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隠された十字架の国

2018.12.06 09:20

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2NHK34ED7C6T/ref=cm_cr_arp_d_viewpnt?ie=UTF8&ASIN=4198612870#R2NHK34ED7C6T 【カスタマーレビュー  山中英雄】より

5つ星のうち5.0 景教と秦氏は日本国家建設に貢献大!景教徒風習の位牌・戒名・線香・焼香・数珠・お盆を取り入れたのが日本仏教!日本は古代イスラエル民族末裔により古代イスラエル統一王国再興された古代基督教的な神道の国!

 著者はアッシリアの景教徒(東方キリスト教徒)の末裔であるが、本書内容の紹介によれば、「日本人のルーツと私のルーツは同じ。アッシリア人親子が50年にわたり行った日本研究の集大成。日本人とアッシリア人が景教を介してシルクロードでつながる、日本人が知らない「日本」とは。」 ところで紀元前7世紀頃に最盛期を迎えたアッシリア帝国にちなむ国名を持つのが現在の「シリア」、正式名称は「シリア・アラブ共和国」だが、現在の「シリア」と著者の繋がりは不明だが、下記に本書購読及び関連ブログによるポイントとコメントを列挙するので、今後の購読者の参考にしてもらえれば幸いです。

 <<本書購読及び関連ブログによる主なポイント&コメントの列挙>>

●「東方基督教(キリスト教)」には、ギリシャ正教会やロシア正教会などの「東方正教会」、および、景教などの「東方諸教会」がある。 中国で「景教;景は日の光、光明の意味」と呼ばれるキリスト教はアッシリア地域で栄えた「景教=アッシリア東方基督教」であるが、ネストリウス派基督教は適切な名前ではない。景教は新しい宗派の名前ではなく、使徒トマス以来の原始基督教の流れを汲む。「西方基督教(ローマ・カトリック)」はユダヤ的な特徴を出来るだけ排除したようなキリスト教に対し、「景教=アッシリア東方基督教」はユダヤ的な面、つまり原始基督教(西暦1世紀頃)の特徴を大きく残したキリスト教である。5世紀の西方基督教会と東方基督教会の分離原因は根本に人種問題があり、西方基督教会の白人が東方基督教会の有色人種を追い出す形だったが、20世紀になってローマ・カトリックと景教は和解した。 

●中央アジアのバルハシ湖の南、イリ川付近にあり、原始基督教を受け入れ、アッシリア東方基督教教会を形成していた景教国である弓月国の民・秦氏は、弓月君に引率されて127県の人々約2万人が応神天皇時に新羅経由で兵庫県赤穂市の「坂越」という港町に上陸したが、聖徳太子ブレーンの秦河勝を祀る「大辟神社」を建て、近くに秦河勝の墓がある。この赤穂の名前は、イスラエル北部にあるアコー(アッコ)という港町由来と言われている。 ●中国史書「三国志;魏志東夷伝」によれば、秦一族は、“背の高い人々で、衣服を清潔にし、特別な言語や風俗を持つ人々であり、また王は馬に乗り、高い文化を持つ人々だった。”この“衣服を清潔にし”というのは、古代東方基督教徒やユダヤ人などに見られる特徴で、日本人の特徴である清潔好き、風呂好きは彼らから来ているようだ。 

●日本全国の約11万に及ぶ神社のうち、最も多いのが八幡宮で4万社以上、稲荷神社は3万社以上あると言われており、これらの神社は全て秦氏が創建しており、この宗教・思想・文化・工芸・風習面からも秦氏の主導による日本建国と言える。 

▼稲荷神社の頂点に立つのは京都の伏見稲荷神社で、秦氏の首領・秦公伊呂具が創建し、稲荷神は秦氏の氏神でした。稲荷の語原「イナリ」は、「JNRI=INRI」(ユダヤ人の王ナザレのイエス)由来が本当で、つまり、日本人は景教徒(キリスト教徒)と自覚せずに、イエス・キリストを拝んでいることになります。 

▼八幡神「ヤハタノカミ」の「ヤハタ」という名前の発音が秦氏の「ハタ・ハダ」と同様に、ヘブライ語でイスラエル12部族中のユダ族を意味する「ヤフダ」に酷似している。「八幡」は「矢羽田」と書いて「ヤハダ」と発音し、ヘブライ語で「ユダ族」を意味する「ヤフダ」が変化したものと考えられる。となると「八幡神社」とは元来「ユダヤ神社」、もしくは「ユダ族の神社」という意味を持つ名称であったと推測できます。 「日本のシティジャーナル」ブログによれば、へブライ語で読むと、八幡神として祀られている応神天皇の諡号「誉田別」(ホムタワケ)とは「新しい都を造営せよ」という意味で、「誉田天皇広幡八幡麿」(ホムタノスメラミコト・ヒロハタ・ヤハタマロ)とは、「大勢のユダ族が住む王国の丘陵に(初代)神殿を造営する神の人」という意味だった。つまり、日本人は、ユダヤ教徒と自覚せずに、ユダヤの神ヤハウエを拝んでいることになります。 

●「新撰姓氏録」には秦氏が仁徳天皇より姓を賜った際の記述があり、そこには「ハタ」の当て字として「秦」ではなく、「波多」と書かれています。「ハダ(ハタ)」とは、ヘブライ語で「ユダ族」を意味する「(ヤ)フダ」が変化したものです。そこに「波多」という漢字を当てることにより、秦氏がイスラエルの王系であるユダ族の血統であることをほのめかしたものであると考えられている。また、秦氏の氏神は大辟大明神ですが、「辟」に「もんがまえ」を加えると景教におけるユダ族のダビデを意味する「大闢」になることからしても、秦氏の出自がイスラエルの王族であるユダ族に繋がっている可能性は高いと言えます。 

●私見だが、日本渡来後に、古代南ユダ王国末裔でその王権継承する役目を担った「ユダ族」出身の秦氏の血が天皇家に入って、古代北イスラエル王国王家エフライム族末裔の天皇家と古代南ユダ王国ユダ族末裔の秦氏が統合して古代イスラエル統一王国再興が実現した古代イスラエル民族末裔の国が日本と思われる。歴代天皇の中で唯一煌びやかな衣装と王冠の肖像画である桓武天皇は平安京遷都に際し、古代イスラエル人が一貫して行っていた「旧約聖書」の「創世記」から登場する儀式の燔祭(ハンサイ;主に羊などの動物を祭壇で灰になるまで焼いて神に捧げる儀式)を行ったが、エルサレムはヘブライ語で「平安な都」の意味、つまり平安京である。桓武天皇の時またはその前に、ダビデの血をひくユダ族の秦氏の血が天皇家に入って北イスラエル王国と南ユダ王国の統一した古代イスラエル統一王国王家再興が実現したので、秦氏は古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王時代)再興であるエルサレム城の平安京建設と、ソロモン第3神殿の伊勢神宮建設に邁進したと思われる。平安京、特に京都御所は、古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)再興の証であるエルサレム城であり、伊勢神宮はソロモン第3神殿である。ちなみに、伊勢神宮の内宮には新約聖書のイエス・キリスト、外宮には旧約聖書の唯一神ヤハウエが祀られている。そして、この時に、北イスラエル王国(象徴;ユニコーン)と南ユダ王国(象徴;獅子)の統一による古代イスラエル統一王国再興を記念して、ユニコーンと獅子が盾を左右から支え、その盾の上に王冠がのっている天皇の王冠「イスラエルとユダの統一紋章」が製作されたと思われる。イスラエルとは「神の民」とか「神に勝った民」とか「神に知られている民」の意味である。

 <本書購読して参考になった新しい知見の列記>

●日本の仏教の寺では、人が亡くなったとき、その戒名と日付を書いた「位牌」を用いるが、この風習は元々景教のものだった。景教徒は、死者を弔う際に、亡くなった人の洗礼名と日付を書いた二つ折りの位牌を用いたが、この風習は元々仏教にはなかった。 ●「戒名」というもの自体、景教の影響だと指摘されている。なぜならインド仏教に「戒名」の風習はなく、これは日本仏教の発明なのです。その日本でも、昔は、戒名は生きている者だけが無料でもらったものだったが、日本仏教がいわゆる「葬式仏教」と呼ばれるものになったとき、戒名は死んだ者のために遺族が高い金額を払って買うシステムになっている。 ●「お盆」は、元々仏教の行事ではなく、中国でペルシャ系ソグド人や景教徒の影響を受けて始まったもので、空海たちが日本に持ち帰って広めた。京都・大文字山の大文字火は空海が景教から取り入れて実行したらしい。線香や焼香の風習は、元々仏教の風習ではない。また、仏教の信者は手に「数珠」を持っているが、数珠の発明は仏教でない。景教徒の風習であった線香や焼香、数珠が仏教に摂り入れられたらしい。 ●景教徒が中国で漢文に訳した旧約聖書を最澄が、新約聖書を空海が中国から持ち帰ったが、天台宗と真言宗の違いはここにある。空海が持ち帰った仏教は「密教」といって「景教と混合した仏教」だった。空海が説いた真言密教の儀式には、十字を切る景教の風習があり、基督教の洗礼式を取り入れた「潅頂」という儀式、病気平癒のための「加持祈祷」があるが、これらは釈迦が説いた原始仏教にはない。 ●中国における世界的発明は、木版印刷術、羅針盤、火薬だが、この三大発明は景教徒の文化のもとに生み出され、発展したものであると主張しているが、客観的な証拠は? ●東洋の人々に文字を与え、読み書きを教え、学校を作ったのは景教徒たちだった。景教徒たちはアラム文字・シリア文字を変形してウイグル文字、モンゴル文字、満州文字、インド文字、アラビア文字などを考案し、日本語の「かな」もアラム文字を若干変形させて作ったと想像される。韓国のハングル文字は、今から1000年以上前に来た景教宣教師たちによってつくられ、今から500年前に朝鮮王によって復活せられ、20世紀になって日本統治時代に国民全員が用いる文字として普及した。(韓国生まれ学者ジョン・M・L・ヤングが述べている。)しかし、朝鮮のハングル(訓民正音)の創製を行ったのは李氏朝鮮第4代世宗と言われているが、景教徒がつくった客観的な証拠はあるのか? ●今も毎年宮中で演奏される雅楽の「越天楽」はペルシャから伝わった景教の音楽で、福岡県に伝わる有名な民謡「黒田節」はそれの編曲です。 ●親から子にだけ感染して受け継がれる「JCウイルス」のDNA解析による日本人ルーツは、「朝鮮半島に多い型」「朝鮮半島から中国中部・北部に多い型」「東南アジアに多い型」「ヨーロッパの白人やトルコ人などに特有の型」(EU型)の四系統で、日本人は多民族起源が判明。この(EU型)は、とくに東北の日本海側に住む日本人に10~20%見つかり、他のアジア諸国では見られない。アイヌ人は白人系の顔をし、青い目で、幼児期のお尻の青あざがないのでモンゴロイドとは違い、むしろコーカソイドの特徴を多く持っている。 ●浄土真宗の開祖・親鸞は、「世尊布施論」を読んでいたが、これは仏教の経典ではなく、景教徒によって漢語に訳された景教の教典なのです。この世尊は釈迦ではなくイエスで、イエスの「山上の垂訓」に始まり、イエスの生涯、教え、基督教の救い等が述べられている。親鸞は、「称名念仏」の信仰、つまり、「南無阿弥陀仏」の念仏を広めた人で、阿弥陀仏の名前を心に念じ、唱えるなら救われるというものだが、仏の名を呼んだら救われるという考えは、もともと原始仏教にはなく、これは基督教の考えなのです。 阿弥陀仏の教義はインドでつくられたものではなく、阿弥陀仏はペルシャのゾロアスター教と基督教に起因する。アミダの名は、「無量光、無量寿」を意味するサンスクリット語「アミタ―バー、アミタ―ユース」から来たもので、無限の光と永遠の命の仏の意味である。つまり、親鸞の信じた「阿弥陀仏」は基督教思想を仏教に取り入れたものでした。ちなみに、中国の古代碑「大秦景教流行中国碑」において、景教は「真宗」とも呼ばれているが、親鸞が開いた宗派「浄土真宗」は「真宗」と呼ばれた景教に倣っているのだろうか。 ●中国・唐の時代に浄土教を大成した僧侶の善導は、「修行による救いではなく、阿弥陀仏への信仰による救い」を説いたが、この著作を通して信仰に入ったのが浄土宗開祖・法然で親鸞の先生である。ここに景教徒→善導→法然→親鸞という一連のつながりを見られ、浄土宗・浄土真宗が非常に基督教に似ている理由である。 ●「聖使徒公同アッシリア東方教会(景教)」の旗は、日の出の太陽が描かれて、その上に聖書と十字架がデザインされている。景教の「景」は日の意味で、景教徒にとって日の丸は景教、またメシアの意味でした。 ●聖徳太子が隋の皇帝に宛てた手紙にある「日出ずる処の天子、書を日没るる処の天子に致す。つつがなきや」(隋書倭国伝)は、旧約聖書の「日の上がる所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように」(詩編一一三・三)という表現に似ており、「「日出ずる処」から「日没るる処」へ、という表現は、聖書に親しんでいる人々の発想のように思える。→→ これは、聖徳太子が秦氏に感化されて景教徒だった重要な証拠かもしれないですね。

●聖徳太子の宗教的思想は、秦氏と同様の、日本の神道と古代基督教信仰とを融合させた「古代基督教的な神道」であり、古代イスラエルまたは古代基督教的思想に基づく天皇を「大祭司」あるいは「祭祀王」とする神道国家と民衆の人権を重んじる政治を目指していた。 ●ザビエルが日本人にキリスト教普及させた数十年後のキリシタン数は約300万人で、当時の日本の総人口約1400万人の約12%に相当する。その後のキリシタン迫害時代に、約100万人が殉教し、約100万人は隠れキリシタンとなり、約100万人はマカオなどの海外に逃れた。

【本書の目次 主なポイント&コメント】

 <第1章> ルーツに引き戻した出会い

●アッシリア人の祖先は、アシュルという人で、ノアの子セムの子孫であり、へブル人(イスラエル人、ユダヤ人)とは親戚。今のイラクとイラン地域に、紀元前900~607年頃までアッシリア帝国があり、紀元前722年に北イスラエル王国を占領し、その民を捕囚として連れ去ったが、「イスラエルの失われた十支族」の名で呼ばれている。その後紀元前607年に、アッシリア帝国はバビロニア帝国に征服された。 ●イエス・キリストの「七十人の弟子」に属するアダイ、アガイ、マリたちがアッシリア地方に福音を伝えて東方教会の基礎をつくったが、アッシリアは最初の基督教の民となった。 ●アッシリアの人々は「アラム語」を話す人々で、アラム語はへブル語とは似ていて兄弟言語であるが、中国の古代碑「大秦景教流行中国碑」781年建立は、シリア語(アラム語の方言)と、漢文の両方を使って記された碑で、景教僧の景浄が書いたと言われている。 

 <第2章> 自由を求めて古代日本に来た秦一族

●ザビエルは、弥次郎から日本の宗教や風習を聞き、自分は初めて日本に基督教を伝えに行くのではなく、むしろ、昔そこに伝えられたことのある基督教を再び燃え上がらせるために行くのだ、という自覚をもっていたが、ザビエルは日本に来て十字架を発見したが、ザビエルよりも1000年も前の十字架だった。 <コメント> 昔に伝えられた基督教は景教で、自分の西方基督教とは違うことをザビエルは自覚していたのだろか? 発見した十字架は景教の黒い十字架だったのかな? ●中国・長安にある景教寺院の大秦寺に倣って建立された広隆寺に、国宝第一号の「弥勤菩薩像」が安置されているが、その菩薩像は右手を上げ、その手の親指の先と他の指一本とを合わせて三角形を作っており、他の三本の指を伸ばしているが、これは景教徒がよく使った三位一体信仰のシンボルである。 ●広隆寺を創建したのは、聖徳太子のブレーンであった秦氏の首長の秦河勝で、この本尊名の「ウズマサ」は、イエス・キリストを意味するアラム語・シリア語の「イシュ・マシャ」が少し訛って「ウズ・マサ」となった。 ●広隆寺には、昔から「いさら井」と呼ばれている井戸があるが、イサライは、『イエスはわが羊飼い』というアラム語で、イサはイエス、ライは羊飼いで、旧約聖書の詩編23編からきたようだ。 ●広隆寺の近くに、秦氏がつくった神社「大辟神社」があり、祭っているのは「ウズマサ明神(イエス・キリスト)」だが、「辟」に「もんがまえ」を加えると景教におけるユダ族のダビデを意味する「大闢(ダヴィ)」になり、ダビデは竪琴の名人、舞踊家だったが、門柱に「機織管絃楽舞之祖神」と記されている。これは、秦氏の出自がイスラエルの王族であるユダ族に繋がっていることを示している。 ●京都・太秦の「元糺の森」に、「蚕ノ社」または「木島坐天照御魂神社」があるが、「三柱鳥居」と呼ばれる鳥居を三つ重ねた形の聖なる三脚が池の真ん中に立てられているが、これは秦氏が信奉していた古代基督教の三位一体信仰の象徴である。

 <第3章> 仏教以外の日本がある

●景教徒で医者の李密医の教えに感化された光明皇后は、身寄りのない貧窮の人、病人や、孤児などを収容した公設の救護施設「悲田院」、無料で病人に薬を分け与える「施薬院」、無料で病人を世話する「療病院」をつくり、皇后という身分ながら看護婦として働いた。 中国で景教は、景は日の光・光明の意味で、光明皇后とは景教徒を公言した名前だった。

 <第4章> 日本人のルーツ=シルクロード

~歴史上 シルクロードを通った民族の波は七つある~

●第一の波(人類の離散) ; 日本人の先祖は、中近東で離散した人々、例えば、ユダヤ人、アッシリア人、秦氏などがユーラシア大陸の北方ルート(天山北路)を通り、あるいは中央ルート(天山南路)、南方ルート(西域南道)を通り、または海路を通って日本に辿り着いた人々である。 ●第二の波(イスラエルの失われた十部族の東進) : 紀元前721年の「アッシリア捕囚」によって、アッシリアの地に連れていかれた古代イスラエル民族の十二部族のうちの十部族が、その後に離散したが、主にシルクロードを通って東方に行ったが、シルクロード沿い、あるいはその近くに、明らかにイスラエルの失われた十部族の末裔の人々が住んでいる。 このイスラエル人が離散した時に、同時に、アッシリア人も全世界に離散した。 ●第三の波(東ユダヤ人の東進) : バビロン帝国は南ユダ王国の人々を捕囚したが、ペルシャ帝国がバビロン帝国を滅ぼした時に、イスラエルの地に帰らず、ペルシャに残ったユダヤ人である「東ユダヤ人」は、その後、シルクロードの開発者となり、遠い国々へ旅をし、交易を行った。 ●第四の波(原始基督教徒の宣教) ; 「地の果てにまで私のことを宣べ伝えなさい」というキリストの命令を実行しようと、弟子たちは世界中に出て行ったのです。基督教は、すでに一世紀にインドにも広まりつつあり、西暦三百年頃までにはシルクロード沿いの東方地域の大部分に古代基督教が浸透していた。 ●第五の波(ユダヤ人離散) ; 西暦70年のローマ軍によるエルサレム滅亡により、ユダヤ人の多くは祖国を離れ、世界中に離散したが、その離散の方向は東と北であった。北に行った人々はヨーロッパ、ロシア方面へ行き、東に行った人々は、アッシリア地域、更にシルクロードを通ってもっと東方へ行った。このように、中近東から追われて散らばった人々のおかげで、その文化が世界中、特にアジアに広まっていった事実がある。 ●第六の波(景教徒の東進) ; 景教は西アジアで栄え、そののち、さらに東方へのダイナミックな伝道を開始し、最盛期には東方世界の27以上の大都市に景教の教会があり、主教だけでも200人以上を数え、無数の信者を擁しました。 ●第七の波(その後の交流) ; 13世紀にモンゴル帝国は強大になって、東アジアから西アジア、またヨーロッパの一部まで至る広大な地域を支配し、この時代にシルクロードの交易はかってないほどの活況を呈した。イタリア商人の活躍で莫大な富をイタリア諸都市にもたらし、この富がイタリア・ルネサンスの開花に繫がった。イスラム帝国が強大になると、シルクロードによるヨーロッパと東アジア間の交流が途絶えた。更に15世紀末に、ヨーロッパからアフリカ南端の喜望峰をまわって、インド洋に達する航路が発見されたので、シルクロードの価値が低下した。

 <第5章> 日本文化に残る渡来人の影響

●711年(和銅4年)に建立された古代碑文「多胡碑」の下から十字架が発見され、その傍らの石槨にあった古銅券に「JNRI」という文字が見られたが、これはラテン語の“Jesus Nazarenus Rex Iudaeorum”の頭文字をとったもので、“ユダヤ人の王ナザレのイエス”の意味の略語です。この碑は、この地域に新たに「多胡郡」を置き、多胡羊太夫に任せるという内容で、群馬県で「JNRI」の文字や、景教の十字架が発見されたこと、イスラエル原産の羊が飼われていたことから景教徒の秦氏などの渡来人が多数生活していた。 ●平安遷都に必要な巨額の資金を出し、技術の粋を結集し、労力を提供したのは秦氏だった。平安京という名前はイスラエルのエルサレムと同じ意味で、イエル・サレムはへブル語の「平安の都」という意味であり、平安京ということで、秦氏のエルサレムへの憧憬の思いが込められている。平安京がつくられた後に「祗園祭」が始まりました。 ●景教徒は「かな」をつくる際に、アラム文字を若干変形させて作ったと想像される。「いろは歌」は作者不明だが、「罪なきイエスが十字架上の死を遂げた」の意味が隠されており、景教徒たちが「自分たちは日本に来たんだぞ」というメッセージを後世に残すためにつくったと思われる。

 <第6章> 渡来人の町だった奈良や京都

●621年聖徳太子の母が死亡。そのわずか2ヶ月後に最愛の后が死亡。その翌日に聖徳太子が49歳の若さで死亡。太子堂には聖徳太子が毒殺される場面を描いた絵巻が江戸時代まで残っていたように、聖徳太子の子孫だけでなく、聖徳太子自身も毒殺された可能性が高い。聖徳太子一族を滅ぼすのに直接手を下したのは蘇我入鹿だが、その背景にいた黒幕の後の幸徳・天智・天武天皇にまんまと乗せられたからだった。 ●法隆寺が存在する本当の目的は「聖徳太子一族の怨霊を鎮めるためであった」、つまり、為政者は聖徳太子一族の死に責任があり、聖徳太子一族の霊が怨霊となったに違いないと考え、法隆寺を、それを鎮めるための寺となし、また人々の間に聖徳太子信仰を生み出して、聖徳太子を仏教の大功労者として祭り上げたと考えられる。 ●聖徳太子と仏教とを結びつける真の証拠は何もなく、聖徳太子の怨霊の祟りと、神道派と仏教派の戦争で多くの仏像を焼いた仏罰を防ぐ一石二鳥の解決策が、「聖徳太子を仏教の教主」として祭り上げ、日本に仏教を広めることを為政者は狙った。 ●聖徳太子がつくった四天王寺には、「敬田院」「施薬院」「療病院」「悲田院」の「四箇院」と呼ばれる無料の福祉施設が付随していたが、これは聖徳太子の側近であった景教徒マル・トマの指導と思われ、後の光明皇后に引き継がれている。 ●法華経はインドでは見向きもされなかった経典だが、日本では「仏教のバイブル」と言われる経典で、法華経の「久遠実成の仏」とヨハネの福音書「永遠のキリスト」の教えは同じ、また、法華経の「一乗妙法」と聖書全体の「誰でもキリストによって神の子になれる」思想は同じであるように、法華経は数ある仏教の経典の中でも、聖書の中心思想に最も近いものを持っている。

 <第7章> ルーツの帰った人々

●茶道は、禅とか仏教の影響だけでなく、カトリック基督教の影響を受けている。キリシタン迫害時代に、茶室は隠れキリシタンの「聖餐式」の場で、茶道におけるお茶菓子はキリストの御体を、お茶はキリストの御血を表し、小窓から見えるキリシタン「灯篭」(草に隠れたキリスト像等)に向かって礼拝をしていた。皇族の別荘と庭園である桂離宮には、380年前の創建当時から、全部で七つの「キリシタン織部灯籠」があった。 ●近世欧米諸国の植民地支配の先兵として宣教師が基督教布教していたことが、1596年10月の高知・土佐沖でのスペイン船サン・フェリぺ号暴風雨遭難事件で暴露され、秀吉によりキリシタン禁制となり江戸幕府へ引き継がれた。従って、長崎でのキリシタン26聖人の殉教は、日本支配に失敗したカトリック基督教の犠牲者達である。

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