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Site Hiroyuki Tateyama

霧島国際音楽祭を作った男たち。

2017.06.20 02:20

父が亡くなって、来年で10年。その父の同級生で、霧島国際音楽祭の創設者である野村さんが、奥様と、ウィーンから里帰りされるとのことで、お目にかかりました。

お昼といえば、次の予定までに、ラーメンをすすったり、弁当を掻き込む毎日ですが、昨日(6月19日)は、実に2時間かけての、楽しいひと時となりました。

会場は、私の事務所からほど近い、”会席料理 遊花膳こうの”です。

http://yukazen-kono.jp

野村さんとは、高校2年の春の、母の葬儀以来でしたから、37年ぶり。

参集されたのは、霧島国際音楽祭創設に大きく尽力された、やはり父の同級生の高山さん、霧島国際音楽祭鹿児島友の会会長の古木さん、同じく友の会の楠元さん、横山さん。

霧島国際音楽祭鹿児島友の会の記念誌上梓にあたり、お世話になっている横山さんだけは5歳ほどの先輩ですが、あとは大先輩。

しかし、現役でお仕事をしていらっしゃることもあって、皆さん、お若いこと。

美味しいお料理(出席者一同大絶賛)に舌鼓を打ちながら、昭和20年代から、現在まで、時空を超えての様々な話に花が咲きました。

霧島国際音楽祭が軌道に乗るまでの苦労(と一言で片付けられないような)話は、大凡しか存じておりませんでした。それだけに、野村さんから伺った、設立の理念を、次世代へ受け継いでいく、より一層の努力を、鹿児島友の会の事務局長として、果たしていかねばと強く思いました。

大学で教鞭もとられる野村さんは、今の自分がそこにいるのは、2代、3代前からの環境も起因していると、学生たちにお話しとのこと。

コピーライターの走りで、ジャーナリストでもあった父方の祖父、漢方医だった母方の祖父、文学好きだった母、そして放送局に勤務した父、その他、祖先たちの様々な思いの上に、現在の私の生活は立脚していると痛感しました。

鹿児島という隅っこの街で、野村さんと比べると、スケールの小さな暮らしをしています。しかし、今、そこに生かされていることの蓋然性をかみしめて、日々、精進して参りたいと存じます。

鹿児島らしい強い日差しを浴びながら、三々五々下校する小学生たちを追い越し、満腹の腹をさすりながら、気持ちも新たに仕事に戻ったのでした。