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ねこだれる

緑の光

2017.06.10 13:40

 街中で、チラシ配りをしている男を見かけた。

 若い、20代ぐらいの男だ。細身のスーツに紺のネクタイを締めて、熱心に道行く人に声をかけながら、チラシを配っている。

 ひどく暑い日で、若干陽炎が揺らめいていたので、最初に感じた違和感は、そのせいかと思ったのだ。

 しかし改めてまじまじと見ていると、間違いない。彼は少し、緑色に光っていた。

 少し黄色の入った、黄緑色と緑色の間のような揺らめいた光が、彼からは見えた。

 暑さでぼうっとした頭で、ああその光は彼の体の中から出ているんだな、と思った。

 異質なものを感じたけれど、かかわりあうのも怖かったので、私は少し彼から遠巻きに歩いた。彼のいる方角から、「平和を……」と聞こえた。わりと明るく元気な声だった。

 それからしばらくして、すっかり蝉の声も聞こえなくなった頃。出張で違う県に行った時のこと。

 橋の近くで、またチラシ配りをしている人を見かけた。しかもまた緑色に光っている。今度はぽっちゃりとした人のよさそうな、目じりの下がった年配の女性だった。

 私はぎょっとして彼女を遠くから眺めた。前回のことは暑かったせいもあって幻か夢かと思いこんでいたのだが、今はめっきり涼しいし、しかも別人で二回目とあっては話が違う。

 よくよく見ると、彼女が手渡ししているチラシを受け取る際、相手はチラシを通して、小さく緑色の光を受け取っているのだ。

 チラシを捨ててしまっても、その緑色の光は、相手の右手に小さく残って光っていた。

 やはり、あの緑色の光は自分以外には誰にも見えないのだろうか。

 その女性はちらりとこちらを見たので、私は急いで逆方向へ急ぎ足を向けた。その時のことも私はつとめて、忘れるようにした。

 緑色は平和の色です。みなさん、平和を心に持ち、空に願い続けましょう。私たちが単にそう、平和を願うこと。それは決して、無駄なことではないのです。緑の光を心に点しましょう。

 車を運転している時、不意にラジオからそんな言葉がCMの一部として流れてきたので、私は電信柱にぶつかるかと思った。想起したのは、もちろんあの緑色のチラシの人たちだ。

 確かに、いやな感じはしていたのだ。

 最近、道を歩くと体の一部が小さく緑色に光っている人をよく見かけるようになった。

 それは新型インフルエンザのように、接触で感染するようだった。特に手が光っている人をよく見かける。

 どうも電車のつり皮などは大丈夫みたいだが、人と人との接触では感染するようだという予想ができた。仲良く子供の手をひいたお母さんとその子の手が互いに緑に光っているのを見るとぞっとする。

 テレビに出ている芸人の手も光る。アナウンサーの原稿を持つ手も光る。この世で光っていないのは私だけなのではないかというぐらいに、緑色の光は次第に広がりつつあった。

 そして、それは光るだけではなく、私たちの社会や意識に確実に影響を広げつつあった。

 それこそ、CMが繰り返すとおり。平和を愛する心というものだ。

 戦争の停戦が増えた。

 武器の製造が減った。

 ボランティアの志願者が増えた。

 犯罪が減った。

 痴漢が減った。

 などなど、それはじわじわと、私たちの世界を変えていった。

 何しろ手が光っている皆は、その変化にすら気付いていない様子だった。なにしろ自分の一部が光っていることすら気付いていないのだ。世界情勢が良くなったのだなあ、とぐらいは思っていたかも知れないが、それも怖くて聞けなかった。

 なにしろ私は例の『緑色の光』を見ているので、ひどい薄気味悪さを感じていたのだ。しかも最初に聞いた若い男の『平和を……』という声がひどく頭に残って、離れることはなかった。

 世界中の戦争が終わり、銃や戦車や戦闘機が捨てられ、警察官や刑務官があぶれるようになったころには、すっかりと世界は緑色の光に溢れるようになった。私は内心ひどい汗をかきながら、それでもいつも通りの生活をし続けた。

 ある日の夕方、会社から直帰する仕事を終えて繁華街に出ると、また緑色に光る男がいた。光は少し大きめだったので目を惹いた。

 しかも驚いたことに男はまっすぐこちらを見て、そして歩きよってきたではないか。私は反射的に逃げようとしたが、彼は「あ、あ、何もしないから、逃げないでください」と気弱そうに言った。それでも信じられるものではなかったが、進行方向に準じた人の波に勝てず、気付くと追いつかれて私は彼の傍にいた。触ろうとしたら避けようと思ったのだが、彼はそんなそぶりは見せなかった。

「ちょっとお話していいですか」

 遠慮がちなその言葉にも従うのは心底イヤだったが、だって、あなたも知りたいことがあるでしょう、と言われて好奇心がうずいた。

「あの、あなたにはこの緑色の光が見えているでしょう。これであなたの世界は平和になりました」

「……そうですね」

「私たちを、恨んでいますか?」

「どうしてそんなことを? むしろ感謝しているくらいですよ。あなたたちは人類史上、全くなしえなかった『世界の平和』というものを、私たちに教えてくれたんです。誰も誰かを傷つける気すら起きない。夜道を歩いていても心配することはなにもない。こんな素晴らしいことはありますか」

 彼はそこで、大きく息をついた。

「よかった。あなたが怒っていたら、とてもとても怖いと思っていたんです」

「お気になさらないでください」

 私はことさら丁寧に、静かに、相手を落ち着かせる声色で言った。相手も安心した顔色をした。

「これで私たちが住む土台ができました。私たちは、平和じゃないと生きられないのです」

「だいたいの人はそうじゃないんですか。暮らすのに、わざわざ戦争の只中に飛び込む奴もいないでしょう」

「私たちの言う平和はただ戦争じゃない状態というわけじゃないんです。敵意、比較、差別、軽蔑。あなた方は多少はあってもかまわないでしょうが、私たちはそんな世界は耐えられないのです。もっとのんびり、苦しみもなく人を愛しながらゆったりと暮したいのです」

「なるほど。……で、私に何の御用なのですか。わざわざ声をかけてきて」

「実はあなたのような人は貴重です。私たちに協力していただきたい。違う星に行ったり、そこで私たちを配る仕事の手伝いをしたりして欲しいのです」

 私たちを配る、という言葉からすると、あの光は彼らの本体なのだろう。多分、宇宙人的なたぐいの。

「何故私に」

「あなたは私たちの光が認識できて、影響されない。まれにそういう人がいるのですが、光の影響を受けると心が強さや開拓心、闘争心などを失ってしまうので、他の星に行こうとか、そういうことが難しくなってしまうのです」

「その光は弱めたり、一時的に消したりできないんですか」

「そんなこと。とても簡単にはできません。あなたたちは平気でも、私たちにとって光は全てです。消えれば死にます」

「わかりました。いいですよ。私もこの星に居心地の悪さを感じていたところですし」

 言うと、彼の顔は明らかに明るくなった。わりと素直な性格なのだろう。

「引き受けてくださるのですか! お礼はもちろんできる限りします! いやあよかった。こうして話していても、実は怖くて怖くて、汗でびっしょりなんです。いま仲間の宇宙船を呼びますね」

 言うと、彼は持っていたアタッシュケースから、手のひらにのる大きさほどの、小さい機械を出し、なにやらボタンみたいなものを押していた。

 そして数秒後に空に丸い大き目の、緑色の光があった。あれが宇宙船のようだ。

 丸いコインのようなものを口にあてて何か話しているので、わたしは折を見て言った。

「あ、それマイクですか」

「はい。ええ……、そうです。仲間と話せます。ええ。いま代わりますね」

 私はマイクを受け取った。心の中で、ゆっくりと蓄えた悪意を静かに開放する。

「お前たち。よくも地球を乗っ取ってくれたな……」

 びくりと、向こうで緊張する気配がした。手ごたえを感じて私は続ける。

「お前たちに協力など絶対にするものか。一人残らず叩き潰してやるからな。俺は緑色の光が見える。強く光っているお前たちを見つけ次第、後ろからぶんなぐってやる。お前たちは抵抗なんてできないんだろう? お前たちは暴力なんて大嫌いだからな。だが俺は違う。ゆっくりと、一人残らず復讐をしてやる。誰も俺を捕まえないさ。もう地球には、警察官も、警察署もないんだからな」

 強い恨み言を言って、俺はそのまま立ち去るつもりでいた。そして横でひどい汗をかいている男の襟首をつかみ、『今は殺さない。いつかお前が思いもよらないその時を待っているがいい』と言った。

 すると男はびく、びくんと大きな痙攣を二回ほどした。それにつれて、体の中の緑色の光が強く二回点滅した。

 私は驚き、やりすぎたか! と思った。

 男は呆けたような顔をして、口を半開きに開け、目はうつろで何も見ていない。反射のように、ゆっくりとヒザを折った。

 そして、緑色の光は、消えた。

 あわてて男の口に手をかざすと、湿った息が当たった。呼吸している。身体も温かい。生きているようだ。だが体からの緑色の光は見えなくなっていた。

「死んだ……、のか?」

 何か感じて空を見上げると、宇宙船は、音は無かったが、警戒ランプのような激しい点滅で光っていた。

 そこへヒュンとひとつ、空へ向かう流れ星のように小さい緑の光が向かうのが見えたと思うと、逆に地上から空へ降り注ぐ雨のように、周りの人の体から、小さな緑色の光が宇宙船に向かうのが見えた。

 ちょうど時間は夕暮れで、ぼやけていく景色に光は無数の鳥のように、まっすぐ速い速度で進んでいく。

 そんな幻想的な景色の中、人々はそんなことなど気付くよしもなく、ただ普通の、いつもの顔と足取りで、どこかへ向かっていく。

 俺は男を念のためもう一度あらため、ただ気を失っているだけだと知ると、静かに近くに横たえ、それから走った。空を見あげながら走った。

 走って走って、そして疲れると歩いた。

 もう真っ暗になるまで、外を歩き続けた。

 光は二時間もすると収まった。それでも心のざわつきが治まらず、ずいぶんと歩いた。

 酒を飲んで、卵でとじたチキンカツを食べて、できるだけ心を落ち着かせてから帰った。

 それからすぐ。世界は少しずつ、少しずつ戻っていった。

 忘れていた憎しみや、人を傷つける気持ちや言葉を、人は思い出していった。

 それでももとの世界を取り戻せた、孤独な充実感に浸りながら俺はときおり思い出す。

 俺は間違ったことをしていないと思う。緑色の光のせいで齎されたあの気持ちは偽物だったし、あいつらはこの世界を骨抜きにして乗っ取るためにきたのだ。

 だけど思い出すのだ。

 あの夕暮れに光る緑色は。世界の誰もが誰も傷つけない平和な気持ちは。あの光は。

 とてもとても美しいものだったのだと。