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株式投資家の暮らしと夢

4507  塩野義製薬(株)

2017.06.12 15:00

塩野義製薬株式会社は、大阪府大阪市中央区道修町に本社を置く、日本の製薬会社であり、医療用医薬品を主とする製造販売メーカーです。

公式の社名略称として「シオノギ製薬」あるいは「シオノギ」も用いられています。

社名の由来は、創業者の塩野義三郎の名に因むものです。

ロゴマークは、天秤で薬量を正確に計量するために用いられた分銅に由来しています。

コーポレートメッセージは皆様の健康と幸福に貢献するです。

高脂血症薬が大型製品になっています。

感染症、疼痛・中枢神経領域に強みがあります。

米国に積極展開し、欧州、アジア開拓しています。


会社概要を見ていきましょう。


初代・塩野義三郎により創業

創業者の塩野義三郎が、1878年(明治11年)3月17日に、大阪・道修町にて薬種問屋「塩野義三郎商店」を開きました。

なおこの店の商号は、正確には個人名のみの「塩野義三郎」でした。

ただし、義三郎個人と店に関する事柄を区別するため、「シオノギ百年」(脚注参照)などに見られるように、通常はこれを「塩野義三郎商店」としています。

塩野家と道修町との関係は、義三郎の祖父・初代吉兵衛が、1789年(寛政元年)、道修町の薬種商「塩野屋藤兵衛」家に12歳で奉公に出た時に始まります。

初代吉兵衛は、1808年(文化5年)、塩野屋藤兵衛の別家として、言わば「のれん分け」というカタチで、塩野屋吉兵衛を名乗ることとなります。

"塩野"姓を名乗るのは、続く二代目吉兵衛の時です(1872年(明治5年))。

なお、塩野屋という屋号自体は、道修町に残る最も古い文書(1658年(明暦4年))にも記載されており、道修町でも古いのれんを誇っていました。


和漢薬問屋から洋薬専門メーカーへ

創業当初は和漢薬専門であったが、明治維新後の西洋医学普及に伴い、洋薬の需要が高まると共に、1886年(明治19年)、和漢薬専門から洋薬のみを取り扱う方針に切り替えます。

そして1909年(明治42年)には、自家新薬第一号として「アンタチヂン」(健胃制酸薬)を製造販売します。

翌1911年(明治44年)には、1909年にドイツで開発された「サルバルサン」(梅毒治療薬)を輸入販売しています。

さらに1912年(大正元年)には強心剤「ヂギタミン」、1917年(大正6年)には睡眠鎮静剤「ドルミン」、1918年(大正7年)には下剤「ラキサトール」などを次々と製造販売します。

また家庭用医薬品として、1926年(大正15年)に皮膚病新薬「オイロ」、1929年(昭和4年)に水虫専用薬「ポンホリン」、1931年(昭和6年)に痔薬「カヴィドール」、1933年(昭和8年)に狭心症薬「ハセスロール」などの製品を販売します。

この他、大日本臓器研究所(現:日本臓器製薬)が製造していた増血薬「マスチゲン」を取り扱ったり、また独・バイエル社の代表的薬品として知られるアスピリンのライセンスを得て、「シオノアスピリン錠」として、国内で製造販売するなどしていたことがあります。


工場竣工・法人化

医薬品製造工場として、1892年(明治25年)に、相生工場、1910年(明治43年)には塩野製薬所、1921年(大正10年)には浦江試験所、1922年(大正11年)には杭瀬工場を建設します。

同時に販路を全国に拡大するための営業活動を展開しつつ、1919年(大正8年)法人としての、株式会社 塩野義商店への改組を経て、1943年(昭和18年)に現社名に改称、総合的な医薬品製造販売メーカーとしての基礎を固めました。


抗生物質へ本格参入

第二次世界大戦直後、シオノギは製薬業界の花形商品となった抗生物質、ペニシリンの開発を試みたが、技術面・資金面ともに力不足だったため、止む無く断念しました。

しかしその後も抗菌薬の研究をおこたることなく、医療用医薬品市場が、抗生物質全盛時代を迎えた1980年代後半にかけて、抗生物質で売上高首位を記録します。

主力となったのは、1960年代に新たに開発されたセファロスポリン系(セフェム系)抗生物質です。

シオノギでは、製造元の米・イーライ・リリー社から、発売間もない新製品を次々と導入し、自社で製品化していきました。

また自社研究所で新薬の創製に成功したことで、シオノギは輸入商社としての機能に加えて、製造(製剤)能力および研究能力を兼ね備える一大医療薬品メーカーに成長しました。


抗生物質衰退後・現在まで

シオノギでは現在、医療用医薬品市場の3本柱として、感染症領域、がん性疼痛緩和領域、そして循環器領域を主力としています。

一方で、感染症治療薬の使用量は1980年代に入ると、耐性菌に対する懸念などから横ばい状態となり、1990年以降大幅に減少しました。

それに伴い、抗生物質依存度の高かったシオノギの業績は急激に落ち込みました。

それを救ったのが、クレストールです。

クレストールは、1991年(平成3年)にシオノギで創製後、1998年(平成10年)に、英・アストラゼネカ社が開発を引き継いだHMG-CoA還元酵素阻害剤(脂質異常症治療薬)です。

日本での発売は2005年(平成17年)であり、2009年(平成21年)10月現在、100か国以上で承認及び80か国以上で販売されています。

シオノギに入るロイヤリティーも大きく、同社は2010年以降業績を持ち直しています。

また、シオノギと医療用麻薬とのつながりは、麻薬5社のうちの一社として、1948年(昭和23年)に、モルヒネなどオピオイドの製造販売を開始したことに始まります。

1989年(平成元年)には、「WHO方式がん疼痛治療法」にそって、MSコンチン錠(モルヒネ徐放錠)を発売します。

2003年(平成15年)には、オキシコンチン錠(オキシコドン徐放錠)、さらに2007年(平成19年)には、オキノーム散(オキシコドン散剤)を発売します。

MSコンチン錠とオキシコドン各製剤は、共に「がん性疼痛治療薬」として、基本となる薬剤(成分および剤型)です。


業界屈指の営業部隊

種々の方法で製品化された有用な医薬品を、医療の最前線に届けるのは営業マン(プロパー)の仕事です。

シオノギの営業と言えば、抗生物質全盛時代には最強の営業部隊として知られていました。

文献検索や学会発表用のスライド作成など、処方元の医者のために限界までつくしたと言われています。

そのプロパーのことを、シオノギでは当時すでにディテールマンと呼んでいました。

そして例えば、自社抗菌薬の特性を論理的に説明(ディテール)する手助けとして、「PK/PD理論」のさきがけともなる考え方をいち早く採用していました。

製薬業界全体で、プロパーの呼称をMR(医薬情報担当者)と改めたのは1993年(平成5年)のことです。

そしてその後の、国家公務員倫理規程の強化、女性MRの台頭、さらには接待行為の全面的禁止が2012年(平成24年)4月から実施されるなど、医療関係者(特に医師)とMRとの関係は急速に変化してきています。

そうした中で、シオノギでは2012年初頭から、ディテールマン(医科向け営業マン)の属していた「学術部」の呼称を廃止しています。

1886年(明治19)の洋薬転換後、「シオノギ」ブランドで数多くの家庭用医薬品を取り扱っています。

戦後に入ると、これら戦前からの家庭用薬品からは撤退し、1961年(昭和36年)大阪市福島区の工場を研究所に格上げすると共に、病院向け抗生物質へ本格参入します。

抗生物質分野でのシェアを不動のものとします。

現在は取り扱う医薬品の90%が治療用の製薬が占めており、主力は、高脂血症治療薬・抗生物質・癌性の疼痛治療薬です。

かつては医薬品業界における同社のイメージと言えば、「抗生物質(抗菌剤)」と「強力な営業部隊」で知られ、かつて、抗生物質全盛の時代には、快進撃を続けていた医薬品メーカーでした(規模の点では、昔から武田薬品工業の方が大きかったが、武田は幅広い分野に満遍なく製品を揃えるという全方位的なメーカーであると言う大きな違いがあります)。

しかし近年、耐性菌の問題が取り沙汰され、抗生物質自体の売れ行きが鈍くなると共に、抗生物質に大きく依存していたため、一時急激な減益で先行きが危ぶまれたが、高脂血薬のクレストール開発販売が成功した、2010年(平成22年)以降急速に業績を回復しつつあります。


シオノギ製薬の怖いCM


たった一言、「怖い」と入っているだけで、他のCMより優先して見てしまいますね。


前回は6/5(翌営業日6/6)に5,913円で見送りの投資判断をしています。

http://ameblo.jp/kurasitoyume/entry-12167429698.html 

天井打ちましたし、当たり判定で良いかと思います。


そして投資判断ですけれども、ここは利益率が高いので、最近自分の中でヒットしている「約分法」で判定したいと思います。

まず営業利益率が30%ありますから、これを3%と考えると、時価総額はどのくらいが適切でしょうか。

売上高の半分くらいでしょうね。

そうするとそれを10倍に戻すと売上高の5倍くらいまでは許容範囲かと思うのですが、実態おしては6倍ありますね。

割高だと思います。

信用倍率は1倍以下ですが、今回は見送ります。