生島尚美さんエッセイ / バリ一代ドタバタ記 (生々流転vol.4より転載)
第2回「想像して怯えて進め!」
▲学生の頃ロングステイし、ウブドのナイトマーケットでチャナン(お供え)を見ている筆者 (左端)
「え?A型なんですか?」
O型でしょう?
B型かな? AB? じゃ、何? と続いていつも言われるこのセリフ。
血液型によって性格が決まる、なんて考えはナンセンス! いろいろあるのよー、と皆さん思っていながらも、やはり私に関しては驚いてしまうよう。
私も几帳面か? と言われると疑問はありますが、「真面目か?」と尋ねられたら「生真面目かも」と答えます。
A型の特徴として「計画的」というものがあるそうです。
インドネシア・バリ島に何のツテも、これといった特技も資格も持たず、一人でやって来て起業した私への印象ともなると「破天荒で勝負師」となってしまうようです。
しかし、実は私のビジネス(私の場合「商売」)において「博打性」はと言えばほぼ皆無なのですが、この話はまた次の機会にいたしましょう。
今でもイヤになるほど心配性のこの私がこのバリ島に飛び込んだ経過は一体どういうものなのだったのか?
それは心配性がゆえに出した結果でもあったのです。
タイトルにもした「想像して怯えて進め!」まさにこれに尽きるのです。
実はバリに来てから何度か日本のテレビに取材に来て頂いたことがあります。放映された番組でも、「そこ」がやはり面白いのか、強調されたのですが、当時24歳の私は、日本で当人同士が「結婚」を決めていた相手がいたにも関わらずその相手に去られ、2年ほど意気消沈していたのがバリに来た背景にあったということ。
本来であれば結婚して生まれ育った関西を離れ、四国に住む彼の家業を継ぎ、支えて行くことになっていたので、大好きなバリ島への道は封印し、わたしはやって行くのだと決心した私だったのに・・・。長いドロドロの沼に完全に頭までどっぷり浸かっていたわたしの話はともかく、その暗闇に突然一筋の光りが。それが「バリ島への道」だったのです。
「そうだ、こうなった今、私はバリ島に行っても良いのだ」と、ふと思い出しました。
自律神経のバランスをも崩しかけていた私は脱皮したかのように生き生きとし始めていた、と当時を振り返り母は言います。 このまま無駄に生きて死んで行くか、バリに飛び込むか。
大好きなバリ島への想いで蘇り、「私の人生においてこれだけは絶対譲れない」と強く強く思っていた当時。諦めて、一生悔いて生きている自分を想像して怯え、どうせ悩み苦労するなら「行ってからしよう」と大きく踏み出せたのです。
今となっては本当に良いタイミングで「あの別れ」はあったのだな、と感謝すら感じる程です。 「充分な準備が出来たら引っ越そう」というぼんやりしたものではいけない。具体的な数字が大切である、と考えた私は今となっては笑ってしまうのですが「100万円貯まったら行こう」と目標を立てました。当時90年代後半のバリ島の物価を皆さん覚えておいででしょうか?
ガソリンは1200ルピア、いや、もっと安かったかもしれない。ナシチャンプル(定食)は3000ルピアも出せば充分なものを食べる事ができた時代です。
「100万円もの大金があればしばらくはやって行ける! すぐに就職活動をしてどこかで仕事をしよう」と思っていた訳です。
昼の仕事とは別に夜はホステスをして1年で100万円(間にバリ島下見を1度)貯めました。
それが出発の1ヶ月前に突然不安になり手が震えるほどに。恋い焦がれたバリ島に引っ越すのに、やはり心配性の私は「大好き過ぎるバリ島も夢の国ではない。その現実を目の当たりにした時に私はどうなるんだろうか?」と考え出してしまったのです。
それはまさに「マリッジブルー」。不安で不安でしょうがなくなった私を救ったのは人生の大先輩、今の私と同じ年ぐらいの女性が「そんな風になったら帰って来たら良いやん。今25歳でしょう? ダメで帰って来てからでもまだまだ何にでもなれる年やん」と笑い飛ばしてくれました。あぁ、そうか、ダメなら帰って来ても良いのか、とホッと安心できました。
同時に遠い地に行ってしまう故に大反対した母が、最終的にあきらめて私を見送る時に「しょうもないところケツ割ったら(諦めて逃げる、というようなニュアンスでしょうか)許さんで」と言った商売の大先輩としての言葉も非常に重く、移住後、私が弱気になったときに背中を何度も強く押すことになりました。
< つづく >