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待降節第2主日(C)

2021.12.03 20:00

2021年12月5日 C年 待降節第2主日 宣教地召命促進の日

福音朗読 ルカによる福音書 3章1~6節

皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、
山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、

人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

 待降節第2主日の福音では、毎年必ず「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」というイザヤ書40章を引用した箇所が読まれます。今年はC年に入りましたから、ルカ福音書が読まれますが、このルカだけは、他の福音書で引用されている箇所の続きをも記しています。

谷はすべて埋められ、
山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを仰ぎ見る。

 とすれば、この箇所にこそ、神が今の私たちに伝えようとしているメッセージがあると考えてもいいかもしれません。この続きの箇所が記されていることによって、私たちは今日、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということが、具体的にはどのようなことなのか、その内実をより深く黙想することができます。

 ルカ福音書は、このイザヤ書の引用を通して、まず私たちに求められている回心の目的をはっきりと指し示しています。全ての人が「神の救いを仰ぎ見る 」こと、これが今日私たちに求められている回心の方向性です。それは、自分だけが神様に救われればそれで十分という、神と自分だけの小さな世界観に閉じこもったままの回心ではなく、全ての人が神の救いを仰ぎ見るために、神が自分に望んでおられることを見極めてゆくということです。このように洗礼者ヨハネの招きを受け取るならば、今日の福音は誰にとっても非常に深刻な問いかけを含んでいることでしょう。

 私たちは皆、この厳しい問いかけから逃れることはできません。というのも、多くの人が薄々と気づきつつあることですが、今や世界的な規模で、もはやこれまで通りのことをやり続けていればいいという時代ではなくなってきているからです。それは何も新型コロナウイルスのことだけを言っているのではなく、世界の経済状況や地球環境を見ても、これまでと同じ生活を続けていれば、今まで以上に多くの人が苦しみ、生きて行けなくなってしまうことは明らかです。今、私たちが変われるかどうか、そこに地球の命運がかかっているのです。教会もまた同じです。今の世界に対して、意味のある奉仕、価値のある提言、救いをもたらす働きを行うことができなければ、世の人々がそこにキリストの光を見出すことはあり得ないでしょう。

 果たして私たちは、本当に、全ての人が神の救いを仰ぎ見ることができるよう信仰を生きてきたのでしょうか。これまでの習慣にこだわり、そこに安住し、自分たちの心の安定ばかりを優先してきてはいなかったでしょうか。私たちと他者を隔てている谷、未来を見ることを妨げている山や丘、これらすべては、私たちの変わりたくない頑なな心を示しています。洗礼者ヨハネは、そんな私たちの思いを打ち砕くためにやって来たのです。

 とはいえ、洗礼者ヨハネのもとを訪れた多くの人たちは 皆、自分の救いのことで手一杯だったことでしょう。当時の人たちはそもそも、今日の私たちが考えているような世界規模での救いを想定していたわけではありませんから、当然、神のみ前に罪の汚れのないものでありたいという純粋な思いを もってヨハネのもとを訪れていたはずです。その時ヨハネの洗礼は、人々が主である方を受け入れるための重要な貢献となりました。

 なぜなら、罪なき者でありたいと思う気持ち、しかし同時に罪を犯し続けている自分、そしてその理想と現実の狭間で苦しむありのままの自分、これらをはっきりと認識することなしには、誰もイエスを救い主だと認めることはできないからです。事実、イエスの誕生を神の救いの無償の恵みとして認識できた人は、ほとんどいませんでした。聖書は、マリアから生まれた幼子を礼拝しに来たのが、羊飼いと東方の異邦人の学者であったと記しています。

 しかし、聖書はこの洗礼者ヨハネの洗礼が救いであるとは言いません。ヨハネがどれほど立派であっても、これは悔い改めの洗礼であって、イエスによる救いの洗礼とははっきり区別されているのです。そこには、おそらく人間の罪の問題が隠れています。もちろん、自分の人生を振り返り、罪に気づき、それと決別して生きるべく罪を告白することは、新しく生きるための大前提であると思います。しかしながら、それだけで変われるほど人間が単純でないこともまた確かなことです。

 この人間の営みをキリストの救いの観点から見る時、そこにはすでにどうしようもない罪の現実が横たわっていることに気づかされます。つまり、人々が皆、根本的には自分のことしか見ておらず、「自分さえよければ」という感覚が、私たち一人一人の心に非常に深く 巣食っているという現実です。この感覚に支配されている限り、私たちは根本的には変わることができません。しかし残念ながら、その傾向は、自分の力だけで気づくことができない程巧妙なものです。それ故に、私たちはヨハネの洗礼の上に、さらなる恵みと救いを待望するのです。

 そこで福音書は総じて、イエスが、私たちの努力から得られるものではない神の救いの御業を、無償の賜物として私たちに与えてくださったと証言します。彼はその生涯を通じて、「自分さえよければ」という私たちの罪の根を断ち切るような愛を、極みまで生き抜いたのです。ルカ福音書の場合には、イエスが最も貧しい人、罪人、女性、子供たちの側に立つことで、全ての人を救おうとしていると強調します。飼い葉桶の中で生まれた幼子が、救い主であるということも、この貧しい者たちとの連帯の故にです。しかし、それは同時に、当時の権力者にとっては、自分たちの偽善を暴く強烈な批判となりました。イエスが証した神の愛の姿は、それが真実であるが故に、結局のところ多くの人にとって躓きの石となったのです。

 十字架と復活、私たちがそれを救いであると信じているのは、このキリストの十字架の姿にこそ、自分の力では気づくことすらままならない罪の根だけでなく、「自分さえよければ」という思いに捕らわれた私たちを、それでもなお抱きしめようとしておられる神の愛の極みが現れているからです。そして復活は、その神の愛が、人間たちの罪によってもたらされた死に、打ち勝って余りあるものであることを告げ知らせます。どんなに人間が頑なでも、最後には愛が勝利するということを、イエスは証して下さったのです。

 私たちの罪、それは目を背けたくなるほどに醜いものです。私たちは、自分たちの偽善性が暴かれるくらいなら、正しい人を殺しても仕方ないと考えるほどに世間体を気にする一方で、自らの心の汚さについては振り返ることすらしません。まさに誰にも知られないようにしながら、「自分さえよければ」と思っているのです。

 しかし、イエスは、その私たちを、十字架を引き受けるほどの愛で受け止めて下さいました。その愛を確かに伝えるためにこそ、わざわざ人となり、私たちの間に住んでくださいました。そのキリストの命がけの愛を知るからこそ、私たちはもっと深く自分自身の至らなさ、罪を自覚します。十字架のキリストに支えられて、私たちは自分の罪がどれほど重くても、その重みに圧し潰されずに現実を受け止められるようになるのです。そして、それでも愛して下さるイエスの愛を思えばこそ、自分の生き方を変えたい、神が喜んでくださる人生を生きたいと切に願うようになります。ですから、私たちの人生を変えるのは神の愛です。愛に突き動かされる時に初めて私たちは、自分の殻を破り、頑なな心から解放されて、根本から変わってゆくことができるのです。

 全ての人が神の救いを仰ぎ見るために、私たちも今日心新たにキリストと出会い、新しい者になりましょう。クリスマスに多くの人を教会に招くことができない状況の中でも、福音宣教の可能性は私たちの日常生活の端々に隠れています。キリストの愛に心を打たれるならば、その人は勉強の有無にかかわらず、自分の言葉で福音を語るようになります。自然と人々に喜びを分かち合います。「あなたの存在が大切だ」というメッセージを、私たちの存在の全てを通して放つならば、多くの人がきっと、一体何がこの人を満たしているのだろうと疑問を持つようになるでしょう。これがおそらく、日本においては福音宣教の第一歩になるだろうと思います。

 世界中が苦しみ喘いでいるこの状況の中で、キリストを信じる私たちこそが、この世界に喜びをもたらす者、希望のしるし、世の光となりましょう。私たち一人一人が、これまでのやり方、限界を少しでも打ち破り、この混とんとする世界に、「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」する者となれますように、恵みを願いたいと思います。

(by F.S.T.)