点滅から空想へ
点滅という現象を調べてみよう。私たちが点滅している光を見ているとき、光がない瞬間も含めて包括的に捉えている。だが点灯する光と、次に点灯する光との時間的間隔があまりにも大きい場合には点滅と呼ぶことはない。点滅という現象は、またそれが点滅と呼ばれるためには、二者の光の関係がなければならない。加えて、そこには時間的間隔が一定範囲に収まっている必要がある。現象や存在について考えるとき、それらのものが認識可能な範囲内に収束しているかどうかを無視することはできない。点滅という現象が理解されるときにおいて、その点滅の速度が無限に近いものだと想像してみる。これは明らかに点滅とは呼べないし、点滅を意味しない(点滅の意味を壊す)。映画のフイルムの一枚一枚をゆっくり回せば点滅に近い動きがみられるが、速度が増せば一連の運動として捉えられる。ここでは点滅の概念は超越され追い越されたものとなっている。一般的な現象や存在を把握するには条件がある。再度点滅の例をもちだそう。そして二つの電灯の距離をひろげてみる。交互に光を放つなら、まだ点滅を捉えることが可能だ(これは容易に想像できる)。次に、この二つの電灯の距離を無限大に拡張してみる(これは容易には想像できない。少なくとも私には!)。ここでは点滅という概念は消滅してしまう。点滅の意味を失うからだ。現象を現象として理解するためには、意味される対象が、ある範囲内に収まっていなくてはならない。対象を理解するとは、漁師が網で魚を捕獲するようなものである。意味についても同じように、収束された意味のみ獲得できるのであって、仮に発散する意味があるとしても、それは意味としては理解不可能になるだろう。意味というまとまりを破壊してしまうからである。さらに逃げる意味というものも考えられる。いまここに意味があるとして、この意味を追いかけるもの(理解者)があるとする。理解者が意味を追いかけるのと同じ速度で、追いかけられている意味も逃げているとすれば、両者は永久に交わることができない。よって意味も獲得できず、それはすなわち意味がないのと同様である。人間はなぜバラバラなものや無秩序を理解することができないのだろうか?無秩序と言えるためには、秩序の意味がわかっていることが前提となる。この前提を踏まえてはじめて秩序の反対としての無秩序を無秩序ということができる。
しかし待って欲しい。どこか不可解である。秩序は了解しているのに、無秩序は了解しているようでいて実は了解していないからだ。確かに無秩序と称している限り、無秩序であることは分かっているのであるが、無秩序そのものについてについてはいっさい理解不可能である。これはどうゆうことであろうか。無秩序であることは了解しているのにもかかわらず、その無秩序の実態がどうゆうものであるかについては全然了解していない。無秩序と呼ばれているものは、秩序と呼んでいるものからの視線(見方)ではないのか。つまり秩序からの知識に過ぎず、無秩序からの知識ではない。それは秩序に属するものとしての無秩序というに過ぎないのであって本質は秩序の領野にある。誤解を恐れずに言えば、無秩序も秩序である。無秩序の情報のすべてを秩序の概念から借りているからだ。故にたとえ無秩序から発信されたもの(知識)があるとしても、それを受信できない。秩序からという方向が定まってしまっているために、逆方向からの声に応答することはできない。私たちがほんとうに無秩序の領内いるならば、無秩序にいることを知る術がない。私たちがほんとうにバラバラであるならば、バラバラであること認識するのは不可能である。狂気は自我機能の崩壊したものとされるが、狂気を持っている当人には狂気そのものはわかっていない。なぜなら、狂気という言葉が、既に正常の側からの視線に依っているからである(正常を起点としての狂気であり狂気からではない!)。あちらの世界とこちらの世界が分断しており尚かつ、ここに明らかな方向が露呈されている。無秩序そのもの、狂気そのものからは一切の情報が得られない。何を言っているのかというと、狂気と言いながらも狂気そのものをほんとうに知ることができないと言っているのである。一般的な理解にこのような方向性のあることはあまり注意されていないように思えるが、物理的な凹凸があるように、知識にも凹凸があるのだし、ここで述べたように方向性もある。
図示すると下のようになるだろう。