「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」19 家茂の将軍辞意表明と条約勅許
渡来した英仏蘭米四ヵ国の軍艦9艘には四ヵ国の公使(ただし米蘭は代理公使)が乗っていた。彼らは、元治元年(1864年)9月16日、兵庫沖に到着したが、その目的は次の三つの達成だった。
①通商条約の天皇による承認
②下関賠償金の3分の2の免除と引き換えの、大坂開市・兵庫開港の即時実施
③税制改定(輸入税の引き下げ)
これを受けて9月23日、老中阿部正外らが兵庫に向かい四国公使と会見。外国側から、短時日での回答を迫られ、兵庫開港を幕府が決定できないなら、すぐに天皇の承諾を得るため京都へ出向くことが告げられる。翌24日に大坂城で開かれた幕議で、短時日で条約勅許と兵庫開港を天皇に承諾させることは難しいとして、幕府専断での兵庫開港を決定してしまう。しかし、この間、京都にいた慶喜にはなんら事前に相談がなされず、24日付の将軍の直書で大坂に来るよう求められた慶喜が、このことを知り激怒する。彼の下坂後に大坂城で開かれた評議の席で、天皇の勅許を得ることにあくまでこだわる慶喜と阿部正外・松前崇広の両老中が激突。
さらに、この情報が京都に伝わると、朝廷内の実力者であった関白の二条斉敬(なりゆき)および中川宮らの猛烈な反発をもかうことになる。両者は、朝議で兵庫開港の容認を主張した二人の老中の処分を主張し、10月1日、これが決定をみる。すなわち、老中両人の官位剥奪と国元での謹慎を命じる勅命が下ったのだ。なんと、朝廷の命令によって現職の老中二人が直接処罰(罷免)されるという前代未聞の事態が生じたのである。
また、この直前には「京都の事情に通じている慶喜に、徳川家の相続ならびに将軍職を委譲したい」とする辞表が作成され、10月3日、朝廷に提出した。この家茂の辞意表明は、長年、両老中の罷免に幕府が抗議してのものであったとされてきたが、両老中の処分に関する情報が大坂に到着したのは、将軍の辞意表明後だったことが、近年の研究で明らかにされている。
いずれにせよ、これらの降って湧いたような騒動によって、慶喜の置かれた状況は、一気に緊迫の度を増すことになった。二老中の処分は、朝廷に対する幕臣の反発を招いただけでなく、天皇(朝廷)を後建にして、慶喜が徳川政権を困らせようとしたものと受け取られたからである。また、家茂の将軍職辞退を受けて、天皇(朝廷)がただちに慶喜に将軍職を宣下するとの噂が流れ、在坂の幕臣の慶喜への反発は一気に高まる。
慶喜は果断な対応を迫られる。まず家茂の将軍職辞退問題。東海道を経由して江戸に帰るべく、10月3日夜に伏見に到着した家茂に対して、容保とともに懸命な説得に努め、10月8日、家茂は二条城で辞表の撤回を表明した。次は兵庫開港問題。四ヵ国公使への回答期限が迫っていた。慶喜は、将軍の顔を立てるために、京都にほど近い兵庫の開港はともかく、せめて条約勅許だけでも獲得せざるをえなくなる。慶喜はすぐに朝議を要求。小御所で簾前(れんぜん。天皇の前)会議が急遽開かれる。10月4日から5日にかけて、ぶっとおし。4日の朝議が紛糾し、夜も更けたため関白以下の国事掛の公卿が退散しようとした際、国家の重大事を前に退散する者は、このままでは済まさないと慶喜は脅した。そして、そのうえで、朝廷が条約を許可しない場合は自決するつもりだが、そうなれば家臣たちがなにをしでかすか保証しないとさらに追い撃ちをかけた。こうして慶喜は、ほとんど脅迫に近い恫喝的手段を講じて、強引に勅許を勝ち取った。
こうして安政5年(1858年)の日米修好通商条約の無勅許調印以来、7年余りにわたって最大の政治課題となっていた開鎖問題は、条約勅許という形で最終的な決着がつけられた。これにより慶喜(一会桑三者)と幕府上層部との関係は修復されたが、孝明天皇の攘夷意志を無理やり押さえつけての強引な勅許獲得は、当然のことながら激しい反発を招いた。
慶応3年(1868年)に開港した兵庫港の当日の様子
一橋慶喜 禁裏御守衛総督時代
第二代駐日英国公使ハリー・パークス 仏・蘭などとともに兵庫沖に連合艦隊を送り込み、兵庫開港を強要した
松前崇広 1864年