タルクィニア・モンテロッツイのネクロポリ②【2017.5-6ローマ&プラハ】
ひもじいランチタイムを過ごしたあと、水も入手して俄然ヤル気になったわたし達は、またもや炎天下の下、歩いて行く。
午後2時、地中海の太陽がこれほど憎らしく思えたことはない。
途中の公園でやっと湧き水を見つけてペットボトルに補給。さらにタオルを濡らして首に巻きつける。オシャレの国イタリアのはずだが、誰も歩いていないしオシャレに気を使っている場合ではない。
スリさえもいないイタリアって逆に怖いな
と思いつつ歩くこと1時間。
タルクィニア、モンテロッツイのネクロポリ到着
やっと辿り着いた!
と思ったら、当たり前だけどやっぱり炎天下の中を歩いて見学する羽目に。
ネクロポリの外は誰も歩いていなかったけど、施設内部にはチラホラと観光客の姿があった。
この人たち、いったいどこから来たんだろう?(笑)
ちなみに、モンテロッツイのネクロポリ内は日本人どころかアジア人皆無だった。
まぁ、欧米は6月からバカンスシーズンに入るが、日本人はGWも終わったところで海外への旅行客は少ない時期なのだろう。
広大なモンテロッツイのネクロポリ内には墳墓が点在しており、洞窟のようになった墓へと潜っていくとガラス張りの向こうにエトルリア人の芸術を見ることができる。
エトルリア人は紀元前6世紀ごろから2世紀ごろまでイタリア各地に居住し、やがてローマ人らと混ざり合って自然に消滅したという。
イタリア人のホテルマンによると、未だエトルリア人は謎の多い民族で、どこから来たのか、どこへ行ったのかよくは知られていないそうだ。
そんな不思議なエトルリア人の芸術には、確かに中近東やギリシャの影響を色濃く受けながら独自の文化を発展させたような特殊な雰囲気が漂っている。
一説によるとトルコあたりから渡ってきた人々だとも言うそうだ。
エトルリア人を描く褐色の肌は、現代のイタリア人らラテン系の人々が日焼けした肌の色だと解説書に書いてあった。
そう言われてみると今のイタリア人にエトルリアの痕跡を感じることができる。
ネクロポリに辿り着いたのが午後3時、たっぷりエトルリアの芸術とともに美しいローマ郊外の山野を楽しんだ。タルクィニアの風靡な丘にあるネクロポリからは、素晴らしい田園風景だけでなく海を眺めることも出来て、イタリアの新しい姿を発見したように思う。
帰る手段のない帰り道
午後6時前、やっとネクロポリを出た。
夏至の近いイタリアは日が長く、この時間でもまだまだ真昼のような太陽が照り輝いている。
施設内の従業員にバス停を聞くと、
タルクィニアの旧市街から駅までバスがある、
と言われ頑張って歩くこと20分。
なにやら素敵な街が見えてきた。
タルクィニアの街は9〜10世紀ごろに作られた教会などの建築物があり、とても古い街並みを今に残している。
途中で一度見かけたバス停でおしゃべりをするおばあちゃん達に「ここにバス来る?」と聞いたら、
「今日は日曜だから来ないよ。」
と嫌な予感のする返事をもらったが、おばあちゃん達も親切なもので、
「よく分かんないけどタルクィニアの駅に行くなら市街の広場に出てみたらバス来るかも。」
と付け加えてくれた。
バス停に着くまでの間にロマネスク建築とみられる美しい教会に出会った。
教会内部に入りたかったがバスが気になるのでスルー。
しばらくすると、なにやら賑やかな広場に出た。
今日は聖人ジョヴァンニの生誕祭か何からしい。
だからタルクィニアの街に人っ子一人いなかったのかもしれない。
午後6時半。
そのすぐ下にバス停があると聞いた広場と同じ名前の場所を発見したので、おそらくここがバス停なのだろうと見当をつけたものの、誰もいない。
バス停のすぐ横にエトルリアの美術館らしき建物があったが、バスが気になるのでとにかくスルー。
こっからバスがなかったらどうしたら良いんだろう?タルクィニアの駅からは、ネクロポリ以上に離れてしまっている。
ここまでは携帯の地図を起動し、ナビに従ってなんとか来れたけど、
iPhoneの電池残量が2パーセント!
と死にかけている。
わたしたちもお腹がすいたし足も棒みたいだし、やっぱり死にかけている。
水も残り少なくなってきた。
店は開いていない。
にっちもさっちもいかなくなったが、止まっていても仕方がないので明るいうちに歩くか、
最悪ヒッチハイクでもしようか、
と考えたその時。
奇跡の出会い
「バス待ってるの?」
二人組のおばちゃんに、カタコトの英語で話しかけられた。
「バスねぇ…待ってるけど、来るかどうか分かんないの。」
答えるわたし達。
おばちゃん「わたし達もバスに乗りたいの。行き先はチヴィタヴェッキアよ。あなたたちは?」
わたし「ローマに行くつもり。」
おばちゃん「そう…バス、来るのかしら」
わたし「さぁ…」
すると、おばちゃん達は何やら呟いて、バス停から一度姿を消した。
「あの人達も困ってるのね、どうするんだろ?」
思考能力が低下したわたしと母は、とりあえずバス停に座ったままボーッとする。
するも、10分ほど経って、おばちゃん達がすごい勢いで戻ってきた。
「バス来ないって、日曜だから」
あぁ、絶望的。
肩を落とすわたし達に、まさかの提案をしてくれたおばちゃん達。
「わたし達、タクシー呼んだの。チヴィタヴェッキアまでだけど、一緒に乗らない?」
これぞ天からの助け!
チヴィタヴェッキアまで行けば駅があるので、なんとかローマに帰れる。
ちょうど、わたしもチヴィタヴェッキアという地名を知っていたので、すぐさま反応した。
「乗りたい!」
おばちゃん「チヴィタヴェッキアまでだけど…」
わたし「大丈夫、チヴィタヴェッキアからならローマに帰る方法分かるから。」
おばちゃん「じゃあ、40€かかるみたいだから1人10€でどう?」
わたし達「喜んで!」
10分後、やってきたタクシーに相乗りして、わたし達は無事にチヴィタヴェッキアの駅まで戻ることができた。
おばちゃん達はアルゼンチンから来たという話だった。地球の裏側同士がイタリアで出会えるってのも、旅の醍醐味だなぁと疲れも吹き飛ぶ嬉しさを感じた。
ところで、アルゼンチンの人はスペイン語を話すからイタリア人とは6〜7割くらい、母国語同士で意思疎通できるそうなのね。
大航海時代、スペインに発見された国々、歴史的には残虐なこともされたんだろうけど言語的にはちょっと羨ましい。
タクシーの中で記念撮影。
チヴィタヴェッキアまでは30分ほどのドライブで、車内でメルアドを交換したり、わたし達の作った折り紙をあげたりして楽しんだ。
午後7時半、無事にチヴィタヴェッキアへ辿り着いたわたし達は、おばちゃんとハグの挨拶を交わしてローマ行きの電車チケットをゲットした。
チヴィタヴェッキアは日本人にも縁の深い街だった
駅構内で電車の乗り場を探しながらウロウロしていた警官に尋ねると、親切に答えてくれながら「国はどこだ?」と聞かれたので「日本だよ」と答えた瞬間。
「イシノマーキ、イシノマーキ」
と大興奮されたので驚いた。
いしのまきって誰やねん?
と思っていたら、なんと日本の石巻市のことを言っていたのだった。
チヴィタヴェッキアと石巻市は姉妹都市で、チヴィタヴェッキアには石巻出身の支倉常長の銅像が立っているとのこと。
支倉常長はキリシタン大名で、チヴィタヴェッキアに訪れたそうなのね。
で、チヴィタヴェッキアには日本人のキリシタン殉教者のための教会もあるそうだ。
なにも知らなくてごめんなさい。
たまたま、渡欧直前に神戸市立博物館で行われていた遣欧使節関連の美術展を見に行ったり、飛行機の中で映画「沈黙」を見たりしていただけに、キリシタン絡みのネタにまた出会ってなんとなく運命を感じた。
しかも、わたしの母方の家系は仙台出身で伊達藩に関係しているので、石巻やら支倉常長というとかなり縁の深い存在。
警官にそう伝えると、彼らもとても嬉しそうな顔をしてくれた。
そんなこんなで、午後9時、やっとローマ・テルミニ駅に戻ってくることが出来た。
この日はボロボロの身体を引きずって、日本人にとっては癒しの味である中華料理をがっつり食べて眠りたかった…のに。
夜中、ホテルマン氏に連れられてジェラート屋へ行く羽目に。いや、美味しいんだよ、地元のホテルマン氏オススメだけあって、とっても美味しくて安いジェラートを2種類も食べることが出来たから幸せなんだけど。
寝不足で死にそう。(笑)