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のらくらり。

酔えない兄様と酔う兄様

2021.12.01 12:27

モリアーティ三兄弟の幸せな晩酌のお話。

お酒に酔えないアルバート兄様とそんな兄様のそばにいるウィリアムとルイス。


アルバートは酔いというものを知らない。

類い稀なアルコール代謝機能が備わっているようで、まるで水を飲むかのごとくアルコールを摂取出来てしまう。

摂取したところで酔うことはなく、主治医によれば体も健康そのものだという。

アルバートにとってアルコールとはその味を気ままに楽しむ嗜好品。

付き合いの場でいくら酒を煽ろうと自我を保ったままなのはとても都合が良かった。


「アルバート兄様はいくら飲んでも酔わないのですね」

「どうやらそうらしい。おかげでルイスが用意してくれたカナッペもリエットも美味しく味わうことが出来るよ」


家族を焼いて新しく弟を二人迎えたアルバートが彼らの前でアルコールを飲んだのは、新しく建てたモリアーティ邸で行われたささやかな祝いの席でのことだった。

ロックウェル伯爵から贈られた上等なワインを、ジャックから抜栓の方法を教わったルイスが丁寧に開けていく。

そうしてアルバートとウィリアムだけにワインが振る舞われ、まだ心臓の状態からアルコールの許可が出ていないルイスはぶどうジュースで我慢していた。

気を張らずにいられる弟の前でアルバートも気を良くしていたらしく、ハイペースでグラスを開けるのに少しも酔った様子を見せていないことにルイスは驚く。

慣れないけれど美味しそうに飲んでいるウィリアムは、まだ一杯のワインすらも飲みきれていないというのに。


「ウィリアムもルイスも、酒の類にはあまり馴染みがなかったね」

「はい。浮浪者が飲んで酔い潰れていた姿はよく見ていましたが…」

「…あまりお酒に良いイメージはありません」


酔った人はすぐに暴力を振るうから。

そうぼやきながらルイスは咥えたストローからちまちまとぶどうジュースを飲んでいる。

本当は二人と同じ赤ワインを飲みたかったけれど、ウィリアムからもアルバートからも主治医からもアルコールの摂取は強く禁じられてしまった。

色合いは似ているのに、まるで大人と子どもの明確な境界がこのグラスに存在しているように感じられる。

酒に良いイメージはないけれど、それでもウィリアムとアルバートが飲んでいるのならルイスも飲みたいと思うのだ。

そんなルイスの心情を察したウィリアムは苦笑しながら手元のグラスから真っ赤なワインを飲み干した。


「酔い潰れて醜態を晒すような真似、あまり美しいとは言えないな。幸い僕はアルコールには強いようだから二人が嫌う飲み方はしないと思うが、なるべく気を付けることにしよう」

「アルバート兄さんなら大丈夫ではないでしょうか。このペースでボトルの半分を開けているのに表情ひとつ変わらず、呂律もしっかりしている。何より、その考え方が酔いとは程遠いことを示していますから」

「そうありたいね」


感心するウィリアムとルイスの視線を横目に、アルバートはこくりと喉を潤していく。

重厚でありながら渋みのない爽やかな風味はとても美味しい。

それなりにアルコール度数は高いのだろうが、過去の経験からいくら飲もうと酔わないという確信がある。

酔いたくても酔えないのだからそういう体質なのだろうと受け入れていたけれど、ほろりと酔いが回り始めたウィリアムを見ると何となく羨ましくなった。




アルバートにとって酒とは嗜好品の一種であり、外交に使うにはとても便利な道具であった。

けれどただその味を楽しむだけで、飲んで気分が良くなったことは一度もない。

日頃溜まっていた鬱憤を忘れたり、心の奥底に隠していた本音を曝け出したり、沈んだ気持ちを向上させてくれたり、誰かと互いに砕けた雰囲気でその場を楽しむことも、アルバートには一度も経験がなかった。

伯爵家嫡男として味覚を鍛えられ、爵位を継承した今も伯爵という地位がアルバートにワインという貴族家御用達の嗜好品を勝手に添えてくるのだ。

飲みたくて飲むわけではないけれど、その味は好ましいから格好を付ける意味でも酒を飲む。

酩酊してみっともない醜態を晒すことがないのは幸いだった。


「酔うとはどんな感覚だろうか」

「え?」


アルバートはロンドンの屋敷に帰ってきた弟達とともに食後の晩酌を楽しんでいた。

あまりアルコール耐性のないルイスには幼い頃と同じくぶどうジュースを用意しているが、そこそこ飲み慣れているウィリアムとは同じボトルを開けている。

ぶどうジュースに気を悪くしたルイスはムッとした顔で付け合わせのアミューズを用意してくれた。


「酔う…アルバート兄さんは驚くほどに酔いませんからね」

「酔ったと自覚したことは一度もない。ウィリアムの目から見て、私が酔っていると感じたことはあるかい?」

「いえ、ただの一度も」

「そうか…ならば私は、やはり一度も酔ったことはないのだろうね」


平然と、けれどその整った顔に乗るある種の虚しさにウィリアムは気が付いた。

最下層出身だからこそ、酒に良い思い出はない。

酔い潰れた人間は醜い本性を曝け出すし、それほど余裕のない生活を送っているのだろうと思えばより一層この国が憎くなる。

だが、飲み方を間違えなければ酒は間違いなく有効なのだ。

沈んだ気持ちを浮上させてくれるし、忘れたいことを束の間だけでも忘れさせてくれる。

ウィリアムは家族や気心知れた仲間と飲む酒は相応に気に入っているし、張り詰めていた気持ちを和らげてくれるような気さえする。

しかしアルバートはいくら酒を飲んだところで何も変わることのない、常にフラットな様子を見せていた。

それはつまり、アルバートにとって酒は何の助けにもならないということなのだろう。


「兄さんは酔いたいのですか?」

「興味はある。忘れたいことを忘れせてくれるのなら、溺れるほどに飲むのも良いだろうな」

「アルバート兄様…」


僅かに酔いが回っているウィリアムと、少しも酔っていないルイスは静かにアルバートを見る。

三人が三人、各々決して忘れてはいけない過去を持っている。

中でもアルバートは自らの母を手にかけ、住み慣れた屋敷ごと家族だった人間を殺してみせた。

後悔はしていないし、後悔することすらも許されない大きな罪だ。

忘れるつもりなんて欠片もない。

けれど、背負い続けるには重すぎる大きな罪を一時だけ忘れることすらも、アルバートには出来なかった。

ウィリアムもルイスも、酔うことで過去の嫌な記憶をぼやけさせている。

しかしアルバートにはそれが出来ないのだと、長くともに過ごしていたのに二人はようやく今この瞬間に分かってしまった。

グラスを揺らした姿がとてもよく似合うモリアーティ家の若き当主たる彼は、至極つまらなそうに手元のそれを弄んでいる。


「…兄様は、ワインがお嫌いですか?」

「いいや。味はとても気に入っているし、飲むこと自体は好んでいる。ただ、飲みたい理由は特に思い浮かばないんだ」

「そう、ですか…」

「……」


アルバートは悲しむでも嘆くでもなく、ただ淡々と酔うことが出来ない己の体質を再確認しているようだった。

記憶を失うくらい泥酔するなど絶対に拒否するけれど、多少嫌な記憶があやふやになる程度の酔いならば経験してみたい。

そう思ってしまうくらいに、背負ってきた罪はあまりにも重かった。


「僕が酔ったとき、頭がぼんやりとしてふわふわした感覚になります。覚束ないような感覚なのに恐怖心はなく、不思議と素直になれるような心地です」

「ルイス」

「…それは多分、酔ったときそばにいるのがアルバート兄様やウィリアム兄さんだからだと思います。お二人がいるから僕は安心して気持ちを発散出来る。気持ち良く酔えるのはお酒のせいではなく、兄様のおかげです」


ルイスは、失礼します、と断ってからアルバートのグラスを手に取り残っていた赤を飲んでいく。

耐性がないからといってグラス半分で酔うほどルイスは酒に弱くない。

ルイスは向かいに座っていたアルバートの隣に移動し、そのままウィリアムにも来るよう手招きをした。

そうしてルイスとウィリアムに左右を陣取られたアルバートは瞳を丸くして、さほど目線の変わらない弟達を交互に見る。


「ルイス、ウィリアム、どうしたんだい?」

「アルバート兄様。兄様は忘れたいことがあるから酔ってみたいのですか?それとも、他に酔いたい理由があるのですか?」

「微力ですが、僕とルイスが酔えない兄さんでも酔いを体験出来るようサポートしますよ」

「…これはまた、心強い協力者だな」


右に座るルイスはしかとアルバートの方を見ては強い瞳に意思を覗かせていて、左に座るウィリアムはアルバートの肩に頭を凭れさせながらも力強い言葉を届けてくれた。

おそらくウィリアムは酔いが回っていて多少眠気があるのだろう。

それでもルイスがアルバートのためにする行動に間違いはないと、そう確信して兄の助けとなるためサポートに徹することを選んだのだ。

先ほど、酒ではなくアルバートのおかげで酔えるのだと嬉しいことを言ってくれた末の弟は、兄の懸念を晴らすために尽力しようとしていた。


「そうだな…特別、何かを忘れたいわけではない。忘れてはいけないことだと分かっているし、それはルイスもウィリアムも知っているだろう」

「はい」

「だからただ、夢中になって楽しいと思える時間を過ごせればそれで満足すると思う」

「夢中になれる楽しい時間…」

「なるほど…」

「どうだろう。少し難しいかな?」

「いえ、少し考えさせてください」

「夢中や楽しいの定義が曖昧ですが、きっと良い方法があるはずです」


真剣な顔をして悩み俯くルイスと、顎に指をやり遠くを見つめるように瞳をぼやかすウィリアム。

顔立ちのよく似ている美しい弟達が自分のことで悩む姿を見るというのは、アルバートが持つ兄としての優越感を満たしてくれる。

アルバートにとってウィリアムとルイスこそが唯一の家族であり大切な存在だ。

彼らがいなければアルバートの心は死んでいただろうし、今こうしてここに満たされた気持ちのまま二人とともに過ごすこともなかった。

とても幸せな時間を過ごしていると思う。

アルバートは俯いたルイスの長いまつ毛を眺めながらそう感じたことを自覚し、ふいに自分が何を求めていたのかが明確になった。

酔うことに憧れていたのは事実だ。

安楽を求め酒に手を伸ばす人間を知っていたから、自分も酒を飲む理由に気楽さを求めていた。

張り詰めた空気の中で生きることは少しだけ息苦しくて、深く呼吸出来るような安らかな時間が欲しかった。

酔えばそんな気分になれると思ったから、酔うことに憧れていたのだ。


「…そうか。そうだったのか」

「兄様?どうされましたか?」

「アルバート兄さん?」


左右に大切な弟達がいる今この現状において、アルバートは心穏やかな時間の中で染み渡るような息をしている。

求めていたのは酔いなどという一時の逃げではなく、ただただ愛しい家族だった。

ルイスの言葉を省みるに、きっと彼も同じように感じてくれているに違いない。

ならばウィリアムも同様だろうし、それはますますアルバートの気を晴やかにしてくれた。


「…すまない。どうやら私は酔いたいわけでも、酔って何かを得たいわけでもなかったらしい」

「でもつい先ほど、酔う代わりに夢中になれる楽しい時間が欲しいと言っていましたよね?」

「あぁ。だが、もう私はそれに等しい時間を持っていたようだ」

「そうなんですか?アルバート兄さんが夢中になる楽しい時間とは一体どんな時間なので?」

「そうだな…」


僅かな時間しか考えていないのに、あっという間に依頼人である彼に依頼を反故にされてしまった。

驚くルイスとウィリアムに対し、アルバートは限りない気持ちが沸き立つのを実感する。

わざわざ酒に頼らずとも、求めていたものはこの二人が十分過ぎるほどに与えてくれるのだ。

それはとても素敵なことで、アルバートという人間の支えになれるのはこの二人でしかあり得ないのだと実感してしまう。


「今この時間、酒に酔わずとも、私はもう酔っていたようだよ」


初めて家族になってくれた大切な弟達に、アルバートはもうずっと昔から酔っている。




(兄様が酔っている姿なんて見たことがありません。何に酔っているのですか?)

(さぁ何だろうね。当ててごらん)

(ふむ…僕とルイスが考え込んでいた十数分のあの時間で見つけたのなら、気付くきっかけはここにあったということですよね?)

(あぁ、とても身近なところにあった。奇跡のような出来事なのに、当たり前のように享受していた自分が愚かだったよ)

(兄様が愚か…?んん…?)

(…中々難しいですね。答えは教えていただけるので?)

(分からなくても支障はないだろう。答えが見つけられないのなら保留にしておこうか)

(そんな!)

(これは意地悪なお人だ。ルイス、もう少し一緒に粘ってみようか)

(勿論です、兄さん!)