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生島尚美さんエッセイ / バリ一代ドタバタ記 (生々流転vol.6より転載)

2017.06.20 13:35

第3回「ひとつずつ、そうひとつずつ」


▲学生の頃、ウブドのゲストハウスに滞在し友人らと写真撮りっこして遊んでた筆者


私の見ているバリはレンズ越しのバリなのです。 


ビジネスを興し20年近く暮らしている時のレンズは、バリの人たちの目の前に利益を落とす旅行者である時とは違うものだろうけれど。逆に言えば、彼らも私を見るレンズがあるはずで、それもきっと変わりつつある。 


マリッジブルーのような杞憂とともに1999年にバリ島・ウブドにやって来た当時25歳のわたし。  とにかく空港に降り立って「旅行者」の時とは違う立場で吸う空気は、それだけで涙が出そうになるものでした。  


空港から目的地のちょうど半分ぐらいの所で空気の温度と濃度がガラリと変わり一気に街灯が減る。まるでワープするかのようにウブドに吸い込まれて行く。 


夜中の道路の真ん中に寝そべる犬、真っ暗な中で立ち話しているおじさんたち、突如灯りが、と思えば消化できないほどに色彩にあふれた儀式とガムランの音が飛び込んで来る。


「あぁ、これからずっと私はこの中にいるんだ。私がこの景色の一部になるんだ」と、じわじわとよろこびを噛み締めていました。  


翌朝目覚めても その恍惚感は続きます。花のお香の香り、宿の家族が話すバリ語、鶏の声、バイクの音! 


当時はバイクももちろん持っていなかったので移動は徒歩、知人や宿のスタッフに乗せてもらうバイク、遠出の時は「ベモ」(乗り合いの小さなバス)でした。 

早朝、ベモに乗ってバリ人のおばちゃんやおじさんたちに揉みくちゃにされながら見た朝日を私は忘れません。 「どんなに時間が経っても、この今の気持ちを一生忘れないでおこう」とその時に誓ったのです。(実はその後、バッグの外ポケットに入れていた一万円札がすられていた事に気付くのですが…)  


毎日少しずつ増えていく知人は、バリの人がほとんどでした。知り合いの日本人はゼロ。ものを聞けるような相手もおらず、しかし、それを楽しんでいるところもおおいにありました。  


当初「就職」する気でいた私は、とにかくいろいろ情報収集、という名目でブラブラ呑気に過ごしていました。 もともと学生時代から2-3週間ほど来ては滞在していた場所にいるわけなのでその辺りのことはよく知っている。とは言え、方向音痴で心配性の私の行動範囲は(移動手段も限られていたので)半径2-3キロだったのですが。


しかし、元々馬車馬のように働いていた私が「今日したこと。郵便局に行った! 良し」というヨーロッパ人の長期滞在者のような生活をエンジョイできるわけもなく、2週間ほど経ったところからムズムズ、もぞもぞ、ドキドキし始めていました。

「就職」する予定の私は一体どこでどのように誰に連絡をしたらいいのでしょう? 今のようにネット上で情報を得る手段もない時代(ウブドは当時ダイアルアップの時代。私はパソコンも持たず、メールアドレスすら無く、自分が持つようになるとも想像していませんでした)。できるのは、口コミ、紹介、もしくは飛び込みのみ。


日本人の知り合いがまったくと言っていいほどいなかった私。ここに来て「気の小ささ」が私を占領したのは「すでにウブドに暮らすと言う一番の目標をかなえてしまった」からだったかもしれません。  


当時わたしが「こういうところに就職することになるんだろう」と勝手に想像していたのは、「ホテル」や「大きなレストラン」または「旅行代理店」。しかしそこで必須であろう英語はなんとか日常会話がしどろもどろで話せるかな? というぐらい、インドネシア語も基本の会話をこなせる程度。経験も実績もない私がそんなところに持って行く履歴書に何を書けば良いのだろう? そもそも英語での履歴書ってどう書くの? 


「木を見て森を見ず」ということわざがありますが、私は「森を見て木のことほとんど見てなかった」。「行ってから考えよう!」とドーン、とやって来た私にも、いよいよ考える時期がやって来たわけです。 


 < つづく >