イタリアの墓地・葬式に見る死生観
Ciao tutti!
こんにちは、今回はイタリアのミラノ工科に建築留学中の【スズ】がお届けしています。
実は先日ある事件(⁉)をきっかけに、墓地や葬式にその国の文化が現れていることに気付きました。
今回はまずそのきっかけとなった、ある日の出来事から話していきたいと思います。
休日、買い物に出かけていた時のこと。
繁華街の裏手にひときわ輝く教会を発見。
建築専攻なこともあり、内部を見学しようと開かれた教会の扉を入るとどうやらミサの真っ最中。
ひとまず終わるまで座って待とうと最後尾に静かに着席。
ずいぶん丁寧なミサだなーとのんきに眺めていたら、
なんと終盤で、棺登場!
そう、気づかない間に赤の他人の葬式に参列してしまっていたのです!!
もう今更退席も出来ず、とにかく神妙な面持ちでうつむくアジア人。
図らずも今日に限って全身真っ黒の服を着てしまい、完全に喪に服している人にしか見えない。
最後は棺を追いかけるように親しい順で並んで教会を出るのだけど、
お互い顔を見合いながらお先にどうぞと譲り合う中、定期的に「…誰?」という視線を感じつつ後ろに回り込み気配を消して回避。
見よう見まねで十字を切ったりなんかしながら、なんとか教会を脱出したわけです。
(12年間プロテスタントの学校に通っていた礼拝経験がここで役立つとは…!)
こんな出来事を経て、図らずもイタリアのお葬式参列という貴重な体験することができました。
そこで不思議に思ったのが、なぜ私は式の後半に至るまで葬式だと気づくことができなかったのかという点です。
そして、よくよく教会内の状況を思い出してみると、そういえば誰も泣いていなかった!ということに気付きました。
日本のお葬式の場合であれば、僧侶の法話や告別式での語らいなどを通した儀式の中ですすり泣く声が聞こえてくることも多く、全体的にどんよりと悲しみに満ちた雰囲気になると思います。
一方で、イタリアのお葬式はどちらかというと肩を叩きあったり、うなずきあったりとお互いを励ますような雰囲気で日本のそれとはまったく異なった空気感でした。
それはおそらく、宗教観によるものだと思います。
イタリアはカトリック教徒の国です。
そしてキリスト教における死は、人生の終わりではなく神の御許での新しい人生の始まりとして捉えられています。
一方で、日本は神道や仏教などが入り混じってきた過程で固定化された死後の世界の共通観念が弱い傾向があり、さらに言霊信仰からそもそも直接的に死の表現をすることは好まれず、「不幸があった」などと表現することさえあります。
この宗教的背景の違いが、死に向き合う葬儀の在り方の差異を生んでいるのではないかと思っています。
また、それは墓地にも表れています。
これはミラノの中心部にある「ミラノ記念墓地(Cimitero Monumentale di Milano)」の写真です。
ご覧の通り、日本の墓地に比べて華やかで明るい印象です。
また、それぞれの墓石に個性があって、(不謹慎な表現ですが)まるで墓地の万博のよう。
各墓を丁寧にみてみると
「この人は聖書のこのシーンを自分の墓のモチーフにしたんだな」
「このお墓は仲のいい夫婦が眠っているに違いない!」
などといったストーリーを読み取ることができ、故人の人生観や人柄までも見て取れることもあります。
また、カトリックでは「最後の審判を経て肉体がよみがえり天国へ行く」ことができるとされており、そのため火葬は肉体を失うため避けられる傾向がありましたが、近年の墓地不足によって大きな面積を必要とする土葬での墓地は高額になっているそうです。
そんな中で、このような壁式のお墓も発見することができました。
このお墓の形式自体は日本でも見ることができますが、壁面をよく見るとこのような場合でも故人の写真やお孫さんからの手紙などが貼られておりそれぞれに個性があることが分かります。
ここからも、カトリック教徒の多いイタリア人ならではの「新しい始まりとしての死」という価値観を見て取ることができました。
今回は、「葬式と墓地」に着目することでイタリア人の死生観に関して書いてみました。
これから様々なヨーロッパの都市を旅行する予定なので、各国の墓地を訪れて、同じカトリック教徒同士でも差異はあるのか等々、観察を続けていきたいと思います!
それではまた、次の記事でお会いしましょう。
Arrivederci!さようなら!