【ブログ】違うものを選ぶということ、選民意識と西野カナに関する雑記
最近、自分の中で恐るべき変化があったのでそれを書き留めておきたく…本日のブログです。
西野カナを聞きながら、交換日記気分でブログを書いているのですが、ここ一週間くらい考え方や心境に変化が訪れたのです。
どういうことかというと「男性体系的な考え」から脱皮したとでもいいましょうか。
一週間前くらいにふと「許しとか赦しってなんだろう?」ということが頭をよぎり、それが離れなくなったんですね。
いままでそんなことはなく、私はどちらかというと「弱肉強食」的に世界を見ていました。
というのも、「自分が力をつけなければ、世の中というのは怖いものだ」という前提が頭の中にあり、「強くなければ淘汰されてしまう」と思いながら、淘汰されないように自分で戦っているという自負が強くあったのです。
負けてしまわないために、考えなければ。
挫折しないために、心を強く持たなければ。
騙されないために、線引きしなければ。
泣きをみないために、交渉しなければ。
頭の中にはいつもそのようなことがありました。
つまり、交感神経優位の好戦的な思考が8割を占めていたのです。
理由は、世の中は怖いから。自分が強くなければ負けてしまう。自分が賢くなければ、騙されてしまう、という強迫観念から自分を守ることでいっぱいいっぱいでした。
なので、譲れないところは譲れない。だってそれで負けてしまって泣きをみるのが自分なら、あらかじめ守らなくては。と思っていました。
しかhし、自分を守ろうとすればするほど、自分とは違ったり自分を脅かす価値観に対して批判的になってもいきます。
いま思うと、きっと心のどこかで「自分は元々弱かったけど、頑張って強者になった」という自負と「努力して強者でいなければ、なにかに食われてしまう」という一抹の恐怖があったのだと思います。
なにかに食われてしまうってなんだよ!進撃の巨人かよ!って感じなんですけど、まぁそんなように「弱肉強食」的に物事を見ていたのが…ですよ…ここ一週間で
「弱肉強食であるなら、強者は畑を耕すべきだ」みたいな考えが降ってきたのです。
なんていうか、「自分の強さ」という囚われから解放されたとでもいいましょうか。
「自分は努力してきた、だから強者だ」とかゆー自負を他人に見せつけなくても、努力を評価を請わなくてもいい、という謎の気持ちが湧いてきたんですね。
もともとニーチェの超人思想のような「強くあるべき論」信者だったので、いま書いている本にも「オラオラ系思想」は影響していたのですが、なんかうーん、違うなーとか感じ出して、いま方向性を再構築しています。うーんこの変化は、ノブレスオブリージュからの脱却ですかね。(※くわしくはぐぐってください)
「自分が努力したからじゃなくて、なんか恵まれてたんだな」「じゃあ英気を養いつつ、人に還元しなくてはいけないな」みたいな気持ちが湧いてきたんです。
まぁこの心境の変化は「メジャーデビューした途端、尖った歌詞ではなく人類愛を歌い出すロックバンド」みたいでちょっと抵抗感もあるんですが…。
で、なぜこのような心境になったか考えたんですよ。
でも特に一週間前に思い当たることはなくて、うーんと考えていたら…
一つあったんです!!!!
それは、、一週間前くらいから西野カナを聞きはじめたんですよ!!!!
キッカケは忘れましたけど、いままでひねった歌詞の歌が好きだったので、西野カナは聞いたことがなかったんですが初めてちゃんと曲を聴いてみたんです。
すると…歌詞がシンプルだからか…頭が休まり瞑想みたいな効果がある…!!!ということに気づいたのです。
いままでこういった歌詞の曲は避けてきていたのですが、異常な心地よさに包まれ、いまでは毎日聞いています。西野カナは現代の念仏ですね…。
以上