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【たつの所縁の偉人】「生命尊重の神」野見宿禰 ~殉葬を廃止させた“天神様の祖先”~

2021.12.09 03:28

 今日は地久節(皇后陛下の誕生日)です。謹んでお祝い申し上げます。

 さて、先日私は野見宿禰神社(たつの市北龍野)に参拝させていただきました。野見宿禰神社とは、「相撲の祖」とされる野見宿禰を祀る神社で、野見宿禰のお墓のある場所に建立されています。

 こういうと「そもそも野見宿禰って、誰?」と言う方も言われるかもしれません。

 野見宿禰は相撲の祖として有名ではありますが、何も相撲だけの功績で神様として祀られた人では、ありません。野見宿禰は多くの人の命を救った人物として崇敬されています。

 弥生時代から古墳時代初期にかけて、我が国には「殉葬」という野蛮な風習がありました。これは貴人が亡くなった際、彼に仕えていた人々を生きたまま陵墓に埋めると言うものです。

 『魏志』「倭人伝」によると、邪馬台国(邪馬壱国)で有名な卑弥呼が亡くなった時にも奴隷たちを卑弥呼の墓に殉葬した、といいます。私は邪馬台国九州説論者ですが、当時の九州で殉葬が行われていたことは恐らく事実なのでしょう。

 大和で殉葬が行われるようになったのは、垂仁天皇の御代からです。垂仁天皇の弟である倭彦命が薨御された時、『古事記』によると「始めて陵に人垣を立てき」とあり、大和では初めての殉葬が行われたようです。

 幸いにも、この悪習は『日本書紀』の記述が正しければ一度きりで終わりました。それは野見宿禰のお蔭です。

 垂仁天皇の皇后である日葉酢媛が崩御された時、垂仁天皇は倭彦命の時のような残虐な先例を繰り返したくない、と考えていました。そこへ野見宿禰がこう提言します。

「君主の陵墓に生きた人を埋めるのは、良くないことである。どうして後世に伝えることが出来るだろうか?願わくは今暫く知らせを待ってから上奏させていただきたい。」

 そして野見宿禰は自分の出身地である出雲に使者を派遣し、埴輪の職人を連れてきて自分もその職人たちと一緒に人間や馬の形の埴輪を作り、改めて天皇陛下に提言しました。

「今後はこの埴輪を生きた人の代わりに陵墓に立てて、後世へ伝える規則としたい。」

 それを聞いた垂仁天皇は大いに喜び、早速埴輪を日葉酢媛の陵墓に立てることとしました。こうして殉葬の悪習は廃止され、多くの人々の命が救われたのです。

 野見宿禰はその後、出雲に帰る途中で今のたつの市を訪れ、そこで亡くなりました。

 多くの人々のいのちを救った彼の死を嘆くものがこの地に集まりました。あまりにもたくさんの人が集まりすぎて「立てない」(立ちぬ)場所と言われ、それが訛って「たつの」になった、と言う風に『播磨国風土記』には記されています。

 つまり、野見宿禰が「たつの」の語源となったと言う訳です。

(野見宿禰神社からの景色)

 野見宿禰神社は龍野神社のさらに奥にあります。(龍野神社にも野見宿禰は祀られています。)

 実は、野見宿禰の子孫は全国各地にいます。

 有名なところで言うと「天神様」「学問の神様」として有名な菅原道真の氏族・菅原朝臣も野見宿禰の子孫です。

 今の日本では本姓(氏族)と名字(家名)の区別が曖昧なので、本人でも自分がどの氏族に属しているか、自覚のない場合も多いのですが、調べてみると菅原朝臣の方はかなり多くいます。

 たつの市小宅地域の前田家も菅原朝臣の方が多く、私の母もその一人です。こちらはたつの市に住んだのは中世以降であると聞いていますが、先祖の墓のあるところに住むとは縁とは不思議なものです。

 そうなると、私も一応、野見宿禰の子孫の末席に属していることになりますね(私自身は藤原朝臣ですが)。

 多くの人々のいのちを救った郷土の偉人がおられることを、私は誇りに思います。野見宿禰神社に参拝すると安らかな気持ちになり、生命尊重への気持ちを新たにします。

 このたつの市から、生命尊重の政治を実現させたいと、強く思う次第です。