西ローマ滅亡の道6-アラリックのローマ蹂躙
2017.06.09 11:56
しかしさすが名将スティリコ、このラダカイススの侵攻も、405年現在のフィレンツェ付近の戦闘で打ち負かした。スティリコは東のアラリックと同盟して、なんとかローマを安定させようとしたが、これは東西の亀裂が深まる中で無理な話だった。
スティリコは、自身の娘を西帝と結婚させて、地位を安定させようとしたが、かえって反発も生んだ。408年、東ローマ皇帝が崩御したとき、書記官長オピュンピアが、「スティリコが東帝を狙っている」と讒言し、なんと彼は西皇帝に逮捕され、処刑されてしまった。
スティリコの幕僚も処刑されたため、残ったゲルマン人兵士はアラリックのもとへ行き、アラリックは帝国を見限った。410年、アラリック軍はローマへ侵入、3日間に渡ってローマを略奪した。しかしアラリックは病で亡くなり、息子とホノリウスが交渉して、王に奉じられた。そしてガリア・イスパニアに西ゴート王国が出来てしまった。
ローマに居た文化人達もアフリカに逃れた。その中にペラギウスという学者が居た。彼ら一派はカルタゴに逃れ、そこで教えを広めた。アウグスティヌスは、ドナトゥス派に加え、ペラギウス派とも論戦することになった。
下はアラリックのローマ略奪