足摺岬古代文明考
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/yamataikokuco/shikokusetuco/tosakokuco.htm 【足摺岬古代文明考】より
「足摺岬縄文灯台騒動・最後のまとめ」を転載しておく。
足摺岬の縄文灯台説
四国地方・高知県の南端、足摺岬。そこには数多くの巨石による石組があり、その数二五〇余箇所にものぼるという。その多くは唐人駄場公園や白皇山に点在し、その他にも唐人岩と呼ばれるものなどがある。むろん、それらは人工のものではない。花崗岩の節理(温度変化により結晶の目にそって石に生じる割れ目)と風化の結果、形成された自然の奇景である。ところが最近、地元(土佐清水市)の要請により、これらの石組を太古の遺跡とする説が急速に浮上することになった。
マスコミにこの説が登場した皮切りは、『THIS IS 読売』一九九三年七月号に掲載された「足摺に古代大文明圏」である。執筆者は昭和薬科大学教授(当時)の古田武彦氏。その前説には次のようにある。「高知県足摺岬、そこに縄文時代から卑弥呼の時代へと続く古代大文明圏があった-。・・・学界で異端児扱いされる筆者が、再び挑んだのが足摺岬とその周辺に点在する古代遺跡と巨石群である。・・・筆者は確信をもって言う。“やはり、三国志魏志倭人伝の著者・陣寿の記述は正確そのものだった。博多を起点とすると、足摺岬周辺が倭人伝にいう侏儒国にあたる。そして、そこから東南へ船行一年、裸国・黒歯国(現在のエクアドル・ペルー)があったのだ”と。古代史の夢はまた大きく広がった」。
古田氏はまず、縄文人は山や巨石を信仰していたと主張し、また、弥生・古墳時代の銅鏡信仰について「“縄文以前”の鏡岩信仰を前提とし、背景としてこそ、“弥生以後”の銅鏡祭祀の盛行は理解できる。・・・“縄文以前”からの受け皿、すなわち“鏡岩信仰の時代”が歴史の大前提として存在していたことを示す。わたしにはそれ以外に考えようはなかった」という(「それ以外に考えようはない」というのは、読者の思考の一方向のみに誘導しようとする論法)。
そして、唐人岩の石組の中の一つが「鏡岩」と呼ばれたことを根拠に「わたしはこれが “縄文以前”の御神体であり、太陽信仰の聖地であったこと、この事実を疑うことはできなかった」とする。そしてさらに足摺岬は黒潮上の難所である以上、岬との衝突をさけるために「天然と人工の鏡岩」が必要だったとして、足摺岬の巨石群の人工説へと説き進んでいくのである(議論の飛躍)。
古田氏はその証拠として、足摺岬から縄文土器と石鏃が出土する事実を挙げ、「従来の考古学的見地では、右の事実から“縄文人が唐人駄場付近で狩猟をしていた”との認識を得るのにとどまったかもしれない。しかし、“無信仰の、神なき縄文人がただ狩猟にふける”-このようなイメージは、現代インテリの空想に過ぎない」という(縄文人が無信仰だったという考古学者は存在しない。実際には誰も唱えていない極端な説を設定して、それを否定し、読者の学界への偏見を煽る論法)。
そして、古田氏は足摺岬の巨石群に亀や蛇を模した造形があると主張し、さらに古田氏の独自の『三国志』倭人伝解釈で足摺岬周辺が「人長三・四尺」という侏儒国であることを考証する(自らの主観を土台として全ての体系を造る空中楼閣のような論法)。
古田氏は足摺岬には「三列の巨石」がしばしば見られるとして、それは「天「と「海」と「血」の三要素を表すとし、これは「古代人の宇宙観の表現」で「もちろん、それぞれ “神名”で呼ばれていただろう」という。そして、それに比べて、中国伝来の引用思想はいかにも「人工のイデオロギー」にすぎないと説き及ぶ(これについては別に後述)。
古田氏はこの一大遺跡について、「先ず調査と保存を切望したい」として、この論文の筆を置いた。
古田氏は同年十一月三日、鏡岩が縄文時代の灯台だったことの証明と称する実験を行った。それは古田氏が鏡岩があったと推定する所の岩に銀紙を張り、それが近くの展望台や唐人駄場公園の位置から見えるかどうか確認するものである。
古田氏は著書『古代史をゆるがす・真実への七つの鍵』(原書房、一九九三年)において、この「実験」の結果、「唐人岩と大岩の銀紙が輝いていたこと」を発表した。
『THIS IS 読売』の論文は推定を重ねたあげくに突然、結論を出し、「それ以外に考えようはなかった」などのレトリックで言い抜けるという論法が目立つ。
なお、学研のオカルト雑誌『ムー』一九九四年十一月号は佐敷二郎名義の記事、「四国足摺岬に謎の巨石遺構=メガリスを発見!!」を掲載、古田氏の「実験」について報じている。その記事の内容は古田氏の主張を全面的に肯定するものだが、古田氏のいう鏡岩について、「現在、その表面はくすんでいるが、磨けば光るのではないかという」程度のものにすぎないこと、古田氏が鏡岩に銀紙を張る前に「最初、実験は失敗した。くすんだ岩が光るはずもないからである」という段階があったことを報じており、注目される(『古代史をゆるがす・真実への七つの鍵』にはこの段階のことは記されていない)。
古田氏は鏡岩がかつて磨かれていたことを前提にして、縄文灯台説を唱えているのだが、本当にそれは磨かれていたことがあるのだろうか?
そもそも、縄文時代に銀紙があろうはずはないし、たとえ鏡岩が銀紙同様の光沢を持っていたとしても、それが輝いて見えるのは灯台の必要がない晴天の日中のはずである。どうしてこの実験が縄文灯台説の証明になるというのだろう。
しかし、 土佐清水市教育委員会では、その成果(?)を歓迎し、大規模な遺跡として確定できれば、観光資源化にもなる」として、その調査に百五十万円の援助を予算化、古田氏に報告書作成を依頼した。
また、九四年六月には、光文社カッパ・ノベルズの一冊として、古田氏の縄文灯台説を小道具に用いた推理小説『「古代四国王朝の謎」殺人事件』(吉岡道夫)が刊行されているが、あまり話題にはならなかったようである。
縄文灯台説への批判
縄文灯台説に対する批判の筆頭となったのは、陸奥文化史研究家「ご神体と縄文灯台」(『季刊邪馬台国』五四号、一九九四年八月)である。藤村氏は次の論拠を挙げて縄文灯台説を否定した。
1 巨石信仰の存在が確認されるのは古墳時代以降であり、古田氏はその定説を充分に批判していない。これは「史学上の慎重どころか、学問以前の問題である」
2 灯台が必要とされるのは大型船が暗礁にのりあげるのを防ぐためである。縄文の丸木舟には灯台は必要ない。一大航海民族のポリネシア人にも灯台を造る慣習はない。
3 巨石を河口するためには多くの人口とそれを維持する食糧が必要だが、縄文時代の足摺でそれだけのものが確保できたか、古田氏は調査していない。
4 足摺のものと同様の巨石は東北地方など各地で見られるが、それらはすべて自然の造形美である。巨石の向きをそろえたように見えるのも節理の結果にすぎない。
以上、藤村氏の指摘は理路整然としており、古田氏の『THIS IS 読売』の論文 のようなレトリックによるごまかしはない。それに対し、古田氏はプロパガンダ紙で次のように応えた。
「犯罪グループに近い人々が『季刊邪馬台国』でいろいろな嘘やデマをでっち上げて足摺プロジェクトを攻撃している。真実は強いし、必ず勝つ」(『TOKYO古田会NEWS』平成六年十一月号)
議論の相手を犯罪者よばわりし、精神論的な必勝宣言をもって反論に代える。もはや古田氏には建設的な議論を行おうという意欲は失われていた。
「笠石」は遺跡か
さて、千葉県・房総丘陵の中央部、君津市の山中に、「笠石」と呼ばれる奇景がある。
台となる巨大な岩の上に二メートルほどの巨石の板が乗り、微妙なバランスを保っているもので、節理と風化、そして畏るべき偶然が生み出した自然の芸術である。
かつて、この笠石が人工の巨石記念物ではないか、というので話題になったことがある(有賀訓「房総丘陵で<超古代石造遺跡>を発見!」『WEEKLYプレイボーイ』一九九四年五月十・十七合併号、所収)。その際、古田氏は足摺岬の巨石と関連付けて、その人工説を支持した。
その記事を書いた有賀訓氏は、まず、地質学者・生越忠氏から、「(房総半島南部が百万年前、海底から隆起して後、その地層が)長年の風化浸食作用を経れば、中間の柔らかい板状地層が消失して笠石のような奇岩怪石が造られる可能性があります」というコメントを得、その自然形成説を「見事なまでに理路整然とした解説だ」としながら、「自然科学に加えて、人文科学面からも笠石の謎解きを進めてみる必要がある」として、さらに「古代史学研究の大家・古田武彦教授」のコメントを求めるのである。
有賀氏は古田のことを次のように読者に紹介する。
「現在、古田教授が取り組んでいるのは四国・足摺岬に残された巨石遺跡の研究調査。具体的には、縄文期の太平洋沿岸域に展開された巨石遺跡が古代人の沿岸航海の際に灯台の役割を果たしていたのでは?という仮説を提起して大反響を呼んでいる」
そして、有賀氏は古田氏から次の二つのコメントを得たという。
「あらかじめお断りしておきますが、私自身の目で確認してみなければ正式な学術的意見は申し上げられません。その上で個人的感想を述べれば、これ(笠石の写真)にはなんらかの人の手が加えられているように思えます」
「足摺岬では周辺から多くの石器や土器が出土したことが遺跡であることの証明となりました。笠石の場合も、単体としてではなく周辺の埋蔵物などを調査検討してみる必要があるでしょう」
なお、有賀氏によると地元・君津市に次のような伝説があるという。すなわち、かつて笠石が村人によって台から落とされた時、長老たちは災いを招かねばよいが、と恐れた。
ところがその晩、鬼または天狗が現れて一夜のうちに復元した。
有賀氏はこの伝説から二つのメッセージをよみとろうとする。
「まず、笠石は人間以外の何者かによって造られたということ。そして、みだりに動かしてはならないということ」
しかし、伝説では、落とされた岩は復元しており、そこから動かしてはならない、というメッセージを直接読み取ることはできない。また、伝説では笠石はあくまで復元されたのであり、鬼や天狗に造られたわけではない。そもそも鬼や天狗を持ち出すということ自体、この奇景が人工のものとは思われていなかった証拠ではないか。復元にさえ「人間以外の何者か」の手を煩わせなければならないほど人知を超えたもの、それはすなわち自然の神秘である。
有賀氏は「房総『笠石遺跡』の秘密がついに解けた!」(『WEEKLYプレイボーイ』一九九四年十月二五日号、所収)において、ふたたび笠石のことを取り上げる。その中ではまで前回での生越氏と古田氏のコメントをそれぞれ要約し、「つまり、自然科学者と人文科学者の見解が分かれてしまったのだ」とし、人工説の方向でレポートをまとめたい、との立場を表明する。
そして、前回収録できなかった古田氏の次のコメントを紹介するのである。
「金属器のなかった縄文時代には伊豆七島で採れる黒燿石が貴重な石器材料として黒潮を舞台に流通していました。太平洋沿岸域に残された巨石遺跡は、そうした古代航海のための目印ではないかと思われます。また、当時の航海者たちはよほど亀を崇拝していたらしく、古代の灯台ともいえる巨石遺跡には亀を形どったものがあります」
有賀氏は笠石もまた「亀をモデルにした石造物」であるとして、「古代に“亀族”とも呼ぶべき人々が海から内陸へ進出した際、笠石を始めとする巨石遺跡を残した」という仮説を提示する。そして、その「亀族」を、神代の昔、斎部族が四国から房総に移住したという『古語拾遺』の記事と関連付けるのである。
さて、古田氏が主張するように巨石付近での石器や土器の出土が、即、人工説の証拠になるか、といえば疑わしい。その論法でいけば、ビルの近くから縄文土器が出土すれば、そのビルは縄文時代から建っていたということになるだろう。
建築というのは常に安定と堅牢を目指すものである。笠石の異様さはその不安定な形からもたらされるものであり、人工の建築というより、自然のイタズラと見る方が説明しやすい。奇妙な形のものを見れば、すぐに人工と思うのは、自然の造形力をバカにした態度である。
イギリスのダートムーア地方やフランスのブルターニュ地方では、笠石に劣らない奇岩怪石の数々が見られるが、そのほとんどは自然の産物である(イギリスではこの種の奇岩を“tor”トアという)。この両地方には、先史時代の遺跡も多く、巨石記念物を残されているが、それと自然の造形では一目瞭然、異なっている。むしろ人工の巨石があることで自然の岩の奇怪さがきわだってみえることだ。そうした情景を目の当たりにした経験のある者としては、笠石もまた自然の造形という方が納得できるのである。
有賀氏は古田氏を「古代史学研究の大家」「人文科学者」としてその意見を尊重するが、古田氏の専攻は思想史であり、特に地質学について研究したことはない。
また、古田氏には考古学関係の著書もあるが、実際の発掘経験はない。専門の地質学者に比べれば、その石に関する発言はシロウトの思いつきを出ないものである。
なるほど、たしかにアマチュアがプロの気付かないような視点から真実にたどりつくこともあるだろう。一介の官吏にすぎないアインシュタインがその後の物理学を書き変えた例もある。しかし、アマチュアの意見が「真実」と認められるには、プロを納得させるだけの論理性とデータを要求される。アインシュタインはそれをクリアしたからこそ相対性理論が広く認められることになったのだ。
現在の古田氏には逆に、実際にはシロウトであるはずの問題についても大学教授という肩書の「権威」で、自説を押し通そうとする傾向がある。現在の古田氏には、アマチュアとしての謙虚さ、真摯な態度は求めようがない。
潜在するアラハバキ信仰
ところで、先述の通り、古田氏は足摺岬の巨石群の「三列の巨石」に注目し、それが天・海・地という三要素を表現すると唱えている。
しかし、客観的に見れば、「三列の巨石」なるものはただ岩が三つ並んでいるだけのことである。というより、大きな岩が二箇所で割れただけのものとみなした方が妥当だろう。たとえ、三という数字に意味があるとしても、それが天・海・地を意味するとは限らないし、縄文人がその岩を祀ったという証拠もない。いったい、この天・海・地というのはどこから出てきたのだろう。
その謎を説く鍵は、『東日流外三郡誌』をはじめとする和田家文書にある。それは現代人の偽作であることが明白であるにも関わらず、古田氏はあくまで真正の古写本と言い張っている文献である(拙著『幻想の津軽王国』批評社、参照)。
その和田家文書は古代津軽の主神・荒覇吐神が天神・地神・水神の複合神であることを繰り返し述べているのである(「アラハバキ」という神格は日本各地の多くの神社で祀られており、謎めいた神格には違いないが、津軽で特に濃密な分布を示すような事実はない)。古田氏がそれに気付いていないとすれば、和田家文書を「学問的」に研究したという古田氏の主張そのものが怪しくなるだろう。なるほど、古田氏が『THIS IS 読売』の論文において、三列の巨石に「神名」があったはずだというのはもっともだ。
藤村明雄氏も前掲「ご神体と縄文灯台」で「古田氏は“三列の巨石群”に荒覇吐神を見ていたのである」と喝破している。
古田氏は『古代史をゆるがす-真実への7つの鍵』で次のように述べる。
「足摺岬の岩頭で、私は明確に知った。自然は三分法であることを。天と地と海、これだ。これが大自然のすべてなのである。・・・三列柱をもって、巨岩を構成した。あるいは天然の三列岩を畏れた。それが、黒潮にのぞむ海浜・山麓に、点々とその様態の大巨石の点在する理由だった。・・・津軽の産んだ天才的学者、秋田孝季の記録を伝承した和田家文書のなかにも、アイヌ族の原初神として、やはり“三神”(イシカ〔天〕・ホノリ〔地〕・ガコ〔水〕)が根本であったことが明白に記されている。あらためて深く脱帽せざるを得ない」
和田家文書にヒントを得た思いつきから「大自然のすべて」をおごそかに説き、さらに同じような認識が和田家文書の中にある(当たり前だ!)のを発見して、その作者に仮託された架空の人物にすぎない秋田孝季を讃える。この思考回路に、自らの尾を呑み続ける蛇のような不気味さを感じるのは私だけだろうか。どうやら古田氏は「天才的学者」と同じ認識にいたった自分も天才だ、と主張したいらしい。
大杉博氏の反論
大杉博氏は邪馬台国が四国中央の山岳地帯にあったと唱え、多くの研究者に一方的な論戦を仕掛けている人物だが、その大杉氏が『THIS IS 読売』の古田論文を次のように批判している。
「古田氏は、このような巨石遺跡が四国全体の山上に点在していることをご存じないようである。巨石遺跡だけではない。四国の山上には巨大な溜め池も無数に造られている。また、山並みの頂上部には全部、古代の幹線道路が残っている。ところで、“侏儒国”とは “人長三四尺”の“小人の国”という意味であるが、そのような小人たちが、このような大遺跡(大土木工事)を造ったと古田氏は本当に思っているのであろうか?実は、これこそ邪馬台国と投馬国の大遺跡なのである。このような大土木工事は現代人でも簡単に造れるものではなく、まして小人たちに造れる大遺跡では断じてない。古田氏は何故そのような不自然なことを主張するのか?古田氏の今回の発表は、自ら墓穴を掘ったようなのである」(大杉『邪馬台国の結論は四国山上説だ』たま出版、一九九三年)
大杉氏の批判はある面で的を得ている。大杉氏のいうように、巨石群が四国各地にあるとすれば、足摺岬だけを特別視する根拠はない。古田氏はたまたま自分が関わったという理由だけで足摺岬を課題評価しているのではないだろうか。
有賀訓氏も前掲「房総『笠石遺跡』の秘密がついに解けた!」で、徳島県の剣山周辺を見て回った際、足摺岬と同様、「亀をモデルにした巨石」を数多く確認できたという。
有賀氏はこれを房総半島の笠石と共に「亀族」の巨石遺跡とみなしているが、その肝心の笠石が自然の造形に他ならないのは先述した通りである。
大杉氏の指摘でもう一つ重要なことは、巨石と侏儒国は直接には結びつかないということだ。『三国志』倭人伝にはどこにも侏儒国に巨石があるなどとは記されていない。この国の特徴として記されるのは、住人の小ささだけであり、それは侏儒国という国名と対応している。したがって、巨石の存在をもって侏儒国の証拠とする古田説は、最初からその根拠が怪しかったといわざるをえない。
とはいえ、他者に厳しい者の自説がしっかりしているとは限らない。経験的にはむしろその逆のことが多いくらいである。
その例にもれず、大杉氏の「邪馬台国と投馬国の大遺跡」という説も明確な根拠があるわけではない。
足摺岬と同様の巨石が、四国の広範囲にあるとすれば、それはむしろ自然形成説にこそ有利だろう。安本美典氏は大杉氏が四国山中の溜め池の存在を邪馬台国四国山上説の根拠としながら、それが弥生時代からのものであるという証拠を示そうとしないことを指摘している(安本『虚妄の九州王朝』梓書院、一九九五年)。
大杉氏のいう「巨石遺跡」についても、その人工説の根拠はまったく示されていないのである。
オカルトへの逃避
藤村明雄氏は前掲「ご神体と縄文灯台」において次の警告を発している。
「巨石で町起こしをするのはいいが、学問上確立されていない怪しげな説を表面に出して、さも学問であるかのように装い、科学的検査という名のもとに、杜撰な方法で結論を出す。そのうえ公費でもある多額の調査費用を浪費してはいないだろうか」
藤村氏はこのように述べ、「あまりにも安易な、教育委員会の学問に対する無防備さ」を指弾した。
高知県内の他の教育・学術機関も土佐清水市の動向を無視していたわけではない。県立埋蔵文化財センター主任調査員の前田光雄氏は語る。
「“縄文灯台”とされる花崗岩の巨岩は自然の営為でできた足摺岬一帯で通常に見られる奇岩と考えられます。・・・余りにも考古学的な方法論からすれば“縄文灯台”はなかったと言わざるをえません。縄文のフェロモンに惹きつけられたのでしょうか、“有名な” 教授でも専門外のこととなると、幼稚な過ちを興すことはありがちなことです。・・・『東日流外三郡誌』偽書問題で、つとに“有名な”某教授は、余りにも浪漫的な方法論で“ 縄文灯台”に取り組むのでしょうか」(平成八年七月二九日付『高知新聞』)
この前田氏の意見は決して無責任なものではなく、独自の調査を行った上での結論として受け止められるべきものである。しかし、他の教育・学術機関に土佐清水市教委の暴走を止めるだけの権限はない。
斎藤隆一氏は次のように指摘する。
「かつて古代史界に新風を吹き込んだ古田氏が、晩年『東日流誌』を支持し、足摺岬の巨石文化を論じ、厳密な実証主義理念を見失っている。しかも、現在なお最近の著作で『東日流誌』を支持する、オカルトSF超古代史家の佐治芳彦氏、高橋良典氏、鈴木旭氏らと同レベルの世界へ迷走し始めたことは、古田氏の学問のスタンスが、もともと不安定だったことに起因する。それは“信じることから始まる”という法律的、宗教的色彩の濃い思想が根底にあるのは、古田氏が親鸞の研究で成功した研究家であり、法律にも詳しいことと無関係ではない。古代史に限らず、学問とは“疑い”の中から発展するもの。その轍を逸れた研究家の行く先は、学問とは無関係の、信仰や神秘指向のSFオカルト的世界しかない」(斎藤「みちのくを揺るがす『東日流外三郡誌』騒動」、ジャパンミックス編・刊『歴史を変えた偽書』一九九六年、所収。文中『東日流誌』とは和田家文書のこと)
古田氏は九六年七月刊の『新古代学』第2集(新泉社)で、和田家文書の中から三内丸山の巨大木造建築が描かれた絵図が出てきた、などと言い出した。
三内丸山遺跡の巨大柱穴発見は九四年七月だから、それから丸二年、ジャンケンでいえば後出しもいいところである。
藤村明雄氏はそのことも踏まえて次のように述べている。
「古田武彦氏の最新刊『海の古代史』(一九九六年 原書房刊)という講演録が、オカルト雑誌『ムー』(一九九六年十二月号 学研)の書評で絶賛されている。副題は“黒潮と魏志倭人伝の真実”というものだが、九州の縄文人が、足摺岬の巨石の灯台を頼りに黒潮に乗り、中南米沿岸に至り、それが『魏志倭人伝』に記されていたという。これまた『和田家文書』に三内丸山遺跡が書かれているパターンと通じる。まさに『ムー』的荒唐無稽な“真実”が、オカルトファンには受けるのだろう。古田武彦氏のイデオロギーは、古代史路線を踏み外し、ますますボーダーレスとなり、ついにオカルト界で注目されるに至ったようである」(藤村「偽史と宗教と三内丸山遺跡」『季刊邪馬台国』六一号、一九九七年二月、所収)。
一九九六年八月発行の『別冊歴史読本63 謎の巨石文明と古代日本』(新人物往来社)は足摺巨石文化研究会副会長・宮崎茂氏による「よみがえる足摺半島の巨石文化」を掲載、その論文には足摺岬には巨石群だけでなく、ピラミッドやシュメール文字のペトログラフまでがあるとされており、地元の関心がオカルト雑誌の世界に接近していることを示すことになった。
なお、この論文には、「学問的な踏査は、古田武彦氏(前昭和薬科大学教授)に教育委員会が委託し、本年度は報告書が提出されることになっている」という一節があり、報告書の発表が近いことを予告する役割も果たしている。
そして、一九九七年五月頃、ついに『足摺岬周辺の巨石遺構-唐人岩・唐人駄場・佐田山を中心とする実験・調査・報告書-』が土佐清水市教育委員会から発行される(以下、「足摺報告」と略称)。
「足摺報告」発行を報じた読売新聞(平成九年五月二日付・高知版)の記事では、現地の足摺巨石文化研究界会長・畑山昌弘氏が「観光などにも活用できる」とコメントしている。教育委員会は先述の通り、この報告書のための調査費援助を予算化している。報告書はそうした地元の期待に応える性格のものであり、特に古田氏執筆の箇所は、詭弁を用いてでも巨石群を遺跡にせずにはおくものか、という気迫に満ちている。
ところが、この報告書こそ、結果として、古田氏のいう「足摺プロジェクト」の抱えるいくつもの矛盾を露呈したものになってしまったのである。
地質学的調査の結果
「足摺報告」は唐人岩の「古代灯台」実験を中心とする第一章、足摺山奥の院・白皇山(佐田山)の巨石群の調査報告よりなる第二章、国学院大学日本文化研究所教授の椙山林継氏、スミソニアン博物館のベティ・メガース、そして古田氏の論文を収めた第三章、古田氏が第一章・第二章で出した結論の英文要旨を収める第四章よりなる。
「足摺報告」の口絵には、巨石の他に、現地の地表採集による土器・石器の写真が収められているが、本文には考古学的業績となるような発掘記録はない(したがって「足摺報告」は考古学者にとって評価のしようがなく、報告書の体裁をなしていないと見ることさえできる)。
第一章の実験なるものが無意味なことはすでに述べた通りである。第二章には、城西大学理学部教授・加賀美英雄氏と高知大学理学部教授・満塩大洸氏による「足摺岬花崗岩類よりなる巨石群の観察」が収められている。
その結論は巨石群はことごとく自然の風化や地震の倒壊によって形成されたものとするものであり、ただ、自然の巨石が岩陰祭祀に使われた可能性があること、堂ケ森巨石群といわれるものの一部に特異な鉢の巣構造(直径五センチほど)や円形剥離があり、人工的な細工の可能性があることを指摘するにとどまっている。
ところが古田氏は第二章の「最終総括」において、巨石群を「大自然の力による原石をもとにして、後に人工的にプラス・アルファされたもの」だと断定し、縄文期の遺跡であると主張するのである。
加賀美・満塩両氏による報告では、白皇山西尾根の三つ並んだ巨石について「三石の一つは根付きの石である可能性があると判断した」とある。
これは慎重な言い回しだが、その三石が根付きの巨石の割れたもの、すなわち自然の産物と述べているに等しい文だろう。
だが、古田氏はその報告に基づきつつ、「佐田山Bサイドの三列石の中の二石は自然の節理に合致せず、後に(地質形成期以後)、他の力(人工)によって付加されたものであることが判明した」と主張する。
三つの石の一つが根付きであるということは、必ずしも他の二つが人の手で運ばれたことを意味するわけではない。これは当たり前のことだが、古田氏は自説に不利な報告書の文脈を捩じ曲げ、自説が地質学的にも証明されたように言い張るわけである。
第四章の英文要旨には、この古田氏の「最終総括」の内容しか収められていないわけだから、英文に頼る海外の学者が「足摺報告」を手にしたとしても、加賀美・満塩両氏による報告の本当の内容を知らないままになる、ということさえ起こりうる。
また、第三章の椙山氏の論文は次のように述べる。
「古墳時代、弥生時代にも巨石信仰は見られるが、その場合、殆んど山麓地帯であり、山中への踏み込みはないと言える。このことは山中からの遺物の発見されることのないことからの思考ではあるが、現在までの学問上、妥当な考えとせざるを得ない。同様に縄文時代の人々も山中での石に対して、信仰がなかったとは言えないが、これを証する資料も今日発見されていない。この白皇山周辺においても遺物等を検出することは困難であろう。
なお、一部の石群を人工によるものとの見方もあるが、私見では自然のなせる神秘的な力によるものと見たい」
つまり、椙山氏は巨石の人工説どころか、縄文時代、信仰の対象となっていたということにさえ批判的、懐疑的なのである。
椙山氏は、この論文を「金剛福寺南方、岬の尖端部のように巨石の信仰が観光的にも利用されていることからして、広い範囲の岩石を、同様に活用することは十分可能であろう。この際、あえて人造人工等拘泥する必要はないと思う」と締め括っているが、これは言い換えれば、人工説にこだわらなくとも巨石を観光に利用できるということだ。
椙山氏は自らを、「足摺報告」編集を担当した古田氏とは、一線を画する立場に置かれている。
地磁気調査の結果は何処に
さて、前掲の宮崎氏の論文は「足摺報告」以前の調査結果をまとめたものであり、それを見れば、古田氏がそれまで蓄積したデータの内、何をその報告書から省いたのか、あるいは何が使えなかったのか、推定することができる。
その中で興味深いのは、神戸大学教授の井口博夫氏と、姫路工業大学教授の森永速男氏による古地磁気調査のことである。花崗岩は形成される時、自然と磁化されるがその方向は地球磁気の向きによって決まる。したがって花崗岩の残留磁気の方向を探れば、その岩が形成後に動かされたかどうか、理屈の上では推定できるはずだ。井口・森永両氏はその仮説に基づき、唐人駄場、唐人石などの磁性を調べたという。
宮崎氏は前掲論文を執筆する時点で、井口・森永両氏の報告書をすでに手にしており、それに基づいて、ほとんどの巨石は移動や回転を伴って現在位置にあること、唐人石の下部については移動や回転の痕跡はないこと、唐人石の一部の石についてはかなり顕著な移動や回転を考えなくては残留磁化方向が説明できないことを指摘、「以上のように古磁気調査の結果は、足摺岬北帯の巨石群の風化浸食の課程で取り残された残留地形でないことを示している」とする。
ところが「足摺報告」の第二証「最終総括」において、古田氏は追補に「足摺岬巨石群に対する“古地磁気”測定による、自然科学的調査が進行中である(井口博夫<神戸大学>森永速男<姫路工業大学>助教授による)」と触れるのみで、九六年八月より前に出来ていたはずの報告書について、一切語らない。
実際には、花崗岩が動いていることは必ずしも人の手が加わっていることを意味するとは限らない。花崗岩を含む地層が風化浸食を受ける際、取り残された岩は必ずしも安定した形をとるわけではなく、不安定な塔状をなすことがある。房総半島の笠石の形成と同じ現象である。そして、その塔が崩れた時、その磁性が形成された時と異なる方向を示すのは当たり前だろう。唐人石の巨石の散乱ぶりは大きな塔の倒壊を思わせるものだ。そして、その倒壊を認めれば、唐人石の下部に移動をこうむらなかったこと、一部の石に顕著な移動・回転の跡が見られることは説明できるのである。
宮崎氏も前掲の論文において、唐人石の人工的な構築を主張しながら、巨石が「移動回転を起した作用については地震などの自然現象の可能性もある・・・古地磁気調査の結果だけから、そのどちらが正しいか、もしくは他にどのような可能性があるかを述べることはできない」と認めている。
もっとも、古田氏が井口・森永両氏の報告書について沈黙していたことに深い理由はないのかも知れない。
それはただ単に、後述する奥付のトリックを成り立たせるために過ぎなかったとも考えられるからである。しかし、次に述べる古田氏のもう一つの沈黙については、はるかに深刻な問題がある。
渡辺豊和氏からのアイデア盗用疑惑
古田氏が足摺岬の巨石のことを知ったのは、一九九三年一月のことである。古田氏がこの巨石に介入する以前、その調査の中心人物となっていたのは京都造形大学教授で建築家の渡辺豊和氏であった。渡辺氏は一九九一年四月発行の著書『発光するアトランティス』(人文書院)において、すでに足摺岬のことを取り上げている。
それによると、農業が主産業となる前(縄文時代、あるいはそれ以前)、足摺岬と室戸岬を結ぶ古代航路があり、その痕跡が空海による四国八十八ケ所の配置や補陀落渡海の風習に残されていたという。
渡辺氏は一九八一年、大阪の心斎橋ソニービルで開催された展示会「三輪王宮展」で古代都市の復元モデルを発表し、古代光通信の可能性を示唆した。八〇年代には『大和に眠る太陽の都』(学芸出版社)、『縄文夢通信』(徳間書店)などの著書で古代光通信の仮説を発展させている。
この足摺岬を古代航路の拠点とする説と、古代光通信説とが、共に縄文灯台説に通じるのは一目瞭然だろう。前掲の宮崎茂氏の論文を見ても縄文灯台説が渡辺氏の発案になることがうかがえる。
「渡辺豊和氏は、奈良の三輪山を基点とする太陽のネットワークを作成して、縄文人の夢通信から彼等の世界観にせまろうとしている。・・・彼の夢通信を念頭に唐人石の磐座に立てば、夢はますますふくらんでくる。彼は続ける。縄文灯台もしかり、縄文神殿(一万年の歴史をもつ縄文の石造建築。未発見)ではなかろうかと、建築家らしき発想をもっている。縄文神殿、遺跡の規模から考えても夢通信の壮大な基地ではなかったか、また全体の配石から考察して唐人石は光の集積増幅回路として機能させたのではないかと語る。・・・更に渡辺教授は、この巨石神殿をコンピューターグラフィックで復元しようとしている」(前掲、宮崎論文)
また、古田氏の著書『海の古代史』には、渡辺氏の「足摺巨石の宇宙と光通信」という一文が収録されており、その中に次の一節がある。
「かつて縄文時代には、日本列島全土に奈良県中部の三輪山を中心とする光通信ネットワークがはりめぐらされてきたと、私は考えます。・・・この足摺岬にも光通信の交点が一〇個あります。・・・唐人岩は、その最大の機能は光通信基地であり、その神殿であろうと思います。これが灯台の役割をはたした可能性も非常に高いと考えられます」
ここでは、渡辺氏自身、縄文灯台説なるものが、渡辺氏の縄文光通信ネットワークのアイデアを矮小化したにすぎないことを暗に指摘しているとみてよかろう。
ちなみに、この一文はもともと、平成七年十月二九日、土佐清水私立市民文化会館で開催されたシンポジウム「足摺巨石文化と縄文の国際交流」に渡辺氏が寄せたもののようだが、それがなぜ同シンポジウムの報告ではない古田氏の著書に収録されたのか、その理由は同書では説明されていない。
自著に渡辺氏の文章を紛れ込ませているくらいだから、古田氏も渡辺氏の先行研究を知らなかったわけではない。現に『THIS IS 読売』では「当遺跡の先行研究者として渡辺豊和氏がある」、『古代史をゆるがす』に「シンポジウムがありまして、京都造形美術大学の渡辺豊和教授という方がお出でになったそうで、その際、来ないかというお話があったのですが・・・」なととして、その名に言及している(「京都造形美術大学」は「京都芸術大学」の誤り)。
だが、古田氏はその名に触れはするが、渡辺氏の研究内容には全く言及しない。そして、古田氏自身は渡辺氏の縄文光通信ネットワークのアイデアを矮小化した縄文灯台説を、自説としてマスコミに流布しようとしている。
そして、問題の「足摺報告」では、渡辺氏の名にさえ言及する箇所はない。これでは失礼ながら、古田氏は渡辺氏の研究を盗んだ上、足摺プロジェクトからその業績を抹殺しようと見られても仕方ないのではないか。
かつて古田氏は推理作家・高木彬光氏の『邪馬台国の秘密』について、その結論が異なっているにも関わらず、自著『「邪馬台国」はなかった』の盗作だと執拗に攻撃し続けたことがある(古田氏は邪馬壹国博多湾岸説、高木氏は邪馬臺国宇佐説)。
その際、古田氏は高木氏に対し「氏がみずからすくわれる道は一つしかない。率直な謝意の表明とそれにともなう行為の簡単な実行だけである」と述べた(『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、一九七五年)。
渡辺氏は古田氏よりもはるかに紳士であるから、自ら盗作だなどと騒ぎたてることはない。しかし、古田氏が渡辺氏に対して「率直な謝意の表明とそれにともなう行為の簡単な実行」を示すことなく、足摺プロジェクトなるものを我が物にしようとするなら、その報いは古田氏自身がこうむらなければならないだろう。
「足摺報告」奥付のトリック
さて、「足摺報告」の奥付には「1996年3月31日」の日付があり、「昭和薬科大学文化史研究室」の編集である旨、明記されている。
ところがここにそれとは明白に矛盾する史料がある。それは「tokyo古田会news」第五二号(一九九六年九月発行)に掲載された古田武彦「お迎えする言葉」という文章である。
「この二ケ月強、全く“休む”ひまのない、超多忙の日々でした。といいますのも、この三年半、手がけてきた、高知県の足摺岬周辺の巨石遺構にたいする調査研究、その報告書の仕上げの時期に当たっていたからです。・・・それは、二日前、九月二日まで続いたのです」
つまり、奥付の日付を認めれば、九六年九月二日に編集を終えた報告書がその年の三月にすでに出ていたことになる。実際に「足摺報告」が世に出たのは九七年五月だから、奥付の日付が一年以上も早められていることは明らかである。
なぜ、このような奇妙なことになったのか。実は「足摺報告」を編集したとされる昭和薬科大学文化史研究室は九六年三月、古田氏の同大学退職とともに廃止されている。
つまり、「足摺報告」は実際には古田氏個人によって編集されたにも関わらず、編集責任を負うべき主体の名をいつわって刊行されたことになる。古田氏はこのゴマカシの辻褄を合わせるために、日付をも偽らなければならなくなったのである。
かつて古田氏は「偽書」という語を次ぎのように定義した。
「当人がみずから偽りと知りつつ、それを他に真実と信じしめる行為としての造文・成書」(『九州王朝の歴史学』駸々堂、一九九一年)。
この「偽書」の定義についての批判は拙著『幻想の津軽王国』に譲るとして、「足摺報告」の奥付は古田氏自身、その日付、編集主体についての記述が偽りと知りつつ、他に真実と信じしめるように作成したものである。
すなわち、古田氏自身の定義によれば、「足摺報告」は偽書に他ならないということになる、といえば皮肉がすぎるであろうか。
とはいえ、「足摺報告」の作成が土佐清水市教育委員会の依頼によりなされた以上、奥付にこのような細工をするのもやむをえなかったのかも知れない。市教委としては、報告書の作成を古田氏個人にではなく、大学研究室という機関に委ねたという建前をくずせなかったとも考えられるからである。
前述のように「足摺報告」作成には公金も支出されており、個人よりも機関の方が責任も権威もあるという官僚的発想に古田氏もまた拘束されていたのであろう(結果として、すでに廃止された機関が編集責任を負うという、より大きな無責任がまかりとおることになったわけだが)。
市教委が、大学教授という肩書や大学研究室という名にこだわらず、古田氏個人に依頼したという形式をとっていれば、奥付の不体裁は生じなかったかも知れない。とすれば、古田氏もまた状況の犠牲者ということはできるだろう。
しかし、いかなる事情であれ、奥付に虚偽を記載した最終的責任が、実質上の編集者である古田氏に帰するであろうことは言うまでもない。
足摺プロジェクトの終焉
さて、偽書?「足摺報告」が出て以降、足摺プロジェクトは停滞に陥ってしまった。あたかも「足摺報告」を出すこと自体が足摺プロジェクトの目的だったかのようである。
今後も、足摺岬の縄文灯台説は、ネタの切れたオカルト雑誌やテレビのバラエティ番組などで思い出したように取り上げられるかもしれない。しかし、そこから大きく進展する可能性はまずない。
古田氏は渡辺氏がかつて足摺岬に関して積み重ねてきた成果をくすねるようにして、地元自治体に介入し、足摺岬の巨石研究(人工説の立場からのもの)の窓口を独占した。
そして、その後、プロジェクトの主体となって活動していた古田氏から大学教授の肩書が消え、昭和薬科大学文化史研究室も廃止されることで、足摺プロジェクトはもはや大学の名という虎の威を借りられなくなってしまった。
その時点で、実質的には、足摺プロジェクトは終息してしまったものとみなしうる。古田氏の縄文灯台説が最初から学問としての骨法を持っていなかった以上、このような帰結もやむを得ないところだったのである。
本論考は古田氏の縄文灯台説と足摺プロジェクトはすでに終焉したものとみなし、それを歴史上の一エピソードとして後世にとどめる立場から記述したものである。
1998 原田 実