生島尚美さんエッセイ / バリ一代ドタバタ記 (生々流転vol.8より転載)
第4回「空回らずしてどうする」
▲「5年と次の日に潰れて良し」と言われた当時の第1号店
「この場所借りて欲しいんだけど、どう?」
今考えると、このたわいもない無邪気なロスメン(安宿)の大家の息子Mの言葉から始まったのでしょう。
「とにかくバリに行って勤めるものだ」と思い込んでいた、そして何も持っていない私ががんじがらめになって動けずにいたのを見透かしていたかのごとくこういう話がある日突然出て来ました。
「知らない人に貸すよりも知ってる人の方が良いかな、って」と彼が指した場所は、宿が面している舗装もされていない田舎道と塀をはさんで私が借りていた狭くて古い小さな部屋の間、「その辺り」。「???」と思ってみたものの、塀を内側に移動し、奥行き4m、間口8m程の建物が建てられると言う。
いつか日本で飲食店を漠然としたいな、とは思っていたものの、その時点の私は自分が何かを興し、人を使い「一国一城の主」になる器であるとはまさか思っても見ず即座にお断りました。
自分たちのお金で「単なるマンゴーや椰子の生えている、空いてるとも言えない場所」を更地にすることもできない大家一家はのんびり構えていたのでしょう。断ってはみたものの、何も始めていない自分に焦りに焦って、減って行くお金を数えていただけの私。「観光客」でもすでになくなっていた私は、誰にも求められない「単なる貧乏長期滞在者」でした。
生きて行くために何かを始めなくてはならないのに、こんな思いだけを抱えて鬱々(うつうつ)し続けるのはイヤだ!と判断した私は数日後、目をギュッと閉じてバンジージャンプするかのように「幾らっ?」とMに聞きました。
4m x 8mの「原っぱ」、私が開墾し自分でお店を出し、契約が切れた後は大家に建物ごと引き渡す、という契約で5年間借りました。最初に言われた金額は1年Rp.1juta。2000年当時は1万円ぐらいだったでしょうか。
全く、と言っていい程「相場」を知らなかった私。 そこが観光客が通るエリアではない、とは知っておりながらも「や、安い!」と思わず出そうになった言葉をググッと飲み込む。「こういう時は値切るものだ」という関西の商売人としての教えが蘇ります。
結果5年間=Rp.4,5jutaとなった賃料になんとか形にだけなれば良い(大工さんに契約期間の翌日に壊れても良い、と言った私の割り切りようは今でもなかなかやるな、と思っています)と建てた建築費はRp.35juta程。 一番高かったのは大きなシャッター2つでRp.7juta。
その時点で約Rp.50jutaを使い切った私。そう、覚えていらっしゃいますか、私が日本を発つ時に持って来たのは たったの100万円。
観光客から長期滞在者を経て突然起業する事となったド素人外国人の私は、在住歴たったの数ヶ月。インドネシア語の日常会話がぎりぎりできるだけで、バリ人との関わり方、関係の作り方などほとんど知らない。
契約後、Mは好奇心いっぱいの近所の人たちに幾らで貸したか聞かれ、素直に答えたら容赦なく「安過ぎる、バカじゃないのか?」と言われ(どんな金額でも事を荒立てたい嫉妬深い田舎の人たちはいろいろな事を言うでしょう)ならば「回収せねば」と5年後に自分たちのものになる建物に注意がいったのも自然なことかもしれません。
それに対して、少ない予算で5年間さえ建っていてくれれば良いお店を作る私。ある時、新しく知り合った建築関係のビジネスをしている日本人に、使わなかった中古の瓦を安く譲ってもらうことができました。それを屋根の上に乗せていたらMが奥から走って来て、「あんな苔の生えた瓦を乗せるな! 恥ずかしい! 新しいのを買ってこい!」と怒鳴ったのです。
またある時は現場に行くと大工さんたちがなにやら木で欄間のようなものを作っている。驚いた私がたずねると「Mにこれをつけろ、と言われたから木を買ってきた。高かった」と。丸1日その「彫刻」に時間を取られていた大工さんの日給ももちろん私が払うんだな、と歯ぎしりしていた翌日、その欄間(それも2つ)がゴミ置き場に捨てられている。
あまりに驚いて事情を大工さんに聞いてみると「木ではダメだ、コンクリートで作れ、と言われたから今日一日やり直し」と。予算が本当に少ないのに、あれこれ立場をわきまえず口出しして来るMにある日 切れてしまったのです。
<つづく>