ZIPANG TOKIO 2020虎渓山 永保寺 夢窓国師作庭『永保寺庭園』と『虎渓山のパワースポット』」
周辺の自然風景を借景に造られた庭園で、夢窓国師の作庭と伝えられる。国の名勝「永保寺庭園 無際橋」「永保寺庭園 梵音巌」舟遊、回遊、鶴亀の蓬莱と多彩な形式をもちい、自然の地形を見事に活かしている。巨大な岩盤から流れ落ちる滝は、仏の声を聞くとして「梵音巌」と名付けられている。清々しく爽やかで秋の紅葉は見事であり、冬の景色もまた別格である。
虎渓山略縁起
山号は虎渓山。虎渓の名称は景色が中国廬山の虎渓に似ていることによるといわれています。 1313年(正和2年)土岐氏の招きをうけた夢窓疎石が長瀬山の幽境に庵居しこの禅寺を開創されましたが、 1317年(文保1年)夢窓は同門の元翁本元(仏徳禅師)に寺の後事を託して上京されました。 1335年(建武2年)夢窓が臨川寺(京都)開山となられたとき、永保寺開山は元翁本元に改められました。 元翁の寂年は1331年(元弘1年)で、開山となられた時にはすでに遷化されていましたが、 元翁の塔所である南禅寺正的庵末寺の五山派寺院として展開しました。 しかし文明期以後には衰微しましたが、江戸時代の1746年(延享3年)には末寺28ケ寺、孫末寺1ケ寺を有し、 山内塔頭(たっちゅう)の輪番によって住持をつとめ護持されてきました。
現存する開山堂と観音堂は国宝に指定され、 両堂には南北朝期から室町初期における歴代住持や檀那の位牌が納められ、 開山堂には元翁本元と夢窓疎石の木像が安置されています。 絹本着色千手観音像(重要文化財)のほか、夢窓や元翁の墨跡など数多くの文化財を所蔵し、 観音堂前の庭園は臥竜池と称する池に反り橋の無際橋がかかり、浄土教的庭園の様式を感じさせる名庭で、 国の名勝に指定され、建築・庭園・墨跡など禅の美術で注目される禅寺です。 また近世末期には白隠慧鶴の一系に属する春応禅悦(霊機神応禅師)により僧堂が開かれ、 雲水が禅の修行に励む臨済宗南禅寺派の専門道場(虎渓僧堂)を併設しています。
国宝 永保寺観音堂
国宝 永保寺開山堂
夢窓国師
夢窓疎石は文永の役(一度目の元寇)の翌年、1275年に伊勢の国にお生まれになりました。 9歳で出家し、一山一寧や高峰顕日のもとに参禅されました。 30歳の頃に悟りを開き、権勢に近づくことを好まず、諸国に小庵を建てて修行に励まれました。 1312年、三河鳳来寺の大徳寺を開かれ、一年あまり逗留されました。 1313年、夢窓疎石38歳の頃ですが、高峰顕日のもとで一緒に修行していた元翁本元とともに 土岐頼貞に招かれて長瀬山に来られました。 三河の大徳寺から来られたようですから、足助、土岐市を経由し、 現在の小名田・高田町を流れる川沿いに長瀬山をめざされたと考えられます。
夢窓疎石はこの地にしばしば逗留されること4年、1317年には虎渓山から出られることになりました。
夢窓国師坐像
開山仏徳禅師
開山仏徳禅師(元翁本元)は弘安4年(1281)三河設楽郡大草(新城市)の出身とされ、 14歳頃に出家し、鎌倉の東勝寺で無及和尚に就かれたと考えられています。この無及和尚は中国僧の蘭渓道隆の弟子で、 自身も入宗して無学祖元和尚(仏光国師)に就かれた方であり、永仁3年(1295)には夢窓疎石も無及和尚に参じておられました。 その後元翁本元は兄弟子の夢窓疎石と行動を共にされることが多く、来朝した中国僧の一山一寧や 後嵯峨天皇の第二皇子であった高峰顕日に師事され、印可を受けられました。 正和2年(1313)仏徳禅師は甲斐の浄居寺に赴かれ、同寺に住持していた夢窓疎石とともに元翁本元の故郷を経由して 美濃の長瀬山に来られました。正和5年(1316)夢窓疎石は長瀬山を出られ、元翁本元が居住しました。
仏徳禅師坐像
正中2年(1325)夢窓疎石は後醍醐天皇の命により南禅寺に入られることになり、元翁本元も夢窓疎石に伴われ、 南禅寺に正的庵を設けられました。元徳元年(1329)49歳で後醍醐天皇の命に南禅寺11世住持となり、 3年後の元徳3年(1332)旧7月4日51歳で示寂されました。
遺偈には「去不去 留不留 月西沈 水東流 瞎驢不會 普化直綴 一鐸聲盡 碧天悠々 喝一喝」とあります。
仏徳禅師遺偈
虎渓山専門道場
虎渓山は1313年、閑静な修行地を求める夢窓国師・仏徳禅師らにより開かれました。 暫くすると夢窓国師を慕う修行者が多く集まり、仏徳禅師を開山として永保寺が創立しました。
虎渓山は土地の豪族や有力者の菩提を弔うために開かれた寺院とは異なり、あたかも祇園精舎の如く求道者が集まり発展した寺院です。従って檀家を持ちませんが、多くの信者により雲水修行が支えられています。
坐禅石より望む永保寺庭園
1830年に開山仏徳禅師500年遠諱を記念し、春応禅悦により僧堂が開単されました。 その後明治初期には僧堂閉単もありましたが、明治14年(1882)開山仏徳禅師550年遠諱を期に柏樹軒潭海玄昌禅師により再開単され、臨済宗南禅寺派虎渓山専門道場として現在に至っています。
現在の師家は南禅寺派管長香南軒中村文峰老師の法嗣で、万仭軒(ばんじんけん)田中義峰老師です。
(右)禅堂 (中)旧禅堂 (奥)侍者寮
史跡名勝天然記念物『永保寺庭園』
永保寺の仏殿にあたる中心建築観音堂(水月場と称する)の南面にひろがる池を主体とした庭園であって、正和3年(1314)無窓疎石が開創のあと、観音堂(古くは観音閣)の建立に伴う寺域の整備に際して築造されたものと認められる。 観音堂の西に接してそばたつ岩山(梵音巌)から岩壁づたいに瀑をかけ、その真下に地形に応じて池を設け、2島を置く。堂の正面、その中軸線上に虹形の亭橋(無際橋と名づけられる)を架け、池を二分する。これらの境域は、その北と西とを長瀬山の丘陵に囲まれ、東と南とは土岐川の曲流に接しており、それ自体景観のすぐれた自然地形をもっている。西の山腹にある座禅石の地点からは庭園一帯の風光を[[一眸]いちぼう]のうちに[[俯瞰]ふかん]することができる。 夢窓国師年譜にも「山水ノ景物ハ天図画ヲ開クノ幽致ナリ師ノ意甚ダ適ス」と記されている。これは、疎石の実甥で幼年のとき疎石をこの虎溪山の地に訪ねたことのある春屋妙葩(普明国師)の記述したものであり、疎石がこの景勝地を愛して庵居した事実を裏書きしているが、現在もその通りの境致を残している。 石組や護岸などの作庭細部の技法には見るべきものはないし、また後世の改変の跡も認められはするが、わが国中世庭園文化史のうえで最も代表的な作庭家夢窓疎石の作風をよく伝えるものであり、特に当時の建物(国宝観音堂ならびに開山堂)とあわせ残されているものは当永保寺のみである。 自然美を尊重し、これを利用して作られた室町時代禅宗寺院の庭園の代表的なものである。
国宝『永保寺観音堂』
永保寺は濃尾平野東北の丘陵地を流れる土岐川に面した臨済宗の寺である。正和2年(1313)に夢窓疎石(1275-1351)が現地を「山水の景物、天開図画の幽致なり」と賞して古𧮾庵を営み、翌年に観音閣を建てた。これが当寺の草創だが、夢窓は同門の元翁本元(1281-1332)に古𧮾寺をゆずり、元翁が開山となった。境内は東に土岐川の蛇行部を望み、西に岩山の崖を背負い、南に大地に面し、その前方に橋亭をもつ無際橋がかけられている。この周囲の自然景観と庭園を総合化した環境美は、中世の禅宗寺院で境致として重んじられたもので、永保寺はその代表例の一つである。
『夢窓年譜』に正和3年(1314)の観音閣建立がみえるが、現在の観音堂は様式上より南北朝期に下っての建立であろう。方三間の主屋に裳階をつけ、檜皮葺入母屋造の屋根をあげた中形禅宗仏殿で、庭園と調和した瀟洒な意匠になる。すなわち、本格的な禅宗様仏殿と異なって低い床を設け、軒をあっさりした板軒とし、組物は柱上だけに出組をあげて詰組とせず、禅宗様を簡略化しながら前面を吹放して外観に深い陰影をあたえている。内部は来迎壁を主屋後面中央間に設けて禅宗様仏壇をおき、岩窟内の観音坐像を安置する。主屋上部は一面に鏡天井を張り、裳階では海老虹梁をみせるが、前面吹放しではこれを略し、手挟で飾っている。これらの簡略化による意匠は日本化の表れとして重視される。
【引用文献】
『国宝大辞典(五)建造物』(講談社 一九八五年)
国宝『永保寺開山堂』
永保寺の池の西の奥まったところにあり、永保寺の開山、元翁本元(1281-1332)をまつる堂である。禅宗寺院開山堂の典型で、礼堂にあたる外陣の昭堂と、開山の墓塔および頂相を安置する内陣の祀堂を、両下造化粧屋根裏の相の間で複合した形式になり、外観上の高低差の処理、昭堂と相の間を一連にした内部の構成がみごとである。様式からみると祀堂のほうがやや古いと思われ、江戸時代の『住持歴代』に開山塔を貞和3年(1347)の建立とするのは祀堂に相当すると考えられ、昭堂は南北朝時代の作であろう。
祀堂部分は高い壇上に建つ方一間裳階付の形式で、組物を三斗、裳階を板軒にして簡素な禅宗様式を示し、内部の後方に墓塔の宝篋印塔一基、中央に元翁本元と夢窓疎石(1275-1351)の頂相を安置し、主屋上部を鏡天井とする。
方三間入母屋造の昭堂は本格的な禅宗様意匠を示し、詰組三手先組物を組み、軒を二軒の扇垂木とし、扉や窓には花狭間を用いる。昭堂の内部は相の間境に虹梁状の頭貫を用いて柱を省き、また、梁行一杯に虹梁をかけわたして内部に柱を立てず、相の間と一体の内部を構成する。昭堂上部は虹梁大瓶束架構で中央方一間部分の詰組二手先組物と鏡天井をうけ、また側回り組物から尾垂木尻が持送られる。両下造化粧屋根裏の相の間は両脇に腰掛を設け、正面の中央扉口と脇壇の構成も端正である。当堂は変化ある複合建築として内外構成の妙を発揮した禅宗様の優作である。
【引用文献】
『国宝大辞典(五)建造物』(講談社 一九八五年)
岐阜県指定文化財
聖観世音菩薩坐像
木造(桧材)寄木造 玉眼 像高61㎝
観音堂の内陣、自然木を大きな岩窟のように組み合わせ、そのなかに結跡扶坐されている聖観世音菩薩像です。 自然木に囲まれた様は自然主義的な禅宗の精神に通じるものがあります。 観音像は寄木造、盛上彩色で衲衣の肩の下は麻の葉の模様、横背後には縦又は横の連続文様が精巧に描かれています。 全体としての表現は絵画的な性質を帯び、温和で迫力に乏しいが、室町時代初期の代表的な作ということがいえます。
釋迦涅槃図
絹本着色 縦187㎝ 横150㎝
紀元前三人六年、インドクシナカラ城の8本の沙羅双樹の下で死を悟った釈迦が、菩薩から禽獣に至るまで52類をあつめ、 人間的苦悩をなくし、永遠の生命に生きるという説法を行って80年の生涯を終えたという、 厳粛な場面を描いたのが涅槃図です。 上方には、我が子の死を知って悲しみのあまり降下してくる母摩耶と勝音天が描かれている。 禅宗寺院においては必ずというくらい涅槃図を所蔵しており、毎年釈迦入滅の2月15日には、涅槃図を本堂にかけて大聖を追慕します。 我が国にある最古のすぐれた涅槃図は、高野山金剛峯寺にある。 平安時代のものであるが、その風格の高い美しさは、 我が国仏画中第一といわれている。 永保寺のものは作も古くすぐれており県内第一級である。貞治3年(1364)甲辰の裏銘がある。
夢窓国師書 春帰家
紙本 縦25.5cm 横45.3cm
表装は改装され、その巻止めに「夢窓国師書 春帰家永保寺所蔵」とある。 箱は江戸時代のもので蓋表に「夢窓国師三字物」、裏に「盤礴庵什物夢窓国師真蹟中之郷小嶋茂八寄附」とあり、 下記のような大徳寺玉舟和尚鑑定の書状が添えられている。
夢窓国師之墨蹟春帰家之三字物
玉舟披見披申、可為正筆之旨候
左様ニ御心得可被成候
恐惶謹言
極月三日 宗嘉(花押)
春の前は冬である。落ち葉が落ちるかのように全ての煩悩をすっかりと落としたところで暖かな春を迎える。
己自身の仏性に気づかずにいる人が、仏性を求め、自覚し、悟りに至る段階を「うしかひ草」や「十牛図」で示されている。全ての煩悩をすっかりと落とした境涯を「円相」で現わし、最後にはよく飼い慣らした牛(仏性)とともに家(本分の家郷)に帰るわけであるが、この春帰家は十牛図の「家に帰る」を端的に表した書であり、家に帰ってみればまさに「花は紅、柳は緑」である。
夢窓国師筆 仏鑑
紙本 縦28cm 横47.5cm
夢窓国師遺墨の伝承されるものは多いが、 その中で、これと土岐市妻木町崇禅寺のものは本県でも定評がある。
「仏鑑」の二字は肉太で雄勁、素朴な書風であり、沈着な強い気性が現れているのが特長です。 国師の若い時の筆ではないかといわれています。
「仏鑑」の意味は、おそらく弟子に与えた印可(悟道の熟達を証明すること)だとする説もあるが、 禅林では修行を行なうにあたり、基本的な日常の行動を示すものに亀鑑という定めがある。 また昭鑑は「明らかに見る」という意味で回向に用いられ、玄鑑とは「仏が本質を見通すこと」とされる。 そして仏とは真理を悟った人で煩悩を解き放った存在である。
佛鑑とは「仏の鑑」つまり弟子に与えた印可というものではなく、「己の仏性を明らかに見よ」という叱咤激励の書であり、その太くしっかりした筆致からも禅修行の目標を示すものと解される。
仏徳禅師筆 吹毛不曾動
紙本 縦76.7cm 横19cm
表装は改装されており、巻止めに夢窓国師真筆と墨書し、これを抹消して「仏徳禅師真筆」と改善してある。 印章によって仏徳禅師の真筆であることは疑う余地がないが、巻止めにも箱蓋裏にも夢窓国師と見誤られている。 この文字が宋様を脱して和様化し夢窓国師の書風に似ているのによるものである。 仏徳禅師は「文質彬々として野ならず、史ならず」といわれているが、その人格がこの「吹毛不曾動」の草書の五字一行によく現れている。
「吹毛曾ッテ動ゼズ」とは「めったに宝刀はふりまわきぬぞ」の意という説もあるが、 禅語の全文は「出沒太虚中吹毛曾不動」の十字である。
吹毛とは吹きかけた毛をも断ち切るほどよく切れる剣のことであり、禅では髪や髭は虚飾や煩悩の象徴である。
「出沒太虚中」は虚空や万物の根源の中に出没し、まさに己の外に向かって捜し物をするかのように無駄な努力を示し、 虚飾や煩悩を断ち切れるほどの剣、つまり「己自身の仏性ははじめから誰しもが供えており、どこかに忘れたり、動いて行ってしまうものでは無い。」と示しているのである。
「白隠禅師坐禅和讃」は次のような文で始まるが、この仏徳禅師の五字一行に通じるものがある。
衆生本来仏なり
水と氷のごとくにて
水を離れて氷無く
衆生の外に仏無し
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中にいて
渇を叫ぶが如くなり
仏徳禅師筆 遺偈
紙本 縦22.7cm 横32cm
明治以後改装し、巻止めに「開山大和尚辞世偽」と墨書されている。 箱は江戸時代のもので、蓋裏に 「開山大和尚辞世偈 永保寺」、裏に「開山和尚遺偈之箱雲外沖寄附」とある。
仏徳禅師は正慶元年(1332)7月4日趺坐して寂した。
遺偈はその人の悟りの境地を示すもので、余人の解釈の及ぶものではないが、あえて解すれば 「月は 西に沈み、水は東に流れる。諸行無事の姿である。 しかし、本体は去れども去らず、留めても留まらぬ ものである。 自分の51年の一生はちょうど眼の不自由な馬がうろうろしていたようなもので、普化禅師の如き禅も学も力もない。 今日、直綴(僧服)一着の姿でチリチリと鈴の音とともに去っていくが、(これ以上湧き出る煩悩も尽き)あお空のみは悠々としてかわることがない 」の意である。
去れども去らず
留れども留らず
月は西に沈み
水は東に流れる
瞎驢不会普化
直綴一鐸 声
尽きて碧天悠々喝
正慶元年七月四日
珎重山中衆本元
(花押〉
多治見市指定文化財
十六善神図
般若経を受持し読誦する者を守護するとされる16体の護法夜叉善神で、釈迦十六善神、 般若守護十六善神とも言います。 陀羅尼集経、般若守護十六善神王形体などの経軌に説かれるが尊名は一定していないようです。 釈迦如来の周囲に十六善神を描いた図像は、大般若経を転読する法会の本尊とされるほか、 大般若経の経本・経箱に十六善神像が玄奘三蔵などとともに描かれている場合もあります。
千体地蔵
観音堂西の梵音巌上に建てられた霊雍殿(六角堂)に納められ、総高140cmの木造地蔵菩薩像を中心に 像高7cm内外の小さな地蔵が背後に約800体納められています。
願い事があると小さい地蔵を一体借り出し、願いがかなうと同じものを作って二体を返すことにより現在の数となりました。
陶製燈籠
高さ2.8m 2基一組の陶製灯籠で、明治39年尾州赤津(瀬戸)の名工作助により作られ、 多治見町加藤助三郎によって献納されました。
志野釉、織部釉が施されています。 陶製灯籠は数少なく、中でもこれほどの大きさは稀です。
鐘楼
岐阜県指定文化財
虎渓山1号古墳
「虎渓山永保寺」と聞くと、夢窓国師作庭の「名勝 永保寺庭園」と「坐禅」をイメージする方が多いと思います。そこで坐禅会の流れと禅堂と関係の深い「虎渓山のパワースポット」について紹介します。
今後の坐禅会の予定は
■ 坐禅会の予定 03月06日(月)09時25分 掲載 定刻10分前に受付を済ませて下さい。 会費1,000円/入 6月18日 午前6時~8時 7月23日 午前6時~8時 8月20日 午前6時~8時
坐禅会の詳しいお問い合わせ先
虎渓山 永保寺 TEL 0572-22-0351
禅堂について
本堂
虎渓山永保寺のパワースポットを見つけてください!
■ 虎渓山のパワースポット
私たちが生きていくためには、それこそ四苦八苦の連続です。欲しい物が手に入らない、あるいは思い通りに物事が運ばないなどという苦は皆さん経験があるでしょう。 こういう苦は、貪りや怒りという煩悩が原因になっています。 生きているものは動物でも植物でも同じですが、本能的に生き延びようとします。多治見のように暑いところでは、生きるために自然と涼しいところを求める。 涼しさが欲しいという煩悩が出ると、その反対側では思い通りに涼しさが手に入らない苦が出てしまいます。 人間が生きていくためには水が必要です。川が流れ、大きな池があって滝が流れ落ちているような場所では、いつでも側に水があるという安心感があります。このような場所では喉の渇きや暑さ、そして生きのびようという本能が強く出てこなくなる。ですから生老病死などの四苦を和らげるパワースポットになります。 私たちは商売繁盛や病気平癒などの祈願をよく行ってしまいます。これを仏教では現世利益(げんぜりやく)と呼び、現世における欲望が達成されることを期待する行為です。仏教では様々な欲望を始めとする煩悩を無くすことが必要とされますが、所願成就の祈祷が行われ、特定の病気や苦に対して効果が有るかの如く効能が示される仏像などが存在するのはなぜでしょう。 ここでは様々な欲望に惑わされず、心の安らぎを求める人々にとってのパワースポットを、六波羅蜜に喩えてご紹介しています。
●びんづる様は忍辱のパワースポット
虎渓山の境内には「びんづる」様が祀られています。古来より身体の悪いところと同じ箇所をなでると治ると信じられており、「なで仏」として信仰されています。しかし石造りのびんづる様に、苦痛の「痛」を和らげる力などありません。そして「痛」を和らげるのはお医者様であり、薬の役目なのです。びんづる様は苦を和らげることを専門とされていますが、そのメカニズムはどうなっているのでしょう。 病気を治す為には、お医者様や薬にだけ頼るのではなく、自身が生まれた時から持っている生き延びようとする力も必要です。そして病気と対峙し、時に共生を受け容れる心を持つこと(忍辱)が必要です。忍辱(にんにく)とは悟りに至るための修行徳目である六波羅蜜の一つで、堪え忍ぶことです。身に降りかかるあらゆる災難に耐え忍び、怒りや欲の心を起こさないように堪え忍ぶというものです。 屋根もない屋外で、風雨に耐えながら多くの人々と苦を分かち合っているびんづる様は、私たちに忍辱を示されています。びんづる様にお参りする時は、欲のお願いをするのではなく、忍辱精進を誓う場所であるということを思い出して下さい。そうすれば欲の無い方にとっては強力なパワースポットになります。
●龍浮淵は持戒のパワースポット
龍浮淵(りょうふえん)という場所があることをご存じでしょうか。その昔、町の衆が結婚式などで多くのお膳などが必要になった時、「何日にお膳を幾つ貸して下さい」と紙に書き龍浮淵に流すと、当日には龍神様が河岸に揃えてくれるという伝説があります。龍浮淵が良夫縁とか良婦縁につながるということから、「良い伴侶に巡り会いますように」と紙に書き、流している人々もあるようです。龍神様に借りたお膳は、綺麗に洗って全て返却するのがルールです。あるとき、お椀を一つ返さなかったばかりに、その村の衆が次にお膳を借りようと紙に書いて流しても、貸してもらえなかったとのことです。幾ら「良い伴侶」を求めて紙を流しても、良き伴侶を得る為には、自分が家庭内での戒めを保持し続ける(持戒)心がけが必要です。これができる人にとっては、龍浮淵は良夫(婦)縁としてのパワースポットとなります。
●六角堂の千体地蔵は精進のパワースポット
梵音岩の上に建てられた六角堂内には多くのお地蔵様が祀られています。これらのお地蔵様は、様々な願を掛けるために一体を借り受け、願が成就した時に同じ地蔵を自分で彫り、二体にして返却されたことにより千体近くにもなりました。全てのお地蔵様が満願成就に関わられた方ばかりですが、全ての人々に効果があるというものではありません。願いを叶える為には、自らが願いを叶える努力をすること(精進)が大切です。あらゆる苦難に立ち向かって生きようとする努力、精魂込めてひたすら進もうとする心構えをを持った人にだけ、六角堂の千体地蔵は強力なスピリチュアル・パワースポットとなります。
●瑞霊岩は禅定のパワースポット
古来より天狗岩と呼ばれている瑞霊岩は、天に向かって積み上げたような奇岩です。何千年もの風雪に耐え、不動に佇んでいます。麓には小さな社があり、そこには戦争から生還した人々の感謝を表す木札が祀られています。 私たちが生きていく為には、四苦八苦の連続です。生老病死の苦は誰しもが避けて通ることなどできません。しかし誰しもが健康に歳を重ね、平穏な家庭がいつまでも続くことを願います。雪の如く移りゆく諸縁を留め、風の如く去来する諸縁を追いやる心は煩悩によって生じ、やがて自らの浄寂な心の礎をも崩落させてしまいます。煩悩の束縛から解き放たれる為には、瑞霊岩同様、万事に揺るぎない自己を形成すること(禅定)が必要です。 地震風雪という煩悩に惑わされず、迷いのない清浄な心を持ち、私たちが万物によって生かされているという感謝の心を持った人々にとって、瑞霊巌はパワースポットになります。
●馬頭観音は布施のパワースポット
庭園から虎渓公園に向かって三笑橋を渡り、すぐ右手の山中に馬頭観音様が祀られています。 煩悩を馬のように食い尽くす、あるいは車馬の守り神のような存在として信仰されてきました。現代では馬車の代わりに自動車になりますが、交通安全の基本は布施行です。優しいまなざし(慈眼施・和顔施)ゆずりあいの心(心施・身施)という無財の七施を持ち合わせる心がけが必要です。馬頭観音は憤怒の形相をされ、私たちの貪り怒りという心を戒めておられます。禅語に「平常心是道」というのがありますが、馬頭観音は自身の心を見つめ直すためのパワースポットなのです。
●禅堂は智慧のパワースポット
禅宗は坐禅によって釈迦と同じ悟りに至ることを宗旨としています。禅堂内に祀られる文殊菩薩は、「三人寄れば文殊の知恵」ということわざにもあるように、悟りに至るための智慧(諸行無常の道理を洞察する力)に優れているとされます。学業のみならず、あらゆることを成就させる為には、自らが理を学ぶこと(智慧)が必要です。
交通アクセス
お車でお越しの場合 中央自動車道多治見インターより約2Km (5~7分)の距離です
電車をご利用の場合 名古屋より中央線多治見駅下車 徒歩にて30分程度ですが上り坂があります。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同)
虎渓山 永保寺 〒507-0014 岐阜県多治見市 虎渓山町1丁目40 TEL 0572-22-0351
(一社)多治見市観光協会 〒507-0033 岐阜県多治見市本町5-9-1 たじみ創造館1F
(多治見市PRセンター内) TEL 0572-23-5444
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話(代表)03(5253)4111
虎渓山の歴史年表
西暦 和暦 備 考
-463 4月8日 釈迦生誕
530 禅宗初祖 北魏末に中国に来たインド僧達磨 没
538 百済の聖明王が使者を通して仏像や経典を日本に送る
700 臨済・曹洞・溈仰・雲門・法眼の5家に分れ,さらに臨済より黄竜・楊岐の2派が出るのを合わせて五家七宗とよぶ
866 臨済義玄 没
1227 道元が曹洞宗を伝える この頃五家七宗は臨済宗楊岐派と曹洞宗の2派のみとなる
1267 文永4年 中国で虚堂智愚の法を継いだ南浦紹明大応国師によって現在の臨済宗が伝えられる
1271 文永8年 土岐頼貞 土岐光定の七男として生まれる。母は執権北条貞時の娘。
1274 文永11年10月5日 蒙古軍が対馬の西海岸に達する(対馬の戦い、文永の役の始り)
1275 建治1年 夢窓疎石 伊勢国(三重県)出身。幼少時に出家し、母方の一族の争いで甲斐国(山梨県)に移住する。
1281 弘安4年 元翁本元 三河設楽郡大草(新城市)で生まれる
1281 弘安4年5月21日 東路軍の一部、元船500余隻が対馬に侵攻する(弘安の役の始まり)。
1294 永仁3年 夢窓疎石 鎌倉の東勝寺で無及和尚に就かれる?
1295 永仁4年 元翁本元 鎌倉の東勝寺で無及和尚に就かれる?
1299 正安1年10月8日 元の使僧の一山一寧が鎌倉に来て国書を進呈する。
1299 正安1年 夢窓疎石 建長寺一山一寧の元で首座を勤める
1300 正安2年 松島(瑞巌寺)と那須・雲巌寺に逗留 坐禅窟あり
1303 嘉元1年 夢窓疎石 鎌倉万寿寺の高峰顕日に禅宗を学ぶ
1305 嘉元3年 夢窓疎石 浄智寺で印可を受ける 常陸国臼庭にて大悟 海岸の坐禅窟あり
1311 応長1年 夢窓疎石 甲斐国牧丘の龍山庵(浄居寺)に一時隠棲 坐禅石あり
1312 正和1年 夢窓・元翁 三河の大徳寺に逗留
1313 正和2年6月18日 夢窓・元翁 虎渓に住む
1314 正和3年2月 永保寺無際橋創建
1314 正和3年5月 永保寺観音堂建立
1317 文保1年 夢窓虎渓を去る
1325 正中2年 元翁夢窓に伴い京都へ
1328 嘉暦3年9月 元翁鎌倉万寿寺に住持
1329 元徳1年10月11日 元翁南禅寺十一世住持
1330 元徳2年10月25日 元翁本元臨川寺開山となる
1331 元徳3年3月1日 元翁本元南禅寺を去る
1332 正慶1年7月4日 佛徳禅師 没 55歳
1339 暦応2年 土岐頼貞 没 68歳
1339 暦応2年3月27日 光明天皇綸旨
1341 暦応4年8月 果山正位 保寿院創建 本尊如意輪観音
1342 康永1年7月4日 玉霄正賝 続芳院創建 本尊観世音菩薩
1351 観応2年8月 天霖正濡 徳林院創建 本尊観世音菩薩
1351 観応2年9月30日 夢窓疎石 76歳
1352 文和1年 足利尊氏 開山堂(僊壺堂)建立
1358 延文3年5月 月堂宗圓 奥蔵寺創建 本尊観世音菩薩
1370 應安3年8月19日 保寿院果山正位 没 佛徳禅師法嗣 崇禅寺寂
1455 康正1年 康正年間の火災
1478 文明10年 永保寺無際橋再建
1553 天文22年1月 元禄8年化縁簿に「天文22年春王上浣羅回禄之変」方丈斎堂平重門尽作灰燼とある
1554 天文23年8月21日 康寧軒聴松庵開基 春輝の法嗣 永保寺世代断絶これより輪番となる
1585 天正13年11月29日 飛騨地震(天正地震)
1615 元和1年 寺院法度 府が本格的に寺院統制を打ち出した法令で,本末制度・檀家制度による寺院の権力増大を抑制する内容を強調している
1673 寛文13年 南禅寺との本末関係復活
1684 貞享1年 貞享年間の火災
1695 元禄8年 天文22年火災以来140年間は本堂庫裡が無い
1719 享保4年 無際橋架け替え方丈修理
1728 享保13年2月9日 享保事件
1758 宝暦8年9月 永保寺鐘楼再建
1788 天明8年2月13日 全亀乱入事件
1789 寛政1年4月17日 南禅僧堂師家 萬岳明拙和尚没 本山より永保暇住として派遣
1830 天保1年 春応禅悦により僧堂開単 虎渓僧堂師家就任
1841 天保12年 春応禅悦 春に虎渓を去る
1841 天保12年 敬雲宗慈 虎渓僧堂師家就任
1844 弘化1年6月 永保寺六角堂再建
1848 嘉永1年1 方丈再建化縁帳
1851 嘉永4年4月 火災により続芳・万松・徳林・類焼
1854 安政1年11月4日 安政地震
1854 嘉永7年11月 続芳院本堂再建
1855 安政2年 雪航孜純 虎渓僧堂師家就任
1857 安政4年4月 永保寺無際橋再建
1863 文久3年2月 永保寺禅堂侍者寮建立虎渓僧堂再建普請完成
1868 明治1年 明治政府によってとられた神仏分離政策に伴い寺院を破却し僧侶を還俗させ仏教を廃止する廃仏毀釈が起きる
1869 明治2年 徳林院本堂庫裏再建開始
1869 明治2年 蓬洲禅苗 虎渓僧堂師家就任
1869 明治2年3月 徳林院本堂再建
1871 明治4年1月5日 社寺領上地令により寺領が国有となる
1875 明治8年2月27日 永保独住一世蕙芳惠薫任命
1877 明治10年1 永保寺無際橋再建
1881 明治14年6月 柏樹軒虎渓僧堂師家就任 僧堂再開単 開山仏徳禅師550年遠諱
1886 明治19年 高源室虎渓僧堂師家就任
1891 明治24年10月28日 濃尾震災 本堂庫裡被災
1893 明治26年9月 永保寺庫裏玄関再建
1894 明治27年12月 永保寺本堂再建
1896 明治29年 蔵暉室虎渓僧堂師家就任
1901 明治34年3月20日 永保独住一世蕙芳惠薫 没 (15世以後輪番)
1905 明治38年 五峰庵虎渓僧堂師家就任
1915 大正4年 保寿院本堂再建 開山堂新築
1921 大正10年1 擔雪軒虎渓僧堂師家就任
1927 昭和2年 本堂改造・玄関・庫裡・鐘楼・禅堂新築
1933 昭和8年 栽松軒虎渓僧堂師家就任
1941 昭和16年 雲龍窟虎渓僧堂師家就任
1944 昭和19年12月7日 東南海地震
1950 昭和25年 臥雲軒虎渓僧堂師家就任
1954 昭和29年 吸江室虎渓僧堂師家就任
1978 昭和53年 香南軒虎渓僧堂師家就任
1981 昭和56年 永保寺諸堂改築庭園整備
1987 昭和62年 無際橋修復
1990 平成2年 碧天閣建立
2002 平成14年1 万仭軒虎渓僧堂師家就任
2003 平成15年9月10日 午後9時20分永保寺庫裡出火大玄関本堂全焼
2007 平成19年8月31日 永保寺庫裡竣工