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唐人駄馬巨石群

2018.12.07 04:59

FacebookKNOB ノブさん投稿記事

今朝はゆっくりゆっくり、、、高知の地でのご縁。

時は遥か、空海から始まり、縄文にまで至った時空を超えるような数日からいただいた氣づきをまた新たなるこの今にしっかりと結んで、日々日常の旅に生かしてゆくための深呼吸と心結びの時間。

昨日、足摺岬ではてっちゃん(野村哲也さん)お薦めの屈指の磐座へ。

そこは唐人駄場遺跡と呼ばれる地。

紀元前5000年頃から弥生時代にかけて、かつてこの地にあったいのちが自然と宇宙と繋がりながら、不可思議な力を使い、現していった巨石群。

この日ノ本の国では最大級のストーンサークルのあった地、戦後に渦巻くエネルギー(石)は分断され、撤去され公園に、、、

しかし、、、磐座がそのまま残る切り立った山を拝し、天空を見渡せるその地には、風からすべての情報を受け取り、場を守っているかのように馬たちの澄んだ瞳がすぐそばに。

てっちゃんと出会って数日だけれど、みなを氣づかい、明るい豪快なエネルギーで笑わせたりする中、見えない自然界のエネルギーと繋がるとたちまち目が変わります。

地球上のかなりの秘境、聖地、自然と交信し、その体験を通じての直感、彼が確信すること。

ストーンサークルのエネルギーの中心であった場より、氣の交流を太極拳と響きにて。

かつてストーンサークルのひとつであった石で、何故かそのまま残されている石には刻まれた十字の紋。そして、山の中の磐座へ。

我ら一団以外に他に人はどなたもおられず、海を越え旅する蝶々、アサギマダラと鳥たちの声に導かれるように、、、

かつてこの地にて女性シャーマンが天から海から情報を受け取り、地へ、人々へと結んでいた神事の磐座本殿。

うさとの天女の衣を纏われたやまだひろこ先生とフォトセッションをする野村哲也さんと共に、振動する磐座の上に三人。

見えないエネルギーをひとつひとつ、、、それぞれの特性、役割のままに今に現す祈りを、、、共に紡ぎ、見守り、愛の心で結界を張ってくださるおひとりおひとり。

風は止まり、雲は静かに、光と共に

全くの重力を感じず、瞬間瞬間が一枚一枚の絵の連続(アニメーションのように)であるかのように、時の感覚がゆっくりゆっくりと

僕が座り、イダキを吹かせていただく場には、小さなブラスティックの何かの欠片が、、、

刻まれた文字は ~OPEN~神々しい時をいただきました。

そして、てっちゃんが発見したこの磐座群の中心的なある場へ、、、なんとそこにも十字が刻まれた石が

龍体のような日出づる日ノ本の地に、東の果てを目指し、西の地より海の道 黒潮に乗りたどり着いた様々な人々。

長い長い旅の末、海から見えた山の中に御神鏡の如く光る磐に手を合わせ、それぞれの神に祈っていたかもしれません。

シュメール時代、、、

何代にも渡り、統べり結ば合わさった様々な地に生まれた地球人の心、魂

唐人とは異人、光り輝く神の居場所という意味があるそうです。駄場とは平たいという意味。ピラミッド式、絶対的な支配構造ではなく、、、輪を囲むように神(のちに神と呼ばれる存在)と人が共にあり、さらなる宇宙の神秘、おおいなるエネルギーと愛と繋がるような場が、ここであったように感じました。

遺跡などではなく、きちんとエネルギーは発動し、瑞々しく生き、音を発するいのちの磐座でありました。

今回ご一緒させていただいたおひとりおひとり、すべてのご縁のおかげさまで、また新たなる大切な体験をいただくことが出来ました。

嬉しい有り難いご縁 よく笑い、よく祈り 時に涙 美味しく、嬉しい時のひとつひとつ、、、深く感謝いたします。

すべてをまたこの今に!!!

みなさまありがとうございます。深謝 KNOB拝


https://www.histrip.jp/20200301-kochi-tosashimizu-2/ 【高知県足摺岬に佇む謎の巨大遺跡!唐人駄馬巨石群の歴史や成り立ちとは】より

高知県土佐清水市、足摺岬の山の中に不思議な巨石群が林立する「唐人駄場遺跡」。唐人とは異人、駄場とは平らな場所という意味を持ち、この周辺では縄文~弥生時代の石器や土器などが多数出土していることがわかっています。

今回は古代の巨石信仰をめぐる歴史旅をご紹介します!

謎のストーンサークル「唐人駄場巨石群」その歴史とは

縄文時代早期から弥生時代にかけての石器や土器片が数多く出土した遺跡、唐人駄馬巨石群。

土佐清水市街から足摺半島へ向かう「椿の道」の中間点付近を右折して約1キロメートル行った場所に位置します。

唐人石と呼ばれる高さ6~7メートルもある花こう岩が山中に点在し、古代ロマンあふれるパワースポットとして人気を集めています。

足場が組まれている所は登ることができますが、足元はすくみます!

巨石の上からの太平洋の眺めは素晴らしく、晴れている日にはオーストラリアが見えるとか見えないとか…

ちなみに、この遺跡からは縄文時代の石器、土器片が出土しているようです。

しかし、遺跡に無知であった人々がストーンサークル周辺を破壊して整地してしまったのだとか。

なぜこの森の中に、このような巨石群が存在するのでしょうか。自然現象か人工物か謎多き巨石群を散策してみます!

太古のパワーを感じながら唐人駄馬を散策!ストーンサークルやその魅力とは

早速実際に巡ってみました。車を停めた場所にある看板には順路が示されていました。

ゆっくり見て回って30分というところでしょうか。

こちらは唐人岩。

海を渡ってくる人たちの目印になったのだとか。唐人とは異人、光り輝く神の居場所という意味があります。

花崗岩の中に含まれる石英が太陽光によって反射し、海からでもこの場所がわかるといった研究もされているようです。

亀石。亀が首を上げたように見えると言われています

千畳敷石。案内板によると古代に巫女たちが神楽を舞った伝説から「神楽石」とも言われるそう。

自然による浸食とは思えないほど、鋭く切れた「鬼の包丁石」をはじめ、組成が異なる二つの岩が並ぶ「祭壇石」など、不思議な形や伝説が残る岩が次々と現れます。

巨岩の密集するパワースポット唐人駄馬に想いをはせる

足摺半島最古の人類の足跡を記したこの遺跡群はなんと縄文早期(7000年程前)の玦状耳飾(三角形に近い形の耳飾り)が出土したそうです。

さらに縄文前期(6000年程前)の擬似縄文土器片につづき、石斧、石錐、石鏃、スクレイパー(ヘラ状の器具)などが出土し、縄文早、前、中期また弥生の土器片、有史時代の須恵器片と併せて、原始、古代の人々が生活していた跡が残るそうです。

ちなみに縄文前期頃には、いまよりも15〜20mも海が高かったそうです。

この時代に狩りをして歩いた原始人の人々は、冬も暖かく、南向のなだらかな斜面陵丘の続くこの地に住居を定め、海辺に魚貝を獲り、山野に猟をしたのではないでしょうか。

足摺岬にある唐人駄馬遺跡群の歴史をご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

足摺岬には、空海が辿った足跡であるお遍路のお寺、第38番札所、金剛福寺や弘法大師(空海)七不思議などもあり、観光スポットや歴史旅スポットが盛りだくさん!

ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。

https://japanmystery.com/koti/asizuri.html 【足摺七不思議】より

【あしずりななふしぎ】

足摺岬は四国の南西端にある岬である。この奇妙な岬の名の由来についてはいくつかの説があるが、いずれもこの足摺の地にある四国八十八ヶ所霊場の第38番札所である金剛福寺に関係するものである。

最初にこの地に寺院を建立したのは弘法大師空海である。有縁の地を求めるため、空海が唐より帰朝する船から投げた五鈷杵(金剛杵)がこの地に飛来。それを探しに来た空海が、難路のために足を引きずって辿り着いたという。

時代を経て、金峯上人が金剛福寺の住職であった頃。修行の邪魔に来る天魔を呪法で封じたところ、天魔たちは大いに嘆き悲しみ、地団駄を踏んだ(足摺りをした)ことから“足摺”の名が起こったとも。さらには『とはずがたり』巻5第4話にある、補陀落渡海を弟子の小僧に先んじられてしまった法師(賀東上人)が地団駄を踏んで嘆いたという故事から来ているとも言われる。

この足摺岬は今や四国指折りの観光地であり、金剛福寺から足摺岬灯台までのエリアには遊歩道が整備されており、小一時間ほど散策できる。そのエリアにあるのが“足摺七不思議”と呼ばれる、奇妙な来歴を持つ自然物である。“七不思議”とされているが、実施にはそれよりもはるかに数は多く、全部で21箇所あると言われる。そしてそれらの多くは弘法大師ゆかりの伝説が残されている。

1,大師の爪書き石

弘法大師が大岩に爪で「南無阿弥陀仏」の名号を彫ったとされる。(中央右側、縦に白い模様のあるあたり)

2.大師一夜建立ならずの華表(とりい)

弘法大師が一夜で鳥居を造ろうとしたが、天邪鬼が鶏の鳴き真似をしたため、そのまま放置したものとされる。

3.不動岩と亀呼場

弘法大師が崖下にある不動岩に波切不動を彫り、海上安全を祈祷するため、亀を呼んで岩に渡った。今でも海に向かって亀を呼ぶと、弘法大師が呼んでいるものと思って浮かび上がってくる。

4.ゆるぎ石

弘法大師が金剛福寺建立の際に発見したとされる。親孝行者が揺らすと大石の上にある積み石が落ちるが、親不孝者が揺らしても落ちない。親の肩を揉むようにゆっくりと揺らすと大きく揺れるためであるとされる。

5,地獄の穴

この穴に銭を落とすと、しばらくチリンチリンと銭が落ちていく音がして、先祖の供養になるとされている。この穴は金剛福寺にまで通じていると言われたが、今では途中で塞がってしまっている。

6.不増不減の手水鉢

弟子の日円上人に先に補陀落渡海をされてしまった賀東上人が、この岩の上に身を投げ出して悲しみの涙を流した。その涙が不増不減の水となって残っていると言われる。

7.犬塚

生まれ変わって城の主となって世の平和をもたらすことを願った僧が、補陀洛渡海の際に右手に南無阿弥陀仏の文字を書いて出立。飼っていた犬は飼い主を待ち続け、この場で息絶えてしまった。

その後、土佐2代藩主・山内忠義の右手に墨痕のような痣があり、この故事を知った忠義は自らを僧の生まれ変わりと想い、金剛福寺再興をおこなっている。

8.亀石

亀の姿に似た岩。その首にあたる部分は、亀呼場の方角に向いている。男女が撫でると性が強くルとの俗信がある。

9.根(寝)笹

このあたりに生える笹は、これ以上の高さを越えて伸びないと言われている。

10.汐の干満手水鉢

潮の干満に合わせて、岩の窪みにある水の量が増減するとされる。

<用語解説>

『とはずがたり』

鎌倉時代後半期に書かれた、後深草院二条という女性によって書かれたとされる全5巻の日記・紀行文。前半は、宮中での男女間を中心とした日記、後半は尼となって全国を行脚する紀行文となっている。ただ後深草院二条という女性の実在に疑問が残るため、虚構の文学である可能性も高い。

補陀落渡海

南方海上にあるという観音浄土(補陀落)へ小舟に一人乗って旅立つ、一種の即身成仏の苦行。和歌山県の那智勝浦にある補陀落寺が有名であるが、金剛福寺も補陀落渡海信仰が長く続いた寺院である。

山内忠義

1592-1665。土佐藩2代藩主。山内一豊の甥にあたるが、養嗣子となり藩を継ぐ。野中兼山を起用して、藩政改革をおこなう。

その他の“七不思議”

上に挙げた10箇所以外にも、「竜の駒」「行の岩」「鐘の石」「阿字石」「亀呼石」「天灯松」「龍灯松」「龍の遊び場」「汐吹の穴」「午時の雨」「喰わずの芋」がある。