Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

戦国時代の武将

2018.12.08 13:27

https://ddnavi.com/news/312424/a/ 【あの有名武将も奴隷を認めていた! 合戦の目的は「奴隷狩り」!? ドラマでは描かれない戦国時代の実態】より

『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(渡邊大門/柏書房)

「奴隷」と言われイメージする国は、古代ギリシア、アメリカ、ヨーロッパ諸国を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。そこで「日本」を挙げる人は少ない気がする。しかし、日本にも奴隷は存在した。それも一時のことではなく、古代からの日本の歴史を考えると半分以上を、日本にも奴隷として扱われた人たちがいたのだ。

 教科書では奴隷について教えることはほぼなく、ドラマや小説でもあまり描かれることはない。だが奴隷の存在を抜きにして、日本史の本当の姿を語ることができるのだろうか。

『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(渡邊大門/柏書房)は、主に戦国時代~江戸初期を中心に、日本の人身売買の実態、奴隷に関するルール、商品として拉致された日本人たちの末路などを、豊富な資料から浮き彫りにしている専門書だ。

 日本における奴隷の起源は、2世紀初頭から、その存在を史料的に確認することができる。中国の記録『後漢書東夷伝』『魏志倭人伝』において「生口」(せいこう)と記述されているのが、奴隷の原型ではないかと考えられる。日本においては『日本書紀』に人身売買を行っていた証拠となる記述も遺されている。

 その後も、人身売買は行われ、奴隷身分にいる人々の存在はいつの時代にも存在したが、今回は戦国時代に焦点を当ててみたいと思う。

 戦国時代における合戦は、忠義に厚い武士たちが「弱きを助け、強きを挫く」「早く戦乱の世を終わらせる」ために、とにかくかっこよく戦っているイメージがあるかもしれない。

 だが実際の戦場では、「乱取り」という、「奴隷狩り」が行われていた。甲斐国の戦国大名である武田氏の事例から見てみよう。戦国初期の甲斐国の生活や世相を記録した『妙法寺記』という史料には、武田信虎(信玄の父)の軍勢が他国の「足弱」(あしよわ)百人ばかりを獲っていった、という記述がある。

「足弱」とは、女性や老人、子供のような弱い立場にある人々のことだと考えられている。つまり、武田氏の軍勢は戦争のどさくさに紛れ、「戦利品」として他国の民を強奪したのだ。このように、戦場において人、物資を奪うことを「乱取り」といい、戦場で得た物は自分の資産にすることができた。人や物資は売ることも可能だったので、戦争に参加することは、経済的に豊かになれるという「うまみ」があったのだ。

「乱取り」は武田氏に限ったことではなく、全国で恒常的に行われていたようだ。伊達政宗が南奥羽で展開した合戦でも、戦場において多くの人が生け捕りにされた。上杉謙信は攻め落とした城の城下を、一時的に「人身売買の市場」として、その戦で生け捕った女、子供を二束三文で売買したという記録も残っている。中世~近世の戦場において、経済的にプラスになる「乱取り」と合戦は切っても切れない関係であった。武士が命を懸けて戦っていたのは、忠義や武士道といった崇高な理念のためではなく、実益があったからなのだ。

 そんな戦国時代の風潮の中で、人身売買を禁止した武将が存在する。豊臣秀吉だ。秀吉は戦場で生け捕った民たちを元の住んでいた場所に返し、人身売買を行うことを禁止している。

 しかしこれは倫理的な問題からというわけではなく、「重要なことは、百姓などが勝手に移住し、耕作地が荒れることを防ぐ」「人身売買によって、貴重な労働力が移動すること」を危惧した「労働力の問題として重視された」ゆえのことであった。つまり、秀吉に現代の感覚に近い倫理観があったというわけではない。

 秀吉が強い怒りを覚えたのは、南蛮貿易の商品として、日本人がポルトガル人に売られて、家畜のように扱われていることだったそうだ。これに対しては、倫理的な問題を感じたのか、はたまた大切な労働力が海外に流れていくことを危惧したのか、秀吉はポルトガル商人による日本人奴隷の売買を禁止している。

 華々しい合戦の裏で、涙を流す弱い人たちは確かに存在した。現代ほど物が豊かではない時代において、「人」は重要な「商品」だったのだ。名も無き人々の悲劇をひもといていくことも、日本史を追究するにあたって大切なことかもしれない


https://intojapanwaraku.com/culture/100112/ 【豊臣秀吉、伊達政宗らの「死」の美学。ダンディズムにこだわった政宗の最後とは】より

人生最後の日。

もし、事前に知ることができれば、あなたは、どのように過ごしたいだろうか。こちら、とある都道府県警の面接試験で聞かれた実際の問題である(「正確には明日地球が滅びるとすれば」という条件設定がなされていた)。

なかなか難しい質問だ。パッと聞かれて即答するのは至難の業。口を開けば、なんだか勢いばかりの中身のないモノになりそうで。面接試験にしては、思いのほか、人生観にド直球の質問といえるかもしれない。

さて、現在では単なる妄想となる人生のラストデイ。しかし、死と隣り合わせの状況では、そんな悠長なコトなど言っていられない。背後から斬りつけられて、まさかの、自分が死んだとは分からない場合も。

特に戦国時代の死に際は様々。戦で討ち死、切腹、厠(かわや、トイレのこと)で事切れてました……など、多くのバリエーションが。どれほど有名な戦国武将でも、「死」には抗いきれなかったようである。

もちろん、なかには、現代のように畳の上で死を迎えた武将だって。甲斐の虎こと「武田信玄」、下剋上を体現した天下人「豊臣秀吉」、奥州の覇者「伊達政宗」らである。今回は、このお三方のラストデイを追いつつ、「死」を通して何を一番大切に思ったのかを考えていきたい。

息子よ。死を3年隠し通せ!武田信玄の強烈遺言

まずは、1人目。病気で已む無くこの世を去った、甲斐(山梨県)の虎こと、武田信玄である。統治や人材育成などにまつわる名言を数多く残しつつ、まあまあ人には言えないコトも。父の武田信虎(のぶとら)を国外に追放して家督を継ぎ、信濃(長野県)へ領地拡大。時に、人身売買を積極的に推し進めたことでも有名だ。

一時は、政略結婚などで織田信長と共存する道を模索したが、自ら破棄。信長に敵対していた15代将軍足利義昭と手を組み、信長包囲網を構築。2万7000もの兵を率いて上洛する構えであった。京都へ向けて進軍し、途中、元亀3(1572)年12月の「三方ヶ原の戦い」では、徳川家康とその援軍である織田軍を撃破。

いよいよ、天下取りに一歩近づく予定が、信長の挟撃を盟約していた朝倉義景(よしかげ)が突然の撤退。袋小路にして信長を討つ計画が、予期せず崩れてしまう。悪いことは重なるもので、病状も悪化。甲府に戻ることもできず、信州伊那駒場(いなこまば)にて病死する。「三方ヶ原の戦い」での勝利からたった4か月後のことであった。御年53歳。早すぎる死ともいえる。

死を予期して床についた信玄の一番の気がかりは、子の武田勝頼(かつより)。自分の死により、織田信長の勢力は一層増すはず。もちろん、長年戦ってきた上杉謙信も心配の種。ただ、謙信は信長に比べれば義に厚い人物なのが、せめてもの救い。そのため、信玄は意外な遺言を残すことに。

「わしが死んだ後、みだりに兵を動かしてはならない。ひたすら国内の政治に精を出し、もし敵が侵入してくれば、それを防ぎ、敵が去れば国政に励め。賞罰が行われること三年もたてば、隣国は戦わずに自然に屈してくる」

(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

なお、上杉謙信は義人だからと、いったん彼に国を託せばよいとのアドバイスも行っている。さらに、この遺言には続きがある。

「自分が死んだら、三年間は隠しておけ、そうすれば、わしの死は誰も知るまい。謙信も近く死ぬであろう。次の三年は、わしの威光でまずまずなにごともなかろう。次の三年は戦の和談などですぎていくであろう。その後は信長によって天下は統一されるであろう」

(同上より一部抜粋)

実力やタイミング。天下を取るのに一番近い戦国武将であった武田信玄。だが、不幸にも自分の寿命が足りなかった。悔やんでも悔やみきれない最期である。それにしても、どうして勝頼はこの遺言に従わなかったのか。父もなしえなかったコトで、実力を世に示したかったのかもしれない。

のちに勝頼は、織田信長・徳川家康連合軍と戦った「長篠の戦い」にて敗走。最後は追いつめられ、嫡男の信勝とともに自刃。これにて甲斐武田氏は滅亡に至る。天正10(1582)年3月のこと、勝頼、享年37歳。あいにく勝頼には、信玄の持つ先見性は備わっていなかったようだ。

死の直前まで抱えた信玄の憂慮は、皮肉にも現実となってしまうのであった。

誓約書を残らず出せえ!豊臣秀吉の黒い執念

次に2人目の方。コチラも、武田信玄と同じ気がかりを抱えていたようだ。その人物とは、あの天下人である太閤・豊臣秀吉。織田信長の家臣から、見事大出世。戦いに勝ち、頭を下げ、最後は無事に天下統一。天下を取ったにもかかわらず、全く何が心配だってのと突っ込みたくもなる。

しかし、秀吉には弱点があった。それは世継ぎが少ないというコト。確かに心配する気持ちも分からなくはない。だって、目に入れても痛くない唯一の嫡男「秀頼(ひでより)」は、当時6歳。子を思う親心はダントツの秀吉。ある意味、親バカのレベルである。そんな彼が、6歳の子を残して先立つ悔しさは、想像以上だろう。

秀吉の死因も病死だ。慶長3(1598)年3月には盛大な花見を催していたが、5月には体調が悪化。そうして8月18日に死去。あっという間の出来事だったという。死ぬまでの僅か数ヵ月。秀吉はこの短い期間で、死後のコトを考えねばならなかった。心配の種はというと、ひとえに秀頼に天下人を継がせられるかというコト。

自分の死期を悟った秀吉は、同年7月には盟友の前田利家の屋敷で、遺品の整理を行っている。諸大名らに形見分けとして多くの品を分配したという。また、死の2週間ほど前には、五大老に宛てた遺書も書いている。あれほど権勢を誇っていた秀吉だが、見る影もなく。ただひたすら、諸大名らに頼むしかなかったのだ。

「『秀頼が成人するように、この書付を書いた人々に頼み申す。何事も、このほかには思い残すこともない。くれぐれも秀頼のこと頼み申す。五人の方々にお頼みする。くわしいことは五奉行に申し渡した。名残惜しいことだ』と繰り返し懇願した」

(若林利光著『戦国武将の病が歴史を動かした』より一部抜粋)

五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景のちに上杉景勝)と五奉行(前田玄以、浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家)は起請文を交換。成人後の秀頼が政権を掌握できるように尽力するとの誓約もなされたという。死の数日前には、枕元に徳川家康ら五大老を呼んで、秀頼のことを頼むとさらなる念押し。こうして、秀吉は無念のうちにこの世を去った。御年、62歳(63歳とも)。

じつは、秀吉にも先見の明があった。自分の死後、秀頼が成人するまでは徳川家康が統治する。ここまでは計画通りだ。しかし、家康の力が莫大になり過ぎる可能性も考えていたようだ。それでも、秀吉はそこまで天下にこだわらなかった。万が一、天下人から下ることになっても、豊臣家存続さえできればいいと。そんな殊勝な思いもあったようだ。それが、彼の遺言に表れている。

「天下はみな自然と徳川殿の家風にしたがってしまうであろう。そのとき、なまじっかわしの旧恩を思う者が、幼少の秀頼を輔佐して天下を取ろうと謀り、徳川殿と合戦をするようなことになれば、わが豊臣の家はおのずと滅びること、きわめて近き将来にある。その方らが、もしわが家が絶えないうちにと思うなら、心して徳川殿によくしたがい仕え、秀頼のことを悪く思われぬように計ってくれ。そうすればわが家も絶えずにすむかもしれぬ」

(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

関ヶ原の戦いののち、豊臣家にはまだ威光が少なからずあった。しかし、大坂の陣にて豊臣家は滅亡。あれほど大事に育てた秀頼は大坂城にて淀殿と自刃。一説には、秀頼が成長し過ぎたせいだとか。二条城の会見の際に、190オーバーの秀頼の巨躯を見て、家康は危うさを感じて滅ぼすことを決意したともいわれている。

さすがの秀吉も、成長後の秀頼の身長までは見抜けなかったといえる。

最後まで「ダンディズム」にこだわった伊達政宗の真意

最後にご紹介する3人目は、奥州の覇者である伊達政宗。天下人になるだけの実力を兼ね備えながら、地理的要件に恵まれず、生まれる時代が遅すぎたとの評価も。ちょうど、豊臣秀吉と徳川家康の過渡期に間に合わず。タイミングが合わなかった無念の人物である。

疱瘡(ほうそう、天然痘のこと)を患い一時期は引きこもりがちであったが、独眼竜となってからはその勢いはとどまらず。東北地方の統一に向け、せっせと戦いに明け暮れる。当時の東北地方は政略結婚でバランスを取ろうとしていたこともあり、戦うのは縁戚の一族ばかり。それでも、戦いに勝ち続け、東北統一まであと一歩というところでタイムアウト。前に立ちはだかったのは、豊臣秀吉であった。

伊達家存続だけを優先し、断腸の思いで秀吉に臣従。その後は、東北地方から水面下で天下取りを狙うも、結果を出すことはできなかった。

さて、政宗の死因も、他と同じくやはり病死。そんな伊達政宗の死に際。一番気がかりだったのは、まさかのやせ衰えた自分の姿であった。

寛永13(1636)年5月、政宗は伊達家の将来を3代将軍徳川家光に託すため、拝謁。その衰弱ぶりに、家光は慌てて江戸中の社寺に病気平癒を祈らせたというから、よほどの姿だったのだろう。悪化というよりは、手遅れの状態に近かったようだ。同年5月24日に死去。享年70歳。

じつは、死に際には同じ屋敷に暮らしていた正室の愛姫(めごひめ)の姿も。愛姫は、顔立ちがたいそう愛らしく、「めんこい」が転じて「愛姫」と呼ばれるようになったという女性である。当時12歳で伊達政宗に嫁いだが、乳母や侍女が敵に内通している疑いで処刑された経験も。そんな悲劇があっても、夫婦仲は決して悪いわけではなく。政宗も愛姫を大事にしていたという。

ただ、正室であるがゆえ、愛姫の人生の大半は人質としての生活であった。それは、豊臣秀吉の時代から徳川家康に代わっても変わらなかった。京都や江戸の伊達屋敷で暮らし、一度も領国に戻ることはなかったという。そんな江戸の伊達屋敷で、政宗は最期を迎える。同じ屋根の下の政宗と愛姫の夫婦。政宗の死に際は愛姫に看取られて安らかに……と思いきや、予想外の展開が待っていた。

信じられないことに、政宗は愛姫との面会を断固拒否。死に際、愛姫に会うことは一切なかった。

一体どうして?

女性の立場からすれば、到底受け入れがたいものである。

しかし、政宗は決して譲らなかった。見舞いに行きたい、会いたいとの愛姫の申し出を拒否。

どうやら、政宗には強いこだわりがあったようだ。どうしても、妻の思い出の中での凛々しい姿でいたかった。痩せ衰えた見苦しい姿を見せたくなかった、そんな気持ちがあったのではないだろうか。

一目会うことよりも、美化された自分の姿を守りたい。それこそが「伊達者(だてもの)」たる所以なのかもしれない。

最期まで、ダンディズムを貫き通した男であった。

三者三様のラストデイズ。

我が子を思い、自分の姿を嘆き。死に際まで、心配し通しの戦国武将たち。畳の上で死ねたはいいが、これはこれで余計に気を遣うかも。いっそのこと、戦場で派手に散った方がラクだったと、思えなくもない。

最後に。

愛姫のその後である。伊達政宗が亡くなって、愛姫は剃髪して仏門に。

のちに、一体の伊達政宗像が出来上がる。じつは、政宗の絵画や像は両目で描かれている場合が多い。これは、政宗たっての希望なのだとか。しかし、独眼竜として片目だけで描かれている場合もある。愛姫が作らせたこの木像は、もちろん片目の伊達政宗像。愛姫が片目で描いてほしいと頼んだという。

どんな姿になっても、愛する人であることは変わらない。

「殿の本当の姿を」コレが愛姫の本音であった。ダンディズムも時には必要。

しかし、女心への理解は常に必要なのかもしれない。

参考文献

『戦国武将の病が歴史を動かした』 若林利光著 PHP研究所 2017年5月

『完訳フロイス日本史5』 ルイス・フロイス 中央公論新社 2000年5月

『独眼竜の野望 伊達政宗の生きざま』 晋遊舎 2013年12月

『戦国を生きた姫君たち』 火坂将志著 株式会社角川 2015年9月

『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月