みんな繋がっている・響き合っている
FacebookKNOB ノブさん投稿記事
すべてのいのちは音から生まれ 音に還ってゆく、、、人も動物も岩や木も、、、
みんなちゃんと繋がっている響き合っているそれを思い出させてくれるドキュメンタリー映画があります。
来年の1月11日
龍村仁監督のドキュメンタリー映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー) 最終章 第九番」
https://youtu.be/SHrYoyh-Py8
の上映会が横浜・本郷台駅隣の「アースプラザ」で行われます。最終章の第九番。
2006年の3月。
地球交響曲第六番の撮影をしていただいた伊豆大島の三原山で、ベートーヴェンが第九までだから、俺もガイヤを九番まで作りたいんだと言われていた龍村監督。
そして、、、コロナさん前のクリスマス。東京のサントリーホールでの小林研一郎さん指揮によるベートーヴェンの第九。
信じられないほどの歓喜に満ちたコンサートで、その時の奇跡的な場がガイヤシンフォニー第九番の中で、またさらに感動的に、コンサートでは体験出来なかった龍村監督独特の視点から観ることができ、また人類の原初、縄文的な精神がアイヌや沖縄の人々に伝わるスピリットからも深く掘り下げられています。
今の時代だからこそ、人と自然 人と地球との繋がり
そして、心にいのちに細胞に響きわたり、免疫力もアップするような~音楽~の持つ力。
龍村監督と同じ年のコバケンさん(小林研一郎さん)のベートーヴェンに第九に寄せる真っ直ぐで熱い魂は、人のいのちの根源的な力を呼び覚ましてくれる!!
午前と午後との二回の上映会で午前の会は、立教大学名誉教授の濁川孝志先生のご講演があり、
午後は、地球交響曲第六番
虚空の音の章に出演させていただいた私 KNOBの演奏も上映とともにさせていただきます。
新たなる年の始まりに生命力が最大にアップし開かれるような体験を是非ご一緒いたしましょう!!
KNOB拝
写真 龍村仁事務所より
(三原山での撮影前に、初めて三原山の御神火にご挨拶の献奏をさせていただいた時のもの。真っ青な晴れ渡る天の氣でありましたが、山が息吹始め、みるみる真っ白な世界となり、急遽撮影が始まりました。)
■映画「地球交響曲第九番」について
龍村仁監督によるオムニバス形式のドキュメンタリー映画。
https://ongakubun.com/posts/6223 【時を超えて繋がる音楽と物語—米津玄師『迷える羊』】より
時間軸を超えて響き合う過去、現在、そして未来
シェイクスピアは、言わずと知れた、16世紀頃の英国を代表する劇作家だ。彼が生み出した数々の喜劇や悲劇には、無数の示唆に富んだセリフが出てくる。その中でも、『お気に召すまま』と『ヴェニスの商人』という2作の喜劇において、人生を舞台になぞらえた有名なセリフが出てくる。
「全世界が一つの舞台、そこでは男女を問わぬ、人間はすべて役者に過ぎない、それぞれ出があり、引込みあり、しかも一人一人が生涯に色々な役を演じ分けるのだ」
(シェイクスピア『お気に召すまま』〔第二幕 第七場〕、新潮社版より引用)
「この世はこの世、ただそれだけのものと見ているよ、グラシャーノー——つまり舞台だ、誰も彼もそこでは一役演じなければならない、で、ぼくの役は泣き男というわけさ。」
(シェイクスピア『ヴェニスの商人』〔第一幕 第一場〕、新潮社版より引用)
米津さんも、2019年8月21日投稿の自身のブログ「手相」で、シェイクスピア作品の登場人物たちと共通するようなことを言っていた。
「自分らがいま住んでるところには街の名前がついていて、その中に連続してきた物語があって、その物語の登場人物として生きていくことからは逃れられない。」
「よちよち歩きでおろおろしながら生きる赤ちゃんみたいな自分らのために、物語の舞台があり、編集された脚本があり、既に退場した登場人物たちが残した祈りがあるのだとすれば、とっても贅沢だなと思う。」
米津さんのアルバム『STRAY SHEEP』には、このブログで綴られていることを体現するような曲が収録されている。それが、タイトルトラックでもある『迷える羊』だ。
まず、この曲での米津さんの歌声がとてもすばらしくて印象的だ。何だかオペラの歌い方っぽいような、伸ばすところで声が太くなり声量も大きくなるような、力強い歌声。今までの米津さんにはなかった歌い方な気がした。歌声も変幻自在で、歌声自体に様々な表情があると感じた。
『迷える羊』では、歌詞の冒頭から、人生を舞台になぞらえているような表現が沢山出てくる。
《ねえ 生まれてきた日を 思い出せるかい
シナリオの 最初の台詞を
舞台は巡り 演劇は続く
楽屋には サンタマリアがいない
最初で最後の歌を 上手く歌えないのに
監督たちは 沈黙を守る
脚本の終わりは 書きあがっていない
祈る様に 僕は口を開いた》
《生まれてきた日》とは、まさしく登場人物がこの世に生を受けた誕生の日であり、「シナリオ」、「舞台」、「演劇」はその登場人物の人生と捉えることができる。そして、《最初で最後の歌》とは、一回きりの人生のことを喩えているかのようだ。確かに、一度きりのぶっつけ本番の舞台(人生)では、なかなか《上手く歌えない》というのも納得だ。きっと、この曲における「歌う」とは、「生きる」ことのメタファーだ。「終わりが書きあがっていない脚本」も、これからも続いていく人生という物語を連想させる。
2020年8月23日に放送された、TBSラジオ『米津玄師×野木亜紀子「MIU404」対談』での、野木さんと米津さんのやりとりがとても印象的だった。野木さんは、なぜ『迷える羊』を選曲したのか質問された際、次のように答えていた。
「何かこの曲だけ次元が違うなって感じがして、次元が違うって言うのは作品のレベルとかって意味ではなく、視点の次元がちょっと違くて、何か神話みたいだなって思ったんですね、最初に。で、すごく神話みたいだなあって最初思ったんですけど、聴いてるうちに、あっ、これは、今の歌なんだ、って思って。これ私の勝手な解釈ですけど、これはまさに今、この混迷を極める”now”、の歌を非常に、ある種戯画化してと言うか、戯曲かのように、描いている。つまり、これは、今の私たちの歌で、しかもそれが、大きな神話の一部である、という歌なんだな、と勝手に思って、何かうわあって思いました。」
この野木さんのコメントに対して米津さんは、
「やあ、すごい嬉しいっすねえ。その、まあ、俺もどこまで曲について口にするかってねえ、あるとは思うんですけど、本当にそういう風なことを、さっき野木さんが言ってくれたようなことを考えながらそういう意図で作ってる部分って言うのはものすごく大きくあったんで、だから、それをちゃんと汲み取ってもらえてるのはすごいありがたいですね。嬉しいですね。」
と述べていた。
『迷える羊』では、曲の始まりや曲中で、フィルムが回っているような音が聞こえてくる。ビートの無機的で電子的な音と、エレクトリックなギターの音、流れるようなピアノの音、何と表現すればよいかわからないがノイズのようなアクセントの音が混じり合い、不穏な雰囲気を醸し出している。そこから、サビが始まるところで鐘のような音が、私たちを目ざめさせるかのように鳴り、雰囲気がガラッと一変する。無機的なビートとは対照的に、そこに乗せられる力強く温もりのある歌声が、生命を感じさせるようなドラマティックな展開となっている。
《「千年後の未来には 僕らは生きていない
友達よいつの日も 愛してるよ きっと」
誰かが待っている 僕らの物語を》
サビの部分で、歌詞が鍵カッコとなり、まるで印象的な台詞のように浮かび上がってくる。会ったこともない、会うこともできない、未来の誰かに向けて、優しく、温かく、力強く呼びかけているような感じがする。もう自分が生きてはいない《千年後の未来》に対しての悲壮感は感じさせない。むしろ、すがすがしさを感じさせる。自分がいつかはいなくなってしまうのを悲しんだり寂しく思ったりするのではなく、その未来を生きる誰かに向けて、自分たちの物語を繋いでいくような希望を感じさせる。自分たちがいなくなってしまっても、その物語は、未来の誰かに受け継がれていくようなイメージだ。
《列なす様に 演劇は続く 今も新たに 羊は迷う
堪うる限りに 歌を歌おう フィルムは回り続けている》
混迷する世界においても、私たちの人生は続いていき、私たちは迷い続ける。そのような状況でも、《堪うる限りに 歌を歌おう》=「命ある限り 生きて行こう」と歌ってくれているように感じる。
《「君の持つ寂しさが 遥かな時を超え
誰かを救うその日を 待っているよ ずっと」》
この『迷える羊』の歌詞の最後の部分は、2018年6日3日の米津さんのInstagramにアップされている、「はるか昔の没曲」の歌詞とどこかリンクしていると感じる。
《君の抱える孤独がいつか 僕らを繋ぐ 鍵になる
その日まで暫しのお別れ また会えたその日に》
(米津さんのInstagramにアップされている音源から聴き取ったもの)
私は『迷える羊』の歌詞の最後の部分に、この没曲の面影を見た。本当のところは米津さんにしかわからないけれど、過去に書かれて世に出なかった曲が、『迷える羊』として生まれ変わっているとしたら、すごくすてきなことだな、と私は思いを馳せている。
自分が今感じている孤独や痛みが、会ったこともない、はるか未来の誰かを肯定することに繋がっていくかもしれない。400年以上前のシェイクスピアの劇が今も世界中で愛され、上演され続けていることを踏まえると、米津さんが創り出した音楽が何百年後の人々に届いていくことも夢の世界の話じゃないのではないだろうか。
ところで、米津さんが野田洋次郎さんとコラボした『PLACEBO』の歌詞にも、「コメディ」(comedy)や「トラジティ」(tragedy)といった、喜劇と悲劇を意味するワードが出てきて、人生が持つ演劇性やドラマ性を喚起する。
『迷える羊』を初めて聴いた時、どこか懐かしいような、覚えているような気がした。曲に聴き覚えがあるとか、他の曲と似ているとか、そういう類のことではない。曲を聴いた時に湧き上がってくるこの気持ち、この感じを、私は覚えていた。私が思い出したのは、米津さんの前作アルバム『BOOTLEG』に収録されている、砂漠をモチーフにした曲『ナンバーナイン』、『かいじゅうのマーチ』と、2015年に発表されたシングル『アンビリーバーズ』のカップリング曲として収録されている『旅人電燈』の3曲だ。これらの曲はすべて砂漠が舞台となっており、まるで1つの物語のように繋がり合っていると感じる。米津さんの音楽は、曲どうしが時間軸を超えて共鳴しているのだ。
米津さんは、『BOOTLEG』をリリースした頃の過去のインタビューで、なぜ砂漠が米津さんの作品において重要なモチーフとなっているのかと問われた際に、以下のように語っていた。
「なぜかと言われると難しいですね……まず最初に、バンド・デシネの巨匠メビウスという人がいて、メビウスの描く砂漠が自分の中の原風景としてある。「風の谷のナウシカ」もそうですね。やっぱり、砂漠が好きなんですよね。それは、自分の中で矛盾に近いような感覚なんですけど。砂漠に救いのような感情を抱くことがあるんです。廃れていって荒廃しているというネガティブなイメージもあるんですけれど、同時に、救いと言うかすがすがしさみたいな、そういうポジティブな感情を抱くこともある。それが一体どういうものなのか、自分でもよくわからないんですが。」
「砂漠のイメージというものは、自分にとっては死ぬこととすごく近いところにある気がしていて。例えば「ナンバーナイン」は、100年後や200年後、はるか未来遠くの世界、東京が砂漠になってしまったらどうなるだろうっていうところから作り始めた曲で。今自分は東京に住んでますけど、砂漠になった東京には確実に自分は生きていないわけですよね。周りにいる人間もみんな、影も形もない。けれどそこで起きている出来事は、やっぱりどこかで今から脈々と受け継がれているものであって。そういうものを、すごくすがすがしいなと思う瞬間があるんですよ。結局みんな死んでしまうというところに救いを感じる、と言うか。そうだからこそ、今を美しく生きようと思うわけで。でもその一方で、死んでしまうことに対する恐ろしさや不安、いろんな至らなさによって何かが滅んでしまうこと、誰かの怠惰やミスによって命が絶たれてしまうことへの痛みのような感覚も自分の中にある。そういう死に対して思うことと砂漠というのが、すごく近い感覚だなと自分の中では思ったんですよね。」
(2017年10月27日音楽ナタリー 米津玄師「BOOTLEG」インタビューより引用)
このインタビューで語られていることが、2016年に発表された『ナンバーナイン』の歌詞の世界観にも表れている。この曲は、同年に開催されたルーヴル美術館の展覧会「ルーヴルNo.9〜漫画、9番目の芸術〜」のイメージソングとして制作された。以下は、『ナンバーナイン』の歌詞からの抜粋だ。
《歩いていたのは 砂漠の中 遠くに見えた 東京タワー
君の抱いてた ボロいテディベア 笑ってみえた どこへ行こうか
海みたいに 砂は燃えた かつてはここで 人が生きた
先を急いだ 英知の群れが 壊したものに 僕らは続いた
惑いも憂いも化石になるほど 嘘みたいな未来を想う 切なくなるのも馬鹿らしいほど 優しい未来
恥ずかしいくらい生きていた僕らの声が 遠く遠くまで届いたらいいな
誰もいない未来で起きた呼吸が 僕らを覚えていますように》
《未来と過去が 引っ張り合うんだ か弱い僕らの 両手を掴んで
痛むことが 命ならば 愛してみたいんだ 痛みも全て》
《砂に落ちた思い出が息をしていた 遠く遠くから届いていたんだ
誰もいない未来の僕らの声が 美しくあれるように》
《何千と言葉選んだ末に 何万と立った墓標の上に
僕らは歩んでいくんだきっと 笑わないでね》
『ナンバーナイン』の歌詞には、《恥ずかしいくらい生きていた》や、《誰もいない未来》、《何万と立った墓標》といった、自分たちや先人たちの死を連想させる描写が出てくる。でも、そこにあるのは悲しみや恐怖や虚しさ、寂しさではなく、《遠く遠くまで届いたらいいな》、《僕らを覚えていますように》、《愛してみたいんだ》、《美しくあれるように》、という願いや祈りなのだ。だからこそ、希望があり、とても優しくて温かい。最後の《笑わないでね》は、過去から現在へ、そして未来へ向けて投げかけられた、優しい言葉であるような気がする。
2015年にリリースされたシングル『アンビリーバーズ』のカップリング曲として収録されている『旅人電燈』の世界観も、『ナンバーナイン』ととても響き合っている。以下は、『旅人電燈』の歌詞からの抜粋だ。
《ぼくは古い電燈 砂漠の真ん中でひとり
空に穴が開いて 灯りが漏れる夜
凍えた砂の上 墓標の立ち並ぶ場所で
息を吸い込んだ 肺いっぱい吸い込んだ》
《「誰か 誰か ぼくを 探して おくれ
寂しい 夜を ひとつ 切り取って おくれ
遠く 遠く 地の果て まで 届く ように ぼくは
照らして いるから いつでも」》
《いつのまにかここは 都市から砂漠へと変わり
あんなに賑わった 遠い過去も幻》
《「誰か 誰か ぼくを 見つけて おくれ
青い 青い 海へ 連れてって おくれ
甘い 匂いを 振り払い 続ける ため ぼくは
灯って いるから いつでも」》
《見つめてるよ ぼくは今も
地球の上で光る星だ
誰も ぼくを 知らなくとも
まだ見ぬあなたのために光る
あなたに会いたいな》
『旅人電燈』の歌詞の《誰か 誰か ぼくを 見つけて おくれ》と、《誰も ぼくを 知らなくとも まだ見ぬあなたのために光る》のところで、私は『海獣の子供』の登場人物たちが言っていた、「光るのは見つけてほしいから」という言葉を思い出して、何だか繋がり合っているな、と思った。
『旅人電燈』には、「墓標」、「遠く 遠く 地の果て まで」、「届くように」、「都市から砂漠へと変わり」、「遠い過去も幻」、「海」といった、『ナンバーナイン』とリンクするワードやフレーズが沢山出てくる。この2曲を聴くと、過去に人々が暮らしていた都市が砂漠化してしまった未来の情景が浮かんでくる。でも、『ナンバーナイン』と『旅人電燈』のどちらが過去なのか未来なのか、もしくは現在なのかははっきりしない。どちらが先で、どちらが後なのかはわからない。この2曲の関係性は、通常の時間軸を超えたところにある気がする。
そして、『旅人電燈』と『ナンバーナイン』の世界観と物語は、『かいじゅうのマーチ』にも繋がっていく。
《さあ出かけよう 砂漠を抜けて
悲しいこともあるだろうけど
虹の根元を探しにいこう
あなたと迎えたい明日のために
涙を隠しては》
《今あなたと出会えて ああほんとによかったな
胸に残る一番星 寂しいのに眩しいのに》
(米津玄師『かいじゅうのマーチ』より)
これら3曲は、まるですべてが一つの物語のように繋がっている。時は流れ、物語の舞台や時代、登場人物は入れ替わっているかもしれない。だが、これら3曲を聴いていると、時代や舞台が変わっても、登場人物たちは生まれ変わり、巡り巡ってまた出会っているのではないか、というような感覚になる。『ナンバーナイン』の歌詞にも、《眩しくてさ 目を閉じたんだ 枯れた川を 辿りながら》という箇所があり、「眩しい」というワードが出てくるが、『かいじゅうのマーチ』の歌詞にも「眩しい」というワードが出てくる。『旅人電燈』では《あなたに会いたいな》と言っていたが、『かいじゅうのマーチ』では、《今あなたと出会えて ああほんとによかったな》と言っている。物語という旅路の中で、時を超えて、登場人物たちは、ようやく「あなた」に出会えたのではないかと思う。
『迷える羊』の楽曲の世界観や、この曲が使われているカロリーメイトのCMの世界観と、米津さんの過去の砂漠をモチーフにした曲たちとの繋がりを感じた人も多いのではないだろうか。『迷える羊』や米津さんの砂漠をモチーフにした曲たちは、もう自分自身も、自分が知っている人たちも誰も生きていない、跡形もなくなってしまった千年後の未来を物語っていて、自分たちの「死」というものを含んでいる。でも、そこに絶望感はなく、むしろ、すがすがしさや希望がある。砂漠という一見ネガティブなものに、ポジティブなものを見出し、そのアンビバレンスを音楽に昇華させていく視点がそこにはある。
米津さんが創り出す音楽と物語には、普通私たちが考えるような、過去、現在、未来という直線上の時間軸ではない世界が存在している。どこが始まりで終わりなのかはわからない。《未来と過去が 引っ張り合う》ように、過去から未来へ、未来から過去へ、互いに呼びかけ合う、その狭間に現在があるようなイメージだ。直線的ではない時間軸。時計回りで過去、現在、未来と順番通りに巡るのではなく、開かれたまま、未来と過去と現在が自在に行き来するようなイメージである。それは、時間軸を超えて響き合う過去、現在、未来であり、そこでは音楽と物語が、美しく繋がり合っているのだ。