「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」21 15代将軍徳川慶喜①
慶喜への将軍宣下、すなわち慶喜が徳川第15代将軍になったのは慶応2年(1866年)12月5日。そして慶喜が大政奉還の上表文を提出したのが慶応3年(1867年)10月14日で、翌15日には承認の返答が下された(勅許)。だから、慶喜が将軍として活動したのはわずか1年足らず。この間に何があったのか?
慶喜は将軍宣下の時、数え年で30歳。在位8年を経てようやく21歳に達したところで死んだ14代将軍家茂とは違い、壮年で気力に満ち、かつ有能だった。フランス公使ロッシュは、この将軍なら肩入れする甲斐があると驚喜し、薩摩寄りになっていたイギリス公使パークスでさえ慶喜には一目も二目も置いた。支持してくれた孝明天皇の急死(慶喜が将軍となってわずか20日後の慶応2年12月25日。ただし、慶喜にとってマイナス面だけでなく、全面的な開国体制への移行がやりやすくなったことなどプラス面もあった)、討幕派公卿の中山忠能(ただやす)を外祖父とする睦仁(むつひと)親王(明治天皇)の践祚(「せんそ」即位 慶応3年1月9日)という不利な状況にもかかわらず、慶喜は成果を上げ続けた。慶応3年5月24日には、延期になっていた懸案の兵庫開港の勅許をかちとってしまうのである。
兵庫開港問題を種にして慶喜独走にブレーキをかけようと目論んでいた討幕派は、完全に当てが外れた。このあたりで薩摩の西郷隆盛や大久保利通が、武力討幕を急ぐしか道がないと腹を固める(もちろん長州は武力倒幕一筋)。土佐も板垣退助や中岡慎太郎が武力倒幕の方向に歩み寄った。ただし土佐は、藩政の実権を握っている隠居の山内容堂が幕府擁護派だから、藩を挙げての武力倒幕となる可能性は薄い。薩摩と長州が挙藩倒幕で軍事動員を開始すると、それができにくい土佐藩は苦しくなる。
その土佐藩の難しさに助け船を出したのが、坂本龍馬の「船中八策」。その第一が「天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ政令宜シク出ツヘキ事」という大政奉還論。第二は「上下議政局ヲ設ケ議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ万機宜シク公議ニ決スヘキ事」、ツマリ二院制の議会的なものを設置しようというのである。後藤象二郎は、これに飛びついた。すでに武力倒幕に踏み切っている薩摩はいささか迷惑であったが、これに失敗すれば土佐藩はいよいよ武力倒幕に踏み切ってくれるという期待があるので、むげに退けることはしない。後藤が帰国して容堂の支持を取り付けることに賛成した。ただし戻ってくるときには軍を率いて来るようにと注文をつけた。
後藤を迎えた容堂は、大政奉還を将軍慶喜に建白するという案には異存がなかった。しかし軍を率いて帰ることは許さない。兵を出すと討幕軍に転化するに違いないと見通し、それは絶対に容認しないのである。軍隊を連れずに帰った後藤は、西郷や大久保に責められた。しかし容堂が認めてくれた大政奉還建白は実現しなければならない。何度も足を運んで土佐藩の建白書提出に賛成してくれと頼み込む。はじめ薩摩藩はそっけないのだが、山口まで出兵の打ち合わせに行ってきた大久保が帰京すると、土佐藩の建白書提出に反対しないことに切り替えた。それを聞いて安心した後藤は10月3日、在京の筆頭老中板倉勝静のところへ建白書を届けた。
慶喜は待ち構えていた。すでに後藤のところには慶喜側近者から、早く提出するようにとの催促があったほどだった。土佐藩を敵に廻すことはできない。慶喜は宗家相続・将軍襲職以来、フランス公使ロッシュの助言を得て幕府の政治と軍事の体制を強化することに努めてきたのだが、薩長に加えて土佐まで敵に廻られると、既に芸州が薩長寄りになっていることもあって同調する外様藩が一挙に増えることが予想され、とても対抗できない。それよりも大政奉還を前提として今後の対策を練る方がよさそうだった。オランダ留学帰りの西周(あまね)を京都に呼び、議会制や立憲君主制についても研究が進んでいた。大政奉還後の政治体制をどうするかについて諸侯会議を開いた場合、その会議の主導権を取れるのは慶喜自身しかありえなかった。
坂本龍馬「船中八策」
後藤象二郎 明治期
板倉勝静(かつきよ)
クリスチャン・ミオーネ「レオン・ロッシュ」