城田実さんコラム第8回「ラマダンに入って」(メルマガvol.15より転載)
ラマダン(断食月)が始まった。ジョグジャカルタで暮らしていたころには、普段はイスラムと縁遠い生活をしていていたのに、ラマダンが始まると人々の暮らしの中から生まれる独特の雰囲気に新鮮な異国情緒を感じたものだった。
ジョグジャカルタの下宿はオランダ時代の官吏の家柄だった。気品のある典型的なジャワ貴族の末裔という感じの老夫婦ふたりだけの、慎ましい暮らしぶりの家だった。稀に上品な伝統のバティックをまとって外出するが、毎日が昨日と同じように流れて行く日々のように見えた。
話し方はいつも穏やかだし、年配の女中さんが時に笑ったり驚いたりする以外に大きな声も滅多に聞かない。その日常が少し変わるのがラマダンだ。まず静かな夜明け前の時間に人が立ち働く気配と食器などの音が聞こえる。普段はそうした生活音も目立たない家なので、断食前の食事の準備にすらムスリムとしての喜びを感じているかのようにその音が響いてくる。
高齢者にとってラマダンは日中の陽射しだけでもきついと思うのだが、気のせいか表情にはむしろ張りがあって笑みもいつもより多く見えるのが不思議だ。ラマダン前の淡々とした日常がラマダンを迎えて急に色彩を帯びてくるように眼に映った。
ラマダンの楽しみはやはり日没後の断食明けの食事のようだ。家族や友人らが集まって一緒に食事するにぎやかさは格別に違いない。インドネシア人の人と人との繋がりの緊密さはこんなところにもみなもとがあるのかも知れない。断食明けの食事を職場の同僚や仲間、仕事相手などとの親近感を育てる絶好の機会として活用するのは、ムスリムでない日本人の間でも少なくないようだ。
ラマダンで思い出すことの一つに寄付の勧誘がある。インドネシアに来て日も浅く、日頃の信仰心の薄い筆者や若干の友人たちにとってはちょっとわずらわしい経験として記憶されている。
ラマダンに入ると貧しい人たちのための色々な寄付が盛んになるようで、住宅地でも寄付を募って回る人が増えてくる。アラビア語で綴られたいかめしいレターヘッドを使った勧誘文書に隣組の会長らしき人物の署名があったりすると、これも近所付合いか、と思ってなにがしかの寄付をするのだが、そうすると次々に新たな勧誘者が訪ねてくる。
インドネシアの友人に相談してもはかばかしい返事はない。どうもこの国の「貧しい人への寄付」は日本的な上から目線の「施し」とは少し違うのかも知れないとこんなことで気付き始めたりする。
世界遺産のボロブドゥール寺院が国立公園として整備されるずっと前には、遺跡のすぐそばまで車で乗り付けることができた。当時はまだユネスコ(国際連合教育科学文化機関)による修復が未だ始まっておらず、回廊の床は波打ち、レリーフを施された壁面も傾いたりしていた。
ここを訪れたことのある人はご存知かと思うが、この遺跡は正方形に近い形の基層(一辺が115m)の上に5層の方形壇とその上にさらに3層の円形壇が積み上がった階段ピラミッド状になっている。車を降りてすぐの基層を登ると、その階段に何人かの「物乞い」が並んでいて、そのうちの一人が朗々と恵みを乞う言葉を歌うように語っている。
いや、当時はまだよくインドネシア語も分からなかったが、あの堂々とした語り口はとても日本風の「施しを乞う」姿には見えなかった。観光客がお金をあげても一顧だにしないし口調に変化もなかった。
想像するに、彼は「大遺跡観光の記念に喜捨の機会を与えて進ぜよう。あなたの旅行はより豊かなものになるであろう」とでも唱えていたのではないだろうか。もっともこの遺跡は仏教遺跡である。しかし中部ジャワの真ん中あたりのあの盆地には仏教徒とはほとんどいなかったから、彼もムスリムであったと思う。のどかな風景であった。
いくつかの記憶の中で、ラマダンを迎えるインドネシアの風景にはいつも日本の大晦日と除夜の鐘を迎える時のような少しの慌ただしさと平和な空気、そしてお盆前の賑やかさが漂っていたように思う。今もそれは変わっていないのだろうが、今年またしてもラマダン前にイギリスでテロ事件が発生した。続いてインドネシアでも首都で死亡者が出る爆弾テロがあった。ラマダンはテロの季節と錯覚を起こしかねない事件が当たり前のようになっているのは残念なことである。(了)