西ローマ滅亡の道7-罪びととは誰か
2017.06.10 11:23
西ゴート王国ができると、西ローマはイタリアと北アフリカ西半分だけになった。ローマ帝国が拡大するにつれ、異民族が入ってきたわけだが、その上にローマ人が立つという構造が無理となっていたわけだ。現在のアメリカも移民がのしあがってくると、白人達が移民排斥を強めているがいつまでもつやら。
しかしアフリカでも反ローマの勢いは増していた。ドナトゥス派は、反ローマの下層民と一緒になり、教会を襲撃し、社会不安を巻き起こしていた。アウグスティヌスは、論争による解決を主張して、あちこちに手紙を書いていたが、社会問題化していた。ついに彼も政治を入れて決着することにした。
411年、カルタゴで第15回教会会議が開催された。この会議では正統派286年、ドナトゥス派279名が参加、うち6人ずつが討論し合い、アウグスティヌスもその一人だった。迫害時代に棄教させられた者が戻ろうとしていたが、ドナトゥス派は「一度棄教し、罪を犯した者はキリスト者ではない」の一点張り。
アウグスティヌスは、人間は教会に居ても罪の誘惑に晒されていて、悔い改めは教会の中でこそ必要だ、と説いた。結局議長であった皇帝代行のマルケルリウスは、ドナトゥス派を異端と宣告し、禁止され、その後ドナトゥス派は急速に衰えていった。
下は映画「アウグスティヌス」よりドナティウス派との論戦