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渋谷昌孝(Masataka shibuya)

数学的存在者

2021.12.04 13:41

ハイデガーはデカルトの数学的認識についての考察を「存在と時間」のなかで次のように述べている。


「数学的認識は、その認識のうちでとらえられた存在者の存在を確実に所有していると、いつでも確信しうるような存在者の把捉のしかたであると考えられている。数学的な認識において接近可能となる存在を満足させるように、その存在のしかたからして存在しているもの、それこそが本来的な意味で存在しているとされるのである」


「本来的に存在しているのは、間断なく止まりつづけているものである。そうしたものを、数学が認識する。数学をつうじて存在者にかんして接近可能なものが、その存在者の存在を形成するのだ」


ハイデガー「存在と時間」第一部 第一編 第3章 (岩波文庫)


【私的解読】


どういうことだろうか?数学によって探しだされる発見は、数学という学のしかたにおいてのみ発見される。数学的認識で把捉されるものは、そのようなしかたで発見されるのを待ち望んでいるが、そのようなしかたでしか姿を現さない。数学的認識でのみ接近可能なものだけが、数学的な存在として発見されるのであって、数学的存在者(造語!)ともいうべきものが数学的認識に応えるかたちで露呈される。この露呈された数学的存在者は当然ながら数学的な覆を纏っているだろう。数学的存在者も存在者であるが、それが導かれた仕方に癒着依存しているから単独の存在者というよりも、手をもつような存在者である。手は何かを捉えようとしているし、また手放された瞬間の手であるかも知れない。手は数学的な臭気を放っており、数学的な色彩に染まっている。この存在者(数学的存在者)は数学的な属性を有し、かつそれに規定されている。この場合、存在者の存在を形成するものは、数学を通じて接近可能なものだけである。数学的に存在するものは、数学的な認識で接近可能な存在を満足させるような〈存在の仕方〉で存在している。