ことの葉 ③
https://note.com/bopono4192/n/nde72df20e8d6 【タカユキオバナ資料】より
天から飛来した人の素
江尻潔
私たちにとって最も身近な自然とは何か。
タカユキオバナ(1958年栃木県生まれ)の作品に向き合うとき、まずこの問いかけから始めなくてはならない。私はこの問いに対して次のように答えたい。それは私たちの「からだ」に他ならないと。私たちのからだは何十億年もの長い年月をかけて自然発生した進化の記憶であり魚から両生類、爬虫類を経て哺乳類にいたるその歩みは母親の胎内で後づけられる。いわばその「前段階」を「食べる」ことによって出現を目指したのだ。では私たちの最初の〈きざし〉は何なのか。これは宇宙の発生とともにある。私たちのからだは宇宙のちりであり星と同じである。銀河を流れて漂着した星の子なのだ。よってからだには宇宙の記憶も刻まれている。しかし、私たちはそれらの記述をほとんど読みとることができない。その証拠に自身の魂の出自を言明できないままでいる。それは記述と私たちの距離が「0」であり、私たち自身が記述だからだ。私たち自身が「書物」でありそれは何者かによって読むことが禁じられている。だが、本当にこの「書物」を読み解くことは不可能なのだろうか。タカユキオバナの仕事はこの「からだ」の読解から始まる。
オバナは ‘97年2月Art Year 1997において足利JAZZオーネットと館林のSPACE・Uを会場とし〈ウィルス型の視覚〉を発表した。この作品は縦2m43.8㎝の鏡を任意の幅(130㎝~5㎝)に切断し、壁に設置したものである。ちょうど視線の高さにDNAの塩基配列の記号が横に貼られ鏡の幅は遺伝子の分子構造を示すものだと分かる。私たちのすがたは遺伝子上に映しだされるわけだ。そして見るものは自分自身を読み解くよう強いられる。しかし、視線の高さに前述の〈塩基配列〉があるため自分の目は映らない。思えば私たちの目は外部にのみ向けられ内部を見ることができない。鏡に映し出された私たちのすがたはちょうど目隠しされているように見える。これは自身の記述を読み解くことの困難性、「内なる眼」の得難さを示唆している。しかし、明らかにこの作品は読解を促す。ここでは自身の内面に目を向け記述する作業を行うにあたり有効な手段が模索されている。その結果導き出されたのがこの〈ウィルス型の視覚〉である。思えば私たちの身体は数多くの進化の過程が入れ子式に重なりあって出来ている。私たちの「生」を一皮めくればそこには累々たる屍の山が横たわっている。その中で私たちから最も遠く離れておりしかも実際に構成している要素、それはウィルスではないだろうか。DNAの構造はウィルスの死骸が素になっているという説があるそうだが、この内なる「遠い存在」より今ある私たちのすがたを眺めれば私たち自身の「解読」は可能となる。オバナはこのことに気付き〈ウィルス型の視覚〉を展開する。その視点とは言うまでもなく〈DNAの塩基配列—ウィルスの「座」—にある。DNAには私たち自身の記述があり、さらに私たちを転写する.文字どおり鏡と同じ機能を有するわけだ。四面の壁に配されたこれらの鏡はDNAそのものを表し、しかもそれらが合わせ鏡となって無限に私たちを転写しつづける。合わせ鏡の深奥に行けば行くほど光量は乏しくなり闇につつまれる。私たちは光に内包された闇から出現したのだ。この闇こそ私たちの源—ウィルスの場に他ならない。
ほぼ1年後の ‘98年1月同じくSPACE・Uにおいて〈ウィルスの視覚 共同作業〉を発表。展示スペースにはガラスのテーブルが置かれ、その上にきれいな包装紙に包まれたキャンディが無造作に積まれていた。観者は好みのものを一つ選んで食べ、用意してあるラベルに自分の氏名、住所を記入し包装紙に貼りつける。そして壁面の任意の場所にピンで止める。なお壁の中央には「ここはどこ」と記されていた。この作品は観者が参加することにより初めて可能なのだ。会期が長くなればその分、壁の包装紙は増え、はっきりした完成の時点がない。オバナによればキャンディは「死骸」であり包装紙は「欲」であるという。つまり私たちは生きるため他者を殺して食べなくてはならぬ存在であり、包装紙はその「死骸生産者」のより多く売りたいという「欲」の現れなのだ。中身を食べた者の名と住所を記した包装紙は日々増え続ける。それは私たちが生きるために奪った魂なのだ。私たち自身により打ち付けられたものであるはずなのにそれらは何か別の力がはたらいて壁に留まっているような印象を与える。ちょうどそれは私がなぜここにいるのか理由が分からないにもかかわらず留まりつづけている有様と似ている。この印象は壁の「ここはどこ」という「問い」により強められ、さらに観者はオバナにより「ここはどこ」という言葉をテープに吹き込むよう促される。いやがおうでも「ここはどこ」であるのか考えざるを得なくなる。帰りにオバナより「ウエ様」と表書きのある封筒を渡される。そこには光合成機能をもつ「人類」の記述があり、他者を殺して食べることから解放された者たちの意識がいかなるものなのか、またその意識が生み出す世界がどのようなものなのかという「問い」が記されている。私たちは生きるため日々他者の命を奪っているという、意識にはほとんど浮かんでこない、しかし決定的な事実—私たちの生活の諸々の制約はおおかたこの「事実」に根ざしている—を気づかせる試みである。「ウエ様」とは「飢え様」のことに他ならない。私たちは絶えず「飢え」に衝き動かされて生きている。「飢え」により生命は維持され生殖もなされる。「ここ」に留まりつづけているのも「飢え」によるのかもしれない。
やがてオバナより〈共同作業〉参加者に作品が届く。厚さ1㎝のボードの表に会場で自分が食べたキャンディの包装舐のカラーコピーが貼られ、包装紙に貼付した自筆の住所・氏名がそのまま宛名となっていた。カラーコピーが貼られた真裏はくりぬかれ小さな本が内蔵されている。本の表紙には塩基配列が記され、中身は訪れた人々が書き残した「住所・氏名」のコピーであった。それらが一つに綴じられ塩基配列の記号によって繋がれている。名前および住所はここでは異質のものに見えてくる。ふだん私たちは自分の名や住所を自明のものとして扱っているが、なぜ「わたし」がこのような「名」でこのような「場所」に住んでいるのか答えられない。私たちはこのように自分自身について記述できないままでいる。その「私たち」が一つに綴じられ「本」のかたちをとる。それは私たちそのもの—「読むことが禁じられている本」なのだ。ウィルスの視覚を提唱することによりようやく本のすがたをとって「私たち」があらわれる。しかし、その読み方はまだ明確に打ち出されていない。
‘98年3月、再び足利JAZZオーネットを会場に〈ウィルスの視覚 共同作業 SPACE・U《日常》からJAZZオーネット《闇の入り口》へ 満たされない魂 たべればそこがきえてゆく〉が開催された。オーネットの暗い天井には様々な菓子類が吊され訪れた者は各々好みのものを取り食べる。私たちはSPACE・Uの合わせ鏡の深奥の闇の入口に立たされる。今度は自分で食べたものの包装紙を透明な封筒に入れ、それに住所・氏名を書いたラベルを貼り会場に据えられた〈闇のポスト〉に投函する。〈闇のポスト〉は私たちの身体を思わせ、そこに「名」が入ってゆく。からだの内部において記述を読み取る段階に入ったわけだ。天井から吊された菓子類はやはり「死骸」であり、さらに私たちの「欲」の対象である。「死骸」であり「欲」であるそれらはあたかも星々のように暗い天井に光る。私たちは他者を食べ自身の「痛み」を消し去り、その空虚を埋めていく。満たされると痛みはなくなりその疼いていたところがどこであったのか自覚できなくなる。これが私たちの「からだ」の仕組みなのだ。同時に天井から吊されていた「他者」も消え去る。「他者」もまた「痛み」であり痛みは痛みによって除去される。「たべればそこがきえてゆく」の「そこ」とは「痛み」そのものであることが分かる。ではこの「痛み」はいったい何処に行ってしまったのだろうか。〈闇のポスト〉への投函はそのことを考えさせる手立てである。食べられたものの「死骸」にはそれを食べた者の名が記され内面の記述を読み取る旅が始まる。これは自己を「ウィルス」の視点にまでもってゆこうとする行為なのだ。その「闇」から吐き出されたものとして再び「本」が届く。「本」は漆黒の封筒に入っており〈闇のポスト〉に投函した自分の「名」がそのまま宛名となって貼付されていた。つまり〈闇のポスト〉への投函はとりもなおさず自分に宛てたものだったのだ。〈闇のポスト〉を経て再び「痛み」は帰ってきた。しかもそこには「からだ」の記述があらたに書き込んであるはずだ。封筒は自分の名によって封印され「本」の内容を見るにはまず自分自身を切り開かねばならない。開封するとはたしてそこには真っ白な奉紙を八つにたたんでつくられた「本」が入っていた。「本」の裏面に会場で食べたものの包装紙のカラー・コピーが貼付されている。観音開きとなっている表紙にはやはり自分の名により封印がほどこしてあり再び「自分自身」に刃をあてがわねばならない。開くとそこには訪れた人々の「名」が横に連ねられており、自分の名がはいるべき場所は例の塩基配列が占めていた。さらに先を見ようとするとそこには同様の自分の「名の封印があり都合三度切り裂くことになる。開くとそこには正方形の鏡があり、その上には「光」その下には「闇」と記されていた。これは闇に封じ込められた光なのだ。SPACE・Uで示された合わせ鏡による光に包まれた闇の内にあるもの、つまりウィルスの意識がここではからずも明示される。ここにおいて私たちは光と闇が入れ子式になっていることに気づかされる。また、この闇は私たち自身の「からだ」でもあるのだ。〈闇のポスト〉は「からだ」の比喩であり、からだの情報が「本」に記述される訳だ。私たちは「自身」に刃をあて開き、身体の内奥深く下ってゆく。そしてそこにあるもう一つの光源に辿り着く。この光とはいったい何なのだろうか。これこそ食べられたものたちの意識=ウィルスの意識ではないだろうか。これらは私たちの奥深く沈殿し潜在意識となる。翻って考えるならば「痛み」は「潜在意識」となって掃ってきた。そしてそれは「光」に変換されて私たちの内にある。夜ごと私たちは夢を見るが、夢を照らし出しているのはこの「光」ではないのか。夢によって私たちの魂は傷付けられ癒されるがそれはこの夢の「光」が「痛み」を源としているからに他ならない。SPACE・Uで鏡により示された「光のなかの闇」は私たちの身体奥深くにある「光」と重なる。これはウィルスが私たちの素であり、同時に私たちの中に包摂され息づいているという証左なのだ。ここにウィルスの意識に自己が映り込みこの「不可解な書物=私たち自身」の読み方が明示された。しかし、ここで一つ気になることがある。それは鏡自体はけっして自らひかり輝かないということだ。それ自体輝いたら何も映し出せなくなる。鏡はあくまで意識の「光」にたいする受容機関なのだ。では闇に包まれた光そのものは一体いかなるものなのだろうか。これについては ‘98年7月、桐生有隣館で行われた〈ウィルスの視覚 共同作業 JAZZオーネット《闇の入り口》から有隣館《闇の中》へ さがしものはなんですか〉によって示される。
副題のとおり、この企画は闇の中において行われた。いよいよ闇の中—有隣館の酒蔵の暗がりに私たちは立ち入ることとなる。闇に入る際、オバナより一つの指示が与えられる。それは自分の住所・氏名が貼付されている封筒を見付けよというものだった。私たちは持参した懐中電灯の明りをたよりに闇に入る。足元には白いガーゼでおおわれ封筒が等間隔におかれている。参加者は自分の名を探すため一つ一つ白布をめくらねばならず、まるで死者の顔と対峙している気になる。各々の封筒は「死」という文字が無数に記された紙の帯によって繋がれている。「死」という絆で結ばれた私たちの「名」。闇のなかに沈められた自分の名をわずかな光をたよりに捜し出す。しかし、名はなかなか見出せない。自明であるはずの自分が他者に感じられてくる。1月、SPACE・Uにおいて開催された〈ウィルスの視覚 共同作業〉の参加者より録音した「ここはどこ」という声が繰り返される。いつしか「ここはどこ」は「わたしはどこ」となり「ここ」も「わたし」も分からなくなる。場所からも自己からも切り離されて闇にまぎれ闇と向き合う。やがてこれに似た行為をかつておこなったのではないかという気になる。ちょうど失われた記憶が呼び戻される感覚に似たものだった。しかし、この感覚はいったいどこから来るのだろう。もしかしたら「わたし」はこの世界に出現する以前、自己の「からだ」を見出すべく彷徨っていたのかもしれない。ときたま封筒が持ち帰られたあとに出くわす。白布をめくるとあの「本」に内蔵された鏡とおなじものがあらわれ自分の携えている小さな光によって反射する。反射した光の彼方におぼろに自分の顔が浮かび上がるが、自分の顔ではないようだ。いうならばこれは他者に映り込んだ自己のすがたなのかもしれない。ではこの光はどこから来ているのか。思うにこの光は意識そのものであり自分で自分を見たいという欲求から生じている。他者に映し込むことにより自己は確認される。自己は他者との関係によってはじめて成立している。他者を「鏡」として自己のすがたを映し込み、そのとき生じるずれや差異により自己をつくりあげる。よって他者の数だけ自己は存在することになる。
筆者はついに自分の名を見出すことができなかった。はたして自分の名を捜し当てたとしたら、いかなる印象を得ただろうか。おそらく奇妙な安堵感であろう。しかし、「名」をはぎとって下にあらわれた鏡に映るすがたはいかなるものだっただろうか。おそらくそこには何も映らなかったのではないか。なぜならば私自身の「鏡」は私の意識としての「光」とあまりにも近い距離にあるためだ。それ自体輝く鏡は何も映し出せない。これは自分の眼が自分のすがたをとらえられないのと似ている。「眼は身体とともにあり距離感がない。自分の眼で自分のすがたを見ることは不可能なのだ。(鏡に映った自分のすがたは左右逆であり虚像にすぎない)。また自分の後姿も同様に見ることがでない。自分自身にとって自分が隠されているという謎。しかし、自分のすがたがはっきりと見えるときがある。それは夢のなかにおいてである。ときたま夢では自分自身のすがた他者のようにまったきすがたで見えることがある。そのときあきらかに自分自身の意識はからだの外にあり、自分の行いを傍らから見ている。ではこの「自分」を照らし出している光とはなんなのか。この光こそ「鏡」から離れた「光」=意識ではなかろうか。夢のなかでは遠い「光」があらわれ「鏡」に自分の像が結ばれる。日常を支配している自意識が弱められ、微弱な「潜在意識」が優位に立ったのだ。この、遠い「光」=「潜在意識」こそ自己の内にありながら遠く隔たったもの —〈ウィルスの視覚〉に他ならない。あるいは私たちが「星の子」であるとするなら「星の光」とも言える。私たちが夜空を見上げるのもそれら星の「意識=光」と共鳴しているためであろう。星は闇のなかで瞬き、私たちの意識も闇で輝いている。また星は自ら光り輝く「鏡」であるため自分自身を映せず、自分が何者であるのか分からない。これも私たちと共通している。ウィルスが私たちの素であるならば星々は私たちの進化したすがたなのかもしれない。ここにおいてミクロとマクロは重なり円環をなす。もし私が有隣館の会場において自分の名を見出すことができ、その下に隠された鏡に自分のすがたを映し出すことができたとしたら私が手にしていた光は夢を照らす「光」であったということになるであろう。それはウィルスの視覚であり星の光でもあるのだ。この「光」のもと初めて私たちは自分自身という「書物」にしるされた記述を読み取ることになる。そこに何が書かれているかは次稿にゆずりたい。というのはこの時点では「夢」がまだ始まっていないからだ。「夢」は次なる共同作業〈有隣館《闇の中》から寺前荘《ねむり》SPACE it《あるいは夢によってめざめる》〉において示される。
いずれにしろオバナの〈共同作業〉はともすれば日々の生活にかき消され自意識により隠されてしまう私たちの「からだ」や「潜在意識」の根源的な層へと私たちを導く。そして私たちは微視的にはウィルスの巨視的には星々の、日常においては人々の、新しい「星座」を見つけなければならないことに気づく。三つの星座が一つに重なるとき、私たちの新たな歩みが始まるだろう。タカユキオバナの仕事はその第一歩なのだ。
(‘98.9.23記)
タカユキオバナノート
輝く影の住み処
江尻潔
私たちはからだの部分の重さを感じとれるだろうか。日常生活のなかで、確かに頭が重い、足がだるいという感覚をおぼえることがあるが、それは何らかの異常がその部分にあるため自覚されるものである。健康であるならばよほど意識しないかぎりからだの部分の重さは分からない。しかし、それらは確実に重さがあるのだ。物質として形をなし機能しているにもかかわらず、重さを感じないのは私たちがそれら各部分の総体であり、部分は私たち自身であるからだ。ただこれらが何らかの異常をきたした場合、ただちに「痛み」や「重み」でもってその存在を主張する。このとき、その部分は「他者」となる。では「魂」の場合はどうであろうか。「魂」はいったいからだのどこにあるのか。はたして物質として形をなしているのだろうか。私は前稿において私たち自身が一つの「書物」であり、それは何者かによって読むことが禁じられていると述べた。私たちの「からだ」が記述そのものであり距離が「0」であるためだ。しかし、その読解は「痛み」を鍵とすることで不可能ではないことが前稿で見てきたオバナの〈ウィルスの視覚 共同作業〉前半部によって証された。オバナは入れ子式になった「からだ」の各部位に「痛み」を介して語らしめた。〈ウィルスの視覚共同作業〉の後半3回はいよいよ身体の核にあたる「魂」の層にまでおよぶ。思えば「魂」はからだの一部であって一部ではなく「もの」であって「もの」ではない。この特殊な部分をいかにして意識に昇らせるか。オバナのとった手法は「痛み」より普遍的な「重き」によって自覚を促すものであった。その試みが[ウィルスの視覚 共同作業 有隣館《闇の中》から寺前荘《ねむり》SPACE it《あるいは夢によってめざめる》]である。
この共同作業には「魂の重」という副題が付いており、会場は表記のとおりニケ所ある。寺前荘(高崎市小鳥町はオバナの友人井上太郎氏のすまいである。SPACE it(高崎市赤板町)は造形作家加藤アキラ氏宅の一部を井上氏が改造しギャラリーにしたもので、昭和初期の古い木造家屋に真白い大きな箱が挿入されたような造りである。これ自体井上氏の作品なのだ。共同作業参加者はまず、寺前荘に行くよう指示される。寺前荘の「い」と「ろ」の部屋が会場になっているが、「ろ」の部屋は借主である井上氏自身によって床張りに改装され「寺前荘・土間ギャラリー2」として彼自身の個展も開催された場所である。一方「い」の部屋は井上氏が寝起きする生活の場である。その二つの部屋にオバナの作品が展示された。この作品は一辺12㎝に切り出された重さ4.5㎏の御影石の立方体に「魂の重」という文字がスタンプで記されている。一見、墓石を思わせるこの作品が「い」と「ろ」の部屋に整然と並べられた。ギャラリー然とした「ろ」の部屋はともかくとして「い」の部屋は井上氏の布団や洗濯物などあって生活臭が生々しく漂っており、それらの間を縫うように石が等間隔に配置されていた。参加者は「い」と「ろ」どちらでも好きな方から任意の石を一つ取り、これに自分が大切に思う人やものの名を記して、およそ2㎞はなれたSPACE itに運ぶようオバナにより指示される。SPACE itでは運ばれた石が参加者により好きなように置かれる。さらにSPACE itではオバナの知人友人が会期中一日一人ずつ依頼され、石を運んで来る参加者の応対をつとめた。彼らはオバナより特別な要望は受けておらず、逆に何をやっても差支えないと言われている。以上、長くなったがこれがこの〈共同作業〉のあらましである。
この作業では二つのことが主眼となる。一つは「魂の重」の認識である。繰り返しになるが、私たちの体は健康であるかぎり「手の重さ」、「足の重さ」、「頭の重さ」など体の各部分の重さを感じないようにできている。具合が悪くなったとき、これらの「部分」は「痛み」や「重み」でうったえる。そのとき、これら「部分」は「他者」となる。極言すればこれらの「痛み」や「重み」がはっきり分かるのはその部分がからだから切り離されたときだろう。この「痛み」や「重み」を認識するのは意識の中心である「魂」だということは確かだ。では「魂」自体の「重さ」をいかに認識するか、オバナが配慮し工夫したのはこの一点だ。オバナは「魂」を「他者」として認識させることから始める。つまり自分の最も思い入れのある人やものの名を石に記すことにより石の重さと「魂」の重さを等価なものとして認識させる。つまり、ここでオバナは「魂」の一部を切り離し外部へ投影するよう促しており、これを身体でたとえるなら己の手や足を切り離しその重みを認識せよということになる。私は参加してよほど自分の名を記そうとしたが、オバナの主旨より自分の名であろうと最も大切な者の名であろうと大差ないことに気づいた。最も大切な者もまた自己の「魂」の投影にすぎず己の「魂」の一部であることにかわりない。「魂」を「他者」として取り出すにあたり「最も大切なもの」という「核」があった方が取り出し易いのだ。取り出された「魂」を運ばなくてはならないのだが、石が重いためどうしても両手で持つようになり、ましてや最も大切なものの名が記されているため大事に抱えざるを得なくなる。ちょうどこの仕草は位牌や遺影を運ぶときを想わせる。この「魂」はおよそ2㎞離れたSPACE itに運ばれるわけだが、いったいこの「場所」はいかなる「ところ」なのか。ここにオバナのもう一つのねらいがある。この共同作業のタイトルにSPACE it《あるいは夢によって目覚める》とあるとおり、この空間は夢の中なのだ。筆者は夢とは魂の移動と考えている。覚醒時には自意識がはたらき潜在意識はおもてに現れない。しかし、その潜在意識が自意識にまで昇ってくるときがある。それは夢のなかにおいてである。それはちょうど日中太陽の光によってかき消されていた星々が日没後またたきはじめるのと似ている。眠っているとき太陽である自意識が弱まり、微弱な潜在意識がまたたく。この光に照らされた光景が夢なのだ。このとき自意識を司る魂の一部はその座を他の諸々の潜在意識に譲る。しかし、その魂は完全に消え去るのではなくそれら潜在意識が送るしるしを読み取る。これは「からだ」という書物に記された記述なのだ。オバナにより私たちは己の「魂」を自身の手によりSPACE itへ、すなわち「夢見の状態」へ運ぶよう仕向けられる。そこにはすでに先に運ばれた「魂」が思い思いに置かれている。これらは潜在意識として読み替えることができる。その他者としての様々な意識のなかに己の自意識を置く。ここでは自意識は潜在意識の群れに囲まれ圧倒される。様々な人によって記された「大切なものの名」のなかに自己の石を置いた時、これら見知らぬ人やものの名がなぜか自分の「からだ」に記されたもののように思えてくる。これらはずっと気づかれないままでいた「しるし」なのだ。さらにオバナは9人の知人、友人に一日ずつその場に留まるよう依瀬しているが、思うにこれは「夢」を演出してもらいたいというオバナのねらいが隠されている。依頼された人達はいわば夢見の空間の主としてその場を占領する。潜在意識の顕現として「他者」の意識が全面に押し出されるわけである。9日間で九つの「夢」が連続するわけだが、「夢」は依頼をうけた人達の個性によって様々に繰り広げられた。賑やかな「夢」もあれば、静かな「夢」もある。あまりにも微弱なため意識されないものもあったかもしれない。しかし、訪れた者は自分の「魂」を置き、その「夢」の主と会話し、「魂」をあずけて立ち去る構成は共通している。私が行ったときはちょうど足利の写真家山田利男氏が[Space JACK]と銘打ち、ニューハーフの人々を撮った写真をこれまた不規則にところせましと貼り、みごとな「夢」を展開していた。[Space JACK]というタイトルがもののみごとに「夢」の本質を言い当てていて興味深い。夢とは自意識の空間を潜在意識をはじめとする「他者」に乗っ取られて見るものだからだ。これは「個展」という「自意識の空間」を他者に明け渡したオバナの「夢」でもあるわけだ。なお、SPACE itに置き去りにされた石は後日オバナによりそれを運んだ人物のもとへ郵送される予定である。私たちの「魂」の一部が再び帰ってくるわけだ。ただし「自分」以外の「魂」がやってくる場合もおおいに考えうる。それは私たちの自意識に昇ってきた潜在意識であり気づかないままでいた自分自身なのだ。以上、[ウィルスの視覚 共同作業 有隣館《閣の中》から寺前荘《ねむり》SPACE it《あるいは夢によってめざめる》]を私なりに記述してみた。ここで注意したいのはオバナが「夢からめざめる」とせず「夢によってめざめる」としている点である。潜在意識が重要なサインを夢により自意識に送り込んだとき、その夢を忘れないようにと覚醒させる場合があるという。オバナはこのことを意識していたのかもしれない。いずれにせよ夢によって目覚めた以上、その夢を記述せねばならない。これが次なる[ウィルスの視覚 共同作業 寺前荘《ねむり》 SPACE it《あるいは夢によって目覚める》からMOVE《だれか》]の課題である。
この〈共同作業〉は、前稿の注に記載した〈共同作業さがしものはなんですか〉で渡された指示書がもとになっている。その内容は同封のチューインガムを噛み、噛み終わったらそれをやはり同封してある透明な袋に入れ、シールに名前を書いて封印し、オバナまで郵送してくれというものであった。この指示書には「締切りは8月20日まで」とあるから少なくともガムが返送されてから2ケ月弱経たのち開催された。ガムを送った者にはそれと引き替えにテレホンカードが送られてきた。銀色の美しいもので表には会場であるギャラリーMOVE(群馬県赤城村)の電話番号が大きくプリントされていた。同封された案内状にはこのテレホンカードを使って会場に電話するよう指示があった。さらにこの案内状には「ひぃふぅみぃよる いっむうななや なく」と記されていた。このことばは古神道の[ひふみの神歌]を連想させる。この神歌は「一二三四五六七八九十百千万」の数霊と47の清音の言霊をあらわし、深遠な意味をもつという。それをオバナがアレンジしたものだろう。また電話は番号を介して「ことば」を送る装置であり、さらにテレホンカードも使用度数という「数」と「ことば」が密接に隣り合っている。いずれにしろ「数」と「ことば」二つがリンクする場を設定しようとする意思が感じられる。さらにガムが登場するが、考えてみればガムは嚥下されず再び口の外へ出される特殊な食べ物である。いったいオバナはこれらの道具によって何を気づかせようというのか。一つは言葉を発する器官と食べる器官が同一であるということだろう。同じ口を介してなされることだが一方は外部へ発せられ、一方は内部に取り込まれる。ものを呑み込みつつことばを発することはほとんど不可能である。ここに一つの秘密が隠されているのかもしれない。思えば「しゃべる」ということばと「食べる」ということばは音も似ている。さらに言えば、私たちは幼い頃ことばを苦心して学んだという記憶がない。気づいたらことばが身についていたのだ。ことばは魂の素材であり、ことばにより意思や概念が明確な輪郭を現し、自我も規定される。かつて魂はことばを「食べた」のだ。身体がものを食べ成長するのと同様、魂もことばを食べ成長したのだ。ことばを習得することにより、はじめて人は「人の魂」を持つ。「人の魂」と「動物の魂」のもっとも大きな違いは、この「ことば」の有無にあり、「人の魂」の強さは「ことば」の力によるのだ。ここで興味深いことが出来する。では「ことば」の素はいったい何かということである。これは魂以外の何ものでもない。ある種の意思の働き、たとえば何かを食べたい、他者と一つになりたい、あるいは何かを伝達したいという「傾き」に明確な方向性を与えるのは「ことば」であり、この場合ことばの源はこの魂の漠とした「傾き」にあると言える。いずれにせよことばと魂は密接な関わりがある。以上のことを踏まえたうえで、夢から覚めた魂にことばを語らしめるというこの共同作業の主たるねらいに話をもどそう。まず、オバナはテレホンカードを参加者に送り電話を会場にかけさせた。電話を取るのはたまたま居合わせた「参加者」である。多くの場合、知らぬ者同志が会話を交わすことになる。その時、何を語ることになるのか。相手が誰であるかの確認と、自分が何者であるか相手に伝えること、この二つではないだろうか。電話であるため、ことばと声で情報を相互に交換しなくてはならない。私たちはあらためて未知の人を知ること、自分を未知の人に伝えることをことのほか難しいことに気づくだろう。自分で自分のことははっきりと把握していると思っていてもこのような状況ではたちどころにあやふやなものとなる。自意識のおよぶ範囲はこのようにたかが知れている。では何によって自己を示すのか。ここでガムが登場する。ガムは「食べる」と「しゃべる」この二つが重なり合った領域に属しているものではないか。ひとたびロに入れ阻噛し、再び外へ出す。この行為は日本神話に出てくるアマテラスオホミカミとスサノオノミコトの「うけひ」の場面を思い起こさせる。スサノオがタカマガハラに参上したその凄まじさに驚いたアマテラスは彼が自分の国を奪おうとしているのではないかと思った。しかし、スサノオは「異心無し」と心の誠を訴えた。そこでお互いの持ち物を交換して物実とし噛み砕き息を吹きかけ生まれ出る「神」によってその心の真偽を見定めた。それによりスサノオの心の誠が証されたわけだが、噛み終えたガムを送らせるというオバナの行為は一種の「うけひ」ではないのか。「ガム」を「物実」とし送り主の魂が何を「食べて」きたのかを明確にしようとしたのではないか。壁に展示された、送られて2ケ月弱を経た「ガム」は「物実」として機能し変色したりカビが生える。噛んだ主の、いわばことばになる以前の魂の記述がこの「ガム」によって示され、いかなる「うそ」も「いつわり」も通用しない。これは潜在意識に語らせる有効な手段なのだ。この「物実により生成したもの」に最も近いことばとして[ひふみ]が登場する。数とことばのあいだに位置するこの「ことば」は意味よりその音と響きによって聞く者の心を波だたせる。これは「ことば」というよりむしろ「波の束」なのだ。[ひふみ]において「波」は「数」に置き替えられている。文字通りことばが出現する水際に鳴り響くうねりなのだ。[ひふみ]をこの共同作業のタイトルに添えることにより「物実により生成したもの」をいかにことばに変換するかという大きな課題が提示されている。これが出来ない限り完全な「夢の記述」は不可能なのだ。この共同作業では「響き」と「物実により生成したもの」二つが接近しつつも残念ながら明確な「変換」がなされていない。
‘98.12月、館林SPACE・Uに於いて〈ウィルスの視覚共同作業〉の掉尾をなす[星を見よ]が開催された。ニケ年弱かけて、最初に〈共同作業〉が行われた場所に戻ってきたわけだ。この〈共同作業〉では「夢」から覚めた「場所」が示される。SPACE・Uの会場を暗室にし、目の高さに5㎝幅の鏡を四囲に廻らし、鏡には約7㎝間隔に直径3~4㎜の穴が一直線に穿たれている。穴の奥に一つ一つ豆電球がともされ、そのため穴は星のように輝く。総延長17.6mの鏡の帯に穿たれた「星」の数は全部で240あった。穴を覗こうと目を近づけると穴から漏れる光に照らされた自分の目が鏡に映る。瞳と鏡の穴が重なり自分の目に穴があき、輝いているように見え、一瞬ぞっとした。目もまた一つの穴であり目を入り口として己の内面に参入しようという目論見である。眠っているあいだ眼球は上を向いており、さらに夢をみているとき眼球は動いているという。ここでは覚醒時にそれが起こっている気がする。ふだん外部を見るための器官である目が内部を見つめる機能も持っているのではないかということに気づく。通常その機能がはたらくのは夢のなかにおいてであるが、ここでは確かに目覚めた状態でその機能がはたらいている。私たちは[星を見よ]において目覚めたわけだ。しかし、日常の空間に目覚めたのではない。もう一つの「空間」すなわち己の内部空間に目覚めたわけである。私たちは一連の〈共同作業〉により日常から闇へ、闇からねむりへ、ねむりから夢へ、夢から覚醒へと導かれたが、この覚醒は意識の目覚めなのだ。目覚めて何を見ることになるのだろうか。
穴を覗くとそこには人の名があった。今までの共同作業参加者あるいはオバナと親しい人物224人の名が「未」という文字で繋がれている。私は自分の名を見つけることができた。ここで再び日本神話の一節を思い出す。それはスクナヒコナノミコトに去られたオオクニヌシノミコトの物語である。
オオクニヌシはスクナヒコナとともに国造りに励んだが、やがてスクナヒコナは常世国へ帰ってしまう。そのためオオクニヌシは深く愁い、自分とともに国造りをしてくれる者がはたしているだろうかと問うた。すると海の彼方から光が出現し、たちどころに迫ってきてオオクニヌシに言った。「もし私がいなかったならば、お前は果たしてこの国を治めることができたであろうか。私がいることによってお前はその偉業を成し得たのだ」。オオクニヌシはその光に向かって何者であるのか問うた。すると光は「汝が幸魂、奇魂 なり」と答え大和の国の三輪山に祀るようオオクニヌシに命じた。
オオクニヌシが途方にくれているとき、自分の魂が現われ、彼を導いた物語である「幸魂」は往く先を予見し、よく身を守り幸をもたらしてくれる魂であり、「奇魂」は事物の本質を認識する霊性であり、ものごとを成就するはたらきを持ったものである。いずれも、小じんまりとまとまった自意識を超えそれを導く、より高次の「自己」なのだ。これらも潜在意識と見なされるが、ここで注意したいのは私たちが「食べた」と思われるウィルスから魚類、両生類、爬虫類、を経て哺乳類に至る「魂」とはまた別個のものだということである。これらの「魂」は私たちの「魂」の土台をなし私たちの「魂」はその上にいわば「柱」のように立っている。これら私たちの「魂」を支える諸々の意識体は確かに私たちを導くが、それは恐れや驚き、快・不快など原初的で荒々しい感覚で意識させる。一方、「幸魂・奇魂」は直感的であり、波長がこまやかである。けっしてこの「柱」の基盤から出てきたものではないのだ。これらはいったいどこから来たのか。おそらくそれは「柱」の上方からである。私たちの魂の「柱」の上部はなにかに通じているのだ。ここで、私たち自身もまたより大きな「あるもの」を支える部分にすぎないことに気づかざるを得ない。その「あるもの」と接する魂の部分が「幸魂・奇魂」と名づけられているのではないか。オバナの[星を見よ]という作品はまさにこの「幸魂・奇魂」を表現したものに他ならない。私たちは自身の意識により見る範囲をかなり制限されている。それは多くの場合、私たちの内にあるものを素材として外部へ投影することにより認識しているからだ。こちらから投げかける意識の「光」に反射するものしか見えない。いわば巨大な合わせ鐘のなかに私たちはいるようなものなのだ。オバナは意識がよりこまやかならば「鏡」を突き抜けその先にあるものにまで光(=意識)は到達しうるという。[星を見よ]の鏡に穿たれた穴はまさに自意識で見える像を突き抜け、その先へいたる通り道でもあるのだ。その穴の彼方よりもう一つの「光」が私たちの「名」を伴って迫り来る。それぞれの名がそれぞれの光に包まれ輝き、未だ出現せざるものを表す「未」という文字で繋がれている。その光は夢から覚めた私たちがはじめて見る意識の光であり、私たちの内にありながらより高次なものと結ばれている。オバナのこの作品により私たちは星として祀られているわけだ。私たちのさらなる課題は新たに出現したこの「光=意識」によってすべてのものを見直し、ものの本質を見極めるとともに、この「光=意識」によってはじめて出現する存在に気づくことであろう。
以上、オバナの〈ウィルスの視覚 共同作業〉を一通り見てきた。私たちは内面の旅を経て再び目覚めたわけだが、全体を通して見ると、合わせ鏡の闇の中に潜む光と最後に現れた星の光により私たちの存在する「場」が示されていることに気づく。この両極をなす二つの光のあいだに様々なものが出現し、私たちはその中を行きつ戻りつしている。両者はどちらも私たちの内なる「光」であり、私たちの「生」を規定している。私たちは「地から発する光」と天にまたたく「星の光」を結ぶ一本の「柱」なのだ。ここにおいて私たちのいる「場所」と私たちの全き「すがた」が明らかになる。しかし、オバナは最後に現れた[星を見よ]の光を「虚光」と名づけた。ここには重要な意味が潜んでいる。なぜなら「虚光」は「星の光」よりも高次のものだからだ。もはやそれは潜在意識を含めた「自己」の内にあるものではない。意識の「光」もとどかぬ彼方に輝くもう一つの「光源」。これまで私たちは光と闇が幾重にも入れ子式になっていることを見てきた。宇宙もまた巨大な「闇」だとするとその外部はまばゆいばかりの「光」で満たされているのかもしれない。とにかく「虚光」という概念はそのような「外なる光」を思わせる。それが鏡に映った私たちの「虚の目」から発して来る。オバナのさらなる課題は「虚光」の究明であろう。この「光」にたどり着くには幾重にも層をなす「鏡」を一つ一つ開いていかねばならない。最後には私たちの意識の光はとどかず、私たちのすがたはもはやそこには無いだろう。しかし、新たな「光」がそこにさしているはずである。「虚光」とはこの新たな「光」のことではないだろうか。そして、この新たな「光」はすでに私たちの「幸魂・奇魂」を照らしているはずである。言い換えるならば「星の光」にこの新たな「光」はわずかながら含まれている。オバナはこのことを直感しあえて「虚光」と名づけたのではないか。この「虚光」からみればおそらく私たちは「ウィルス」のようなものにすぎないであろう。
オバナは〈ウィルスの視覚 共同作業〉の最後にもう一つ謎めいた「書物」があることを私たちに示す。その「書物」のなかでは私たちはわずか一行の記述でしかない。その「書物」とは私たちを包摂する巨大な「からだ」である。そこでは私たちは「ウィルス」の座にいる。この「からだ」に記述されたものを私たちは文字通り「ウィルスの視覚」でもって読み解かねばならない。言うまでもなく、「ウィルスの視覚」こそ唯一有効な手段なのだ。この壮大な「からだ」をもつものからすれば私たちは「輝く影」にしかすぎない。しかし、かのものは、私たちに読み解かれるのを待っている。
(‘99.3.22記)
タカユキオバナ
「ウィルスの視覚」が立てた仮説
—瞑想と免疫の連立方程式の解は虚—
以下の文は、江尻潔氏が本誌に連載している『タカユキオバナノート』 (第一回[Infans No2]天から飛来した人の素/第二回[Infans No3]輝く影の住み処)への返答として、タカユキオバナ氏本人に、自身の作品について記してもらったものである。
光と闇の心底はふるえていた。あまりに圧縮された緊張がしばらく続いて、そいつは水鏡に姿をかえる。永遠がそこに爪をたてると小さな波紋が生まれ、それが宇宙になると・・・
どの位あそんだろうか。ある者は目の起源として詩をよみ、またある者は言葉の起源として詩をよんだ。ある者は物質の起源として詩をよみ、またある者は意識の起源として詩をよんだ。
ある日、こうしてできた無数の銀河の小さな系のさらに小さな星の一点から、限りなく小さな響きにもならぬ小声で「ちがうよ」とささやかれたような気がした。
すると空耳かと思われたその声音に共鳴するかのごとくに、あちらでも「ちがうぞ」こちらでも「あやまりよね」「ちがうわよ」「まちがいだ」
小さな泡粒はまたたくまに沸騰、津波となりうねって膨張し、とうとう全てをのみ込んでしまった。
初めて何かを身龍ったような気がして、そいつはふるえていた。
1997年2月3日~11日 SPACE・U(館林市)
床から9種の短冊上の鏡を展示場壁面全体に沿って任意に立ち上げる。さらに目線の位置に遺伝子の塩基記号アデニンA、グアニンG、シトシンC、チミンTを配置めぐらす。
自意識の仮説
内なる円環から発する光の形は外に共鳴し、それとは気づかずに根源の響きを括っている。その個体に隣接する今は、たえず個体を成立させてきた歴史に逆転写される。個体の歴史は、隣接する他者をいかにして自己に変えてきたかの歴史である。38億年ともいわれる生命の歴史の中で、環境情報を持っている単位空間の律動するランダムな時空コラージュの内、等しい外が、この塩基配列のどこかの部分と同時に共鳴が起こり、それはたえず今、たえず今とあちこちを刺激し、共鳴現象がこの時空を行きつ戻りつするなかで、次第に円環として閉じるようになる。この円環は、一定の律動や定まった形を持っておらず、たえず躍動し刻々とその姿を変える。「意識する」の質はこの円環の律動と形で決まる。
1998年1月22日~27日 SPACE・U
4壁面中央、目の高さに「ここはどこ」 床中央の台座上に透明板ガラス(900×900×3ミリ)を載せ、多種多様なキャンディーで埋め尽くす。MDウォークマンにて参加者の声を録音。ウエ様封筒
光合成機能を備えたⅩ人種
例えば、この宇宙のどこかのⅩ銀河にⅩ太陽系があり、その第3惑星にⅩ地球が存在するとして・・・。このⅩ地球における生物進化史に、人間と非常によく似た光合成機能が備わったⅩ種がいるとしたら、そういった人々が住む惑星の文化や文明はいかなるものなのでしょう。
他者を殺して食べるといったことから解放された時、この事に関係する一切の仕事から解放された時、私達は、どんな生活者になるのか。ここに住む人々の日常に興味があるのです。
想像してみてください。私達の当たり前の欲望がⅩ人種にとってどのくらいの意味を持ち得るのかを。
彼等の意識に迫りたいのです。
3月9日 前回展の参加者101名の痕跡を情報加工 郵送
仮説の展開
自意識 日常 他者の思考上の風景 例えばキャンディー 死を加工して欲でくるむ 情報伝達の起源 食 絶えざる死の補填 ウエの連鎖として閉じる意識 他者の悲鳴の上に成立する自由 ウィルスの限界 自己存在 合鏡 未出現の記述 言葉の光源 夢 虚 身体 意識の書物 意識による統一 虚光 ないの受肉 働きだけがあった
3月13日~22日JAZZオーネット(足利市)
壁面中央、目の高さに「たべればそこがきえてゆく」 天井全体から天蚕糸をたらし多種多様な「つまみ」を吊す。会場奥の柱に「闇のポスト」(133×176×1820ミリ)を設置。
闇の入口
満たされない魂、たべればそこがきえてゆく。しばらくするとたべられてしまった他者の痛みによってウエが再生される。痛みは身体的空間を強く意識することに他ならない。つまり死がウエを無限に再生してゆくのだ。
6月22日 前回展の参加者70名の痕跡を情報加工 郵送
合鏡
自分をみつめる。
自分を自身に転写し続けてゆくとやがて、非自己化して他者になってゆく。自分をみてみたいという欲望は、完全に自己を分化してしまう。ひよつとすると私達は、他者化した自己を見ているのかも知れない。
7月7日~12日 有鄭館(桐生市)
会場を暗室にする。第2回展の時、録音した参加者70名の声「ここはどこ」を会場内にシャッフル再生。床には迷路状に「死のテープ」、その上に任意の間隔で鏡、封筒、さらしの順に重ねて覆う(300個所)。封筒表に名前(参加者、友人、知人の肉筆をコピー)。中身はチューインガム、透明な袋、返信用封筒、ラベルニ片、メッセージ。
闇の中
達伝子上を歩いてみる。その律動する螺旋道をゆけば、個体を形成してきた時代のあらゆる環境が幻影化している。それぞれの許容範囲の限界点にサンプルとしての名前がおかれ、命と命を隔てるものの杭として境界線上に立つことになる。この先に行きたいような行けば戻れなくなるような所に至る幸運は、その肉体でのみ意味する精神の模索の限界である。この時空を超越したい欲望にとりつかれたもの達が、その総体の中から必ず出現してしまうということが存在の方向にはある。
ウィルスの感染の歴史上に時折発芽した美しい名前をみつける。死を交換してきた証にできた光を受容するためのあなたの穴(すみか)である。さがしものはその穴の中にある。
7月7日~8月20日 噛み終えたガムが前回展の参加者80名中56名から送られてくる。
自分が自身を食べる。ウエた自身以外に、もはや外に満たすものがない時、ウエは内側に向かうのである。
言葉の光源
闇の中で自身の骸をさがしあてたあなたは、そこから封筒に変わりはてた自身のからだを持ち帰ってきた。そのからだには既にウィルス(メッセージ)が進入しており、自身の骸を食べるという行為がガムに託されている。
非あなた化したあなたは、もう一度あなた自身の中に入り、もはや名状しがたい姿となって再び、あなたの口から眼前にあらわれる。
この言葉の光源を読み解くためには、夢の中で何かを見ている時のあの目が必要になる。
まなざしはあちこちに飛火し、重さにばけて僕の所に戻ってきた。
9月1日~9日 寺前荘い室ろ室(高崎市)SPACE・it(高崎市)
木造のアパート寺前荘の二室に御影石(12×12×12センチ)百個を任意の間隔に設置。参加者によってSPACE・itに運ばれる。SPACE・itでは日替わりで友人たちの行為(展)が行われる。
あなたの口からあらわれたあなたは、御影石に姿を変えてアパートで眠っている。あなたが来るのを待っている。再びあなたはさがさねばならない。
魂の重
日常に夢を演出すれば儀式となる。
誰かの夢の中に実際に立つことになった実在のあなたは、夢をみている誰かを意識することなどめったにない。しかし誰かは、夢の光源にて確実にあなたをみている。
誰かの夢に愛しきものの魂をかかえて立つ時、虚の働きがわかる。
10月5日 噛み終えたガムの返信者にテレホンカードを郵送。
ひふみ
虚の働きにめざめた声が向かうところ、それは光の穴(すみか)である。
10月12日~22日 MOVE(赤城村)
個体内部だとわかるように遺伝子の塩基配列にみたてたチューインガムを配置めぐらし、外部との接点は電話に限定しておく。
この空間に観客がはいってくると、その人の自意識によってそこに「自意識」が発生するしくみである。外部からの刺激が電話(信号、声、音、響き・・・)によって入ると、そこに発生した「自意識」がとらえ、これを記録する。記録されたメモ(記憶)は、個体にみたてた壁面の塩基配列にはさみ込まれてゆく。