する。
だから今も怪我を負っているはずもないのだが、それを知らないルイス・ジェームズ・モリアーティは現場だけを見て僕の体を心配してくれた。
そんなこと、今まで誰もしてくれたことがなかったのに。
あっさり通り過ぎていく小柄な後ろ姿が妙に大きく見えて、震えていたはずの手から知らずに力が抜けていく。
同じく震えていた足が動くようになっていたから、慌ててその小さな後ろ姿を追いかけて声の限りに礼を言った。
「あ、ありがとう!」
「いえお構いなく。あなた含め、歩くのに彼らが邪魔だっただけですから」
「…で、でもありがとう…本当にありがとう!」
振り返ることなく声だけを聞かせるその背中は、噂に聞いていた狡猾さなど感じさせないほど清廉な気配を纏っていた。
見て見ぬふりをするのではなく、奴らに加勢するのでもなく、教員を呼んで場を濁すでもない。
ルイス・ジェームズ・モリアーティ自身が僕を助けてくれたのは、揺るぎない事実だった。
それからなんとなく、隣のクラスに在籍するルイス・ジェームズ・モリアーティの姿が目につくようになった。
彼はとても目立つ存在だ。
生い立ちも肩書きもその見た目も、黙っていてもあらゆる人間の好奇心をそそってしまうのだろう。
彼を妬む人間もいれば興味本位で近付こうとする人間もいるようだ。
けれどルイス・ジェームズ・モリアーティはその誰もに興味がないようで、基本的に彼はいつも一人で過ごしていた。
たまに彼の友人らしき人間と行動を共にしていることもあったけれど、だからといって依存している様子もない。
一人きりで、自分の足でちゃんと立つ。
僕には出来ないそれをいとも簡単にこなしてしまうその姿がとても格好良くて、とてもとても眩しかった。
「良い気になってんじゃねぇよ、アンダークラスの分際で」
「……」
「どうせその成績も金で買ったんだろ?アルバート先輩とウィリアム先輩に取り入ってさ」
「……」
「卑怯だよなぁ、両親を亡くして悲しむ二人に取り入るなんて。人の心あんのかよ、お前」
「……」
ルイス・ジェームズ・モリアーティと、彼に詰め寄る学生が三人。
三対一という圧倒的不利な状態なのに、ルイス・ジェームズ・モリアーティの顔はまるで人形のように凍りついて無表情のままだった。
弱者の気質と言うべきか、知らずと人気のないところを好んでしまう僕が彼らを見つけたのは必然だろう。
おそらくルイス・ジェームズ・モリアーティはいらぬやっかみを受けて呼び出されている最中だ。
過去の経験から、いやそんなものがなくても、この現場を見ればすぐに分かってしまう。
ルイス・ジェームズ・モリアーティは過去に僕を助けてくれた。
あの恩義を忘れてはいないし、助けに行くべきだろうと分かっているのに、どうしても足が動かず壁の影に隠れてしまう。
こんな自分が情けないと、破裂しそうなほど鼓動している心臓がうるさかった。
「なんとか言えよっ、傷物!」
「っ…!」
バキッ、という音が聞こえてきた。
きっとどこかを殴られたのだろうと認識する頃には詰るような言葉が続けられていて、どうしようと混乱している僕がここにいることなど知らないまま、一人の学生がその現場に割り込んでいった。
「何してんだよ、お前ら!」
「リック…あぁ、お前は傷物と仲良かったんだっけ」
「助けに来たのか?正義の味方気取りかよ」
「うるせぇよ!ルイスから離れろ馬鹿!」
割り込んだ彼、リック・ランドルフは唯一ルイス・ジェームズ・モリアーティと親しくしている学生だった。
何度か彼と一緒にいるところを見かけたことがあるし、きっと友人同士なのだろう。
成績優秀だが結局ルイス・ジェームズ・モリアーティには敵わないと揶揄されているのに、それでも彼とごく普通の関係を築いている変人だ。
足が竦んでいた僕とは違い、リック・ランドルフは躊躇せずに四人の中に割り込んでいった。
「ランドルフ…どうしてここに?」
「図書室で問題集やるって言ったのに、お前いつまで経っても来ないから探してたんだよ!そしたらこいつらがお前連れてここに行くの見た奴がいたから…何してんだよルイス!反撃くらいしろよ!」
「……」
「〜〜〜あーもう!どうせアルバート先輩とウィリアム先輩のためなんだろうけど、あの人達がこれ知ったらそれこそ修羅場だろ!おいお前ら、さっさとどっか行け!後でとんでもねぇこと起きても知らないからな!」
「はぁ?何言ってんだよ、リック」
「チッ…もう良いぜ、行こう」
「教員に見つかっても面倒だ。リック、ルイス、誰にも喋るんじゃねぇぞ」
「良いから早く散れ!」
「……」
結局ルイス・ジェームズ・モリアーティは一言喋った以外は何も言わず、無言のままだった。
彼に暴言を吐き暴力で訴えた三人は面倒そうにその場を去って、ようやく足の震えが止まった僕はおずおずと二人の状況を影から覗く。
呆れたように頭を掻いているリック・ランドルフと、その場にしゃがみ込んでいるルイス・ジェームズ・モリアーティ。
しゃがんでいるということは、もしかすると足でも蹴られたのだろうか。
「で、どこ殴られたんだよ」
「…お腹」
「お腹…中がどうかなってるかもしれないし、医務室行くぞ」
「この程度の痛みなら問題ありません。多少痣が残るくらいです」
「十分大事だろ。…ウィリアム先輩とアルバート先輩には俺から伝えておくから」
「っ駄目です!」
お腹を殴られたらしいルイス・ジェームズ・モリアーティはすぐに立ち上がるが、変わらず腹に手を添えているのだから相当に痛かったことが分かってしまう。
だがその痛みを意にも介していない様子とは裏腹に、彼は彼の兄の名前を出されたことに対し過剰に反応している。
ウィリアムとアルバートは学年の違う僕でも知っているくらいの有名人だ。
事実かどうかはともかく、ルイス・ジェームズ・モリアーティが彼らに取り入っているという噂があるくらいなのだから、兄弟としてそこそこ関係性はあるのだろう。
兄達に先程の行為を伝えればそれなりの報復をさせられるだろうに、それを拒否する理由が分からなかった。
「兄さんと兄様には言わないでください…!お二人が知ればきっと心配させてしまう、それは嫌なんです」
「じゃあ反撃くらいすれば良いじゃん。何で殴られっぱなしになってるんだよ」
「反撃すれば兄さんと兄様の評判に傷が付いてしまいます。僕のせいで二人に迷惑がかかるなんて絶対にごめんです」
「…でも、先輩達はルイスが傷付いたら悲しいだろ」
「……それでも、言わないでください」
「心配されたくないし、悲しませたくもないってか」
「はい」
「でも、それじゃルイスがつらいだろ」
「つらくありません。お二人の邪魔になる方が、僕はつらい」
小柄で儚そうな見た目に反して案外頑固なのだと知りつつ、予想していた兄弟の関係性に疑問が湧く。
ルイス・ジェームズ・モリアーティは狡猾に兄らへ取り入る人間ではなかったのだろうか。
今の二人の会話から察するに、アルバートもウィリアムもルイスに対して兄らしい温かな感情を持っているように感じられる。
ルイス・ジェームズ・モリアーティもそれを知っており、だからこそ彼らの迷惑にならないよう揉め事を起こさないことに尽力している。
モリアーティ伯爵家に遺された三兄弟の関係性は、噂と違ってとても良好な関係なのだろうか。
「…頑固な奴。分かった、アルバート先輩にもウィリアム先輩にも言わないでおいてやる」
「…!ありがとう、ランドルフ」
「でも、今から医務室には行くこと。ほら、さっさと行くぞ」
「分かりました」
ルイス・ジェームズ・モリアーティの頑固さに折れたリック・ランドルフはまたも頭を掻いて、医務室への道を行くよう指示した。
逃がさないためなのだろう、ルイス・ジェームズ・モリアーティを先に歩かせてその後ろを行く姿に慣れた様子が感じられる。
彼のことを知っているのだという雰囲気が、何故だかとても羨ましく思ってしまった。
何となく彼らの後を追いかけていき、医務室にたどり着いたところで行き場を失ってしまった僕。
これからどうしようかと思い悩んでいると、すぐにリック・ランドルフだけが医務室から出てきた。
ルイス・ジェームズ・モリアーティはおそらく診察を受けているのだろう。
ならば医務室に入ったところで彼に会うことは出来ないし、手持ち無沙汰になってしまった僕は本当に気紛れでリック・ランドルフの後に尾けることにした。
ルイス・ジェームズ・モリアーティと親しいリック・ランドルフ。
己の危険を顧みず友人を助けた彼に、僕は興味があった。
そうして後を尾けていった先にいたのは、何度か見たことのある有名人だった。
「ウィリアム先輩、アルバート先輩。ルイスのことで良いですか?」
「勿論だよ、リック。ルイスがどうしたんだい?」
「一緒にはいないようだけど」
「実は…」
ルイス・ジェームズ・モリアーティが取り入っていると噂の、ウィリアム・ジェームズ・モリアーティとアルバート・ジェームズ・モリアーティ。
リック・ランドルフが彼らに会っていると知った瞬間、本当に驚いてしまった。
だって彼はルイス・ジェームズ・モリアーティと親しくて、それこそ唯一の友人だろうに、あっさりとあの約束を反故にしたのだから。
あれほどルイス・ジェームズ・モリアーティが「二人には言わないでほしい」と懇願していたのに、リック・ランドルフもそれを了解していたはずなのに、どうして兄らに話してしまうのだ。
僕なら絶対に言わないのに、ルイス・ジェームズ・モリアーティの味方になってあげるのにと、どうしてだかそんなことを思ってしまった。
「そういうわけで、今ルイスは医務室で診察を受けてます」
「…そう。ありがとう、リック。教えてくれて」
「あの子はきっと私達に話さないよう言っただろうに。助かるよ、リック」
「言わないよう約束させられましたけど…先に先輩と約束してましたし、俺としてもルイスが虐められるのは嫌なんで」
「ふふ、それじゃあリックはルイスとの約束を破ってしまったんだね」
「何とか誤魔化しておいてくださいよ、ウィリアム先輩」
「任せておいて。君がいることでルイスは救われているだろうから」
「これからもルイスに何かあればいつでも教えてくれ」
思っていた以上に、リック・ランドルフは兄らと親しくしているらしい。
親しくしていると言うよりも、ルイス・ジェームズ・モリアーティに関してのみ利害が一致しているというべきだろうか。
ルイス・ジェームズ・モリアーティは兄らに迷惑をかけまいと己に降りかかる災厄全てを隠し込んでしまう性質で、リック・ランドルフはそれらから彼を守るべく行動していて、兄らは弟に降りかかる災厄を払い除けるため暗躍する。
きっとルイス・ジェームズ・モリアーティを取り囲む彼らはそういう関係なのだろう。
その中心にいるルイス・ジェームズ・モリアーティはこの関係について知っているのだろうか。
知っているにしろ知らないにしろ、僕もルイス・ジェームズ・モリアーティに近付いたら取り巻きの彼らに目を付けられるのだろうか。
そんなことをぼんやり考えていたら、いつの間にか兄らと離れていたリック・ランドルフがすぐ近くに存在していた。
「ひっ!」
「お前さ、あの場所からずっと俺のこと尾けてただろ。何か用?」
「い、いや別に…偶然ここにいるだけで…!」
「ふーん」
壁に隠れてしゃがんでいた僕とは対照的に、リック・ランドルフは壁にもたれて立ちながら僕を見下ろしていた。
人好きする表情の彼に威圧感はない。
けれど、尾けていたのは事実だから妙な後ろめたさが脳裏に過ぎった。
「どうでも良いけどさ、ルイス目的ならやめた方が良いぜ」
「は?」
「あいつ、過保護で愛情深ーい兄貴が二人もいるからさ」
妙な気ぃ起こしたらただじゃ済まないぜ!
ケラケラ笑いながらそう言ったリック・ランドルフの目は笑っていなくて、不意に感じた視線に振り返ってみれば鋭く睨む赤と緑の瞳が僕を射抜いている。
ゾクリと背筋が震えたかと思えば二人はすぐにその場を立ち去り、見下ろしてくるリック・ランドルフの視線だけを感じていた。
「え…あ、あの」
「ルイスは良い奴だけどさ、相手が悪いよ。俺はあいつの友達だけど、あいつよりウィリアム先輩とアルバート先輩の方が怖いもん。ルイスとの約束より先輩達との約束を優先するから」
「…あ、そ、うなのか」
「俺はルイスに何かあれば先輩達に報告するよ。それがあいつのためだと思ってるからさ。だから」
「…?」
「俺に報告させるようなこと、しないでくれよ?な?」
リック・ランドルフはしゃがんで僕の肩をバシバシと気軽に叩く。
遠くから見れば仲の良い学生同士が戯れあっているように見えるのだろう。
けれど、これはただの牽制だ。
悪意はないし善意からの言葉だと分かるけれど、だからこそ怖かった。
別にルイス・ジェームズ・モリアーティに恋をしているわけじゃないのに、そうなるべきではないと忠告してくるリック・ランドルフの言葉には説得力があるのだ。
恩義がある。
罵倒されているところを助けてもらったという恩義を、ルイス・ジェームズ・モリアーティに抱いている。
恋だとか愛だとかではないのに、ただ少しお礼を言って、少しだけ親しくなれたらというだけだったはずなのに、それすらも許されないほど強固な守りがルイス・ジェームズ・モリアーティには存在している。
恋になろうとしていた感情は恋になることすら許されないのだと、赤と緑の瞳を見て思い知った。
(なんか俺、先輩達のスパイみたいですよね。ルイスの情報を極秘で教えるスパイ)
(ふふ、有能な働きをしてくれて助かっているよ)
(ルイスはあまりクラスのことを話してくれないからね、君の存在は私達にとってとても有難い)
(俺、スパイじゃなくてルイスの友達のはずなんですけどねぇ…)
(まぁ良いじゃないか。はい、欲しがっていた数学科の受験問題。中々の難問揃いだったから面白いと思うよ)
(え、ありがとうございます先輩!欲しかったんですよ、この年の問題!ルイスと一緒に解きますね!)