ヘブライ語から見る男と女 ―普通名詞から唯一無二の固有名詞へ―
11/22の虹ジャムは、『もう怖くない!あの聖書箇所』と題してこれまで同性愛断罪の根拠とされてきた箇所などを改めて読み解くシリーズの第二回でしたが、急遽、研究者の手島勲矢さんがゲスト参加してくださることになり、ヘブライ語の特性についての最新の研究も踏まえた、豊かな学びの時を持つことが出来ました。
手島勲矢
(てしま・いざや)
1958年生まれ。83年エルサレム・ヘブライ大学ユダヤ思想学科・聖書学科卒業。97年ハーバード大学大学院近東言語・文明学部博士課程修了(Ph.D.)。元、同志社大学大学院・神学研究科教授。専門は聖書(文献)学、ユダヤ思想の歴史的展開。特に中世ユダヤ教の聖書解釈、旧約聖書の本文批評とヘブライ語文法の歴史、クムラン文書などを研究課題とする。
おもな論文・著書に「スピノザの聖書解釈――ユダヤ思想の分岐点」(岩波書店「思想」第950号)『わかるユダヤ学』(編著・日本実業出版社)などがある。
会の後、約束の虹ミニストリーのメンバーのかなさんが、手島さんにさらに質問をしつつまとめを書いてくださったので、ここに掲載させていただきます。
ヘブライ語から見る男と女 ―普通名詞から唯一無二の固有名詞へ―
"神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。" 創世記 1章27節
ここで「男と女」と訳されているヘブライ語はザハルとネケバー、動物のオスメスを表す言葉である。(6:19ノアの箱舟にのる動物のつがいにも使われている)
神は神のかたちとして人間アダムを造った。このアダムは人間を意味する普通名詞。神は人間という種を造られた。種の中には当然オスもメスもいる。
例えば神さまは犬を造られた。神さまの造った犬の中にはオスもメスもいる。オス犬とメス犬を別々に造ったわけではない。
「男と女につくった」「ザハルとネケバーにつくった」 というと2種類の個体をつくったように聞こえるけど、 「人間アダムという種をザハルとネケバーで作った」の意味は、神の目には人間は一つで、それはオスでもなくメスでもないし、オスでもありメスでもある、という一致の世界。人間をつくる要素としてのザハルとネケバーと言える。
つづく28節では産めよ増やせよとあるし、これはジェンダーではなく生殖の話である。
ジェンダー(gender)とは、社会的・文化的な役割としての「男女の性」を意味する語である。人間社会における心理的・文化的な性別、社会的な役割としての男女のあり方、「男らしさ」とか「女はこうあるべき」といった通念を意味する語。しばしば、身体的特徴としての性別(=sex)と対比される。オス・メスは身体的特徴である。
なので1:27「男と女に彼らを創造された。」というのはヘブライ語から言えばジェンダーと身体を含めた「男性的オスと女性的メスの2種類を創造された。」とはならない。(この時、社会的性などあるわけもないが)
神が神のかたちに造られ愛されたのはあくまでも「人間」。
「人間」の中にオスもメスもインターセクシュアルという体を持つ人も、小さい人も大きい人も、黄色い人、白い人、発達障がいという個性を持つ人も、性欲を持たない人も、メスが好きなオスやメスが好きなメスや、女性的なオスやどちらの性別もしっくり来ないメスもいろいろいろいろいて、
でも共通なのは「人間」ということ。
そして神さまは「人間」を愛しておられる。
"人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」" 創世記 2章23節
1章で普通名詞のアダムから、3章では固有名詞のアダムとエバになっていく。その間の2章ではイーシユとイシヤーという言葉が使われる。それはザハルとネケバーの普通名詞とはちょっと違う。人間ならではの言葉。ヘブライ語で人間の男と女を意味する。聖書の根源的な語源の意味においては存在意識、自意識の区別と思われ、生殖というより正反対の助け手という意味合い。普通名詞から固有な唯一無二の存在としての2人となっていく。
愛し合うためには、まず個人にならなくてはならない。
父母を離れて、というのは独立意識のある2人を表している。アダムの中にある二つの部分が独立していき、その二つが一つの肉に、一体になる。唯一無二の存在を自覚するのは、自分の愛する唯一無二の相手がいてこそ。
人間アダムの肋骨からイシヤーがつくられるというのは一体となっている人間が独立した個人と個人となって、愛し合う流れを思わせる。
顔がぴったりくっついてたら相手が見えないけど、ちょっと離れれば見つめ合うことができる。
神さまが人間に自由意志を与えたのも、いったん父から離れて唯一無二の存在として愛し合うためかもしれない。 それがイーシユとイシヤーの名前で語られる第二章の人間創造で、エデンの園を出ていく時には、女イシヤーはエバという固有名詞で呼ばれる。
"人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった。" 創世記 3章20節
なぜトーラーはザハルとネケバーまたはイーシユとイシヤー2種類の言葉で人間の創造を語るのか? ザハルとネケバーには固有名詞の話は出てこないけれども、イーシユとイシヤーで話をする2章以降は、人間の男女が固有名詞の存在として認知されていく。これは視点の違う二重の人間創造の物語なのではないだろうか?
人間を意味する普通名詞だったアダムは系図にも出てくる固有名詞のアダムになる。唯一無二のアダムは唯一無二の愛するイシヤーをエバという名前で呼ぶようになるのである。
互いに唯一無二の存在と感じるのにジェンダーは関係ない 。
夫婦も親子も親友もお互いにとって唯一無二の存在 。
人が一人でいるのは良くないと神は言われた。一人ではさびしいと感じるのは当たり前なのだ。そういう風にできている。独立した唯一無二の二人の人が愛し合う時、スキンシップをともなう場合、ともなわない場合、性的な行為を含む場合、含まない場合、その形は様々である。
大切なのは、その二人にとって何が一番よい形なのかさぐり確かめ続ける事。知り合い続ける事。それが愛し合うということではないだろうか。神は愛でおられるので、愛がある所に共におられる。
逆に決まり事を当てはめることを優先すると、愛から離れることもある。
夫婦とは、親子とはこういうものという形を人に押し付けたり、無理して当てはまろうと自分を殺したりすることで傷つけあうことは愛ではない。形は時に、支配や暴力の言い訳にもなる。
これは逆行なのだ。 固有名詞から普通名詞への。
例えば、男性器を持った人を男性という一つの言葉でくくって、同じ性質、同じ生き方、同じ幸せの形を当てはめたとして、その型にたまたま近い人は疑問を持たないかもしれないが、たまたま遠い人は心や体を切り落として型にはまる痛み苦しみを味わう。
大切な、神の造られた、一点物の、名前のある人間たち。
ひとりひとりが違うようにその愛の形も様々で、AさんとBさんの愛とCさんとDさんの愛の形はちがうだろう。対等で誠実で自由な愛はどれもが美しく祝福されてると私は思う。
このまとめと感想を受けて、手島さんからもコメントをいただきました。
「わかりにくい話だったのですが、なぜ男女、性別を表すのに、ヘブライ語には二組の名前(ザハルネケバー、イーシユイシヤー)が使われて人間の創造が、ふた通りに表現されているのか?何故それら二つの表現での人間創造が物語が一つの流れる筋(巻物の物語の順序)として収められているのか?ここが僕のトーラーへの根本的な質問でした。僕のユダヤ文献研究やトーラーのジェンダーとsexの二重思考(普通名詞と固有名詞による二重の名前の思想)は止まる所を知らずで、まだまだこの問いに取り組んでいる最中です。すいません。」
また、当日参加したメンバーからのコメントもご紹介します。
ソドムの話をする時にすっ飛ばされがちな、アブラハムと神様の対話のところが大事ですね。他の方が仰ってた通り、「自分で考えろ」というのがまさにアブラハムと神様の対話だったなと。「正しい者も一緒に滅ぼすんですか!」と食い下がったアブラハムは、自分の頭で考えて論争をふっかけた。正しい者が50人いたら?から始まって20人、10人、と減ってく人数を見ていると、ひとりひとりが本当に大切と神様に認めさせるというストーリーなんですよね。この前提を忘れちゃいけないなと
聖書って神様のありようが書かれてるけど、ほんの一部が記されてるだけ。想像もつかないような大きさの神様を、我々が分かる範囲で書かれてるに過ぎない。私たちになさろうとしているご計画の大きさを知ろうとしたら、自分で考えながら、聖書の向こうに無限に広がっているものをひとつひとつ発見していくことが、聖書を読むということなのかなと思いました。俄然ヘブライ語聖書を読んでみたくなった。本来はこんなに自由な世界なんだなと感じました。
まだまだ知らない世界、全然読めてなかった、そういう聖書の可能性のほんの一端に触れることができました。いかに聖書を型に当てはめて読んできちゃったかということ、そういう風に教えられてきちゃったのかなと。よく反LGBTの人が「聖書のことばを曲げてはいけない」「書いてあるとおりに読まなきゃダメ」と言ったり、〇〇すべき・××するなという規範書として読んだり、「聖書の秩序」「何でもOKにしちゃいけない」と言ったりする。でもそういう読み方、全部もういらないって振り出しに戻して、 新鮮な気持ちで読みたいと可能性を感じました。もっともっと自分を柔軟に持って、裁きの道具じゃなく 神様が何より愛がないとといった意味をもう一度考えたいと思いました。
ルカのまとめ
はじめは「男(ザハル)・女(ネケバー)」という"種族"だったのが、関係性に生きるようになって「アダム」と「エバ」という人格的存在になったふたり。
私たちも、性別のラベリングによって互いを判断するのではなく、他に同じ存在はいない固有のひとりひとりとして、向き合い、知りながら共に生きていくことが大切なのだということを、この箇所からも学べることを知れたのは大きな感動でした。
また、聖書のヘブライ語の特性として、そもそも男性形・女性形で書かれていてもそこに現代の日本人の感覚でジェンダーを載せて読み込むことの危険性も教わりました。
たとえば、形の上では男性複数になっている「天使たち」も、「女ではなく男」というよりは、性を問わず共通する形ともとれるそうで、ソドムの人たちが天使をレイプしようとしたことは、そもそも愛じゃなく性暴力の話ですけど、「同性」とすら言えない可能性も十分にある時点で、この箇所を「同性愛のゆえに滅ぼされた」と使うことは無理がすぎる(他にもツッコミどころ満載ですが割愛)ことを学べました。
また、クリスチャンは聖書を規範書として見る時、物語からも「こうすべき」を導き出しがちだけど、そもそも聖書の物語はそのように読むべきものではなく、豊かな可能性に開かれているものであること。
前の章で神様に食い下がったアブラハムのように、愛とあわれみの心、ひとりひとりのいのちの大切さにこそ目を向け、自分の頭で考え続けることこそ、聖書を読むときに必要な姿勢なのではないか。
などなど、たった2時間のあいだにものすごい濃密で活発な学びと意見交換がなされました!
ご参加の皆様、ありがとうございました^^