北三陸 普代村「鵜鳥神社例大祭」
先月5月3日、下閉伊郡普代村「鵜鳥神社例大祭」が催され、多くの人出で賑わった。
古来北三陸漁業者が篤く信仰する大明神で、近隣はもとより陸中海岸一帯の人々から「鵜鳥さん」として親しまれている。
藩政期には八戸藩主名代の代参も記録される由緒ある神社、建立は延暦二十三年(804年)或いは大同二年(807年)とも言われる。
この大同二年起源の諸社は数多くあり、それでも平安期の古文書の存在が伝えられるなど少なくとも一千年の歴史があると観られている。
例大祭当日、多くの氏子・漁業者などが社務所にお揃いの様子が伺えた。
昭和の頃には、おそらく例大祭当日は近隣の小学校も休日となり、出店が出て多くの人でにぎわい北三陸各地からの親子連れや漁業者など朝早くから参集する様子が記憶に残る。
桜鱒を竹竿に提げて持ち寄り寄進する者、社務所での神楽舞にお神酒の勢いも駆って大いに盛り上がる祭りその物だった。
普代村は、盛岡藩の高知衆桜庭氏の知行地が主で、地元の有力者が協力しながら地域経営に当たったと言われる。
18世紀後半から幕末の北三陸は「たたら製鉄」・海川漁業が隆盛となり、これらの地域産業に関わった有力者の気脈が今に引継がれている。
当方の系譜に盛岡藩参政や藩校「作人館」用人がおり、その子「十郎竹介」は明治初期に鵜鳥神社神官を務めている。おそらく作人館において和漢学あるいは国学を担当したのであろう。
この作人館は明治3年「盛岡県学校」となり、教官として「十郎」=県学少得業生、叔父の「巳代司」=県学大得業生、「小田仙彌」~小田為綱=県学長上生(兼寮長)の名が見える。
「盛岡県学校」は設立後まもなく和漢学を廃し「盛岡洋学校」となる。しかしこれも、維新後の政治・行政・学制混乱により明治5年新学制発布=廃校となる。
既に明治4年県学校において和漢学教授が廃されたことにより、多くの教官などが新たな職を求めて各地に散らばり、18世紀後半より製鉄・漁業・海運など諸産業の上昇期にあった野田代官所内の盛岡藩家老・野田舎人、子息で盛岡藩権大参事、盛岡県大参事・野田丹後縁の地に関わったものと思われる。
3日例大祭の午前から昼にかけて鵜鳥神楽の披露があり、今は普代村白井地区から岩泉町龍泉洞近くまで立派な「林道」が完成し、昭和の砂利道時代からすれば隔世の感~そんなこんな思い出しながら、昨夏以来久しぶりに「鵜鳥神楽」を堪能させていただいた。
国指定の重要無形民俗文化財となり、近年保存会のリーダーの一人を亡くして悔しい思いであったが、当日大阪・追手門学院大学の橋本教授より保存会若手新メンバーの紹介があるなど、前途を祝福したいところです。
なお例年の「普代まつり」でも小中学生を含む神楽舞が上演されます。