生島尚美さんエッセイ / バリ一代ドタバタ記 (生々流転vol.16より転載)
第8回「考えろ!そして動け!」
▲2004年の日記より著者近影。
話は少し戻って 本を読むお客さまは増え始め安定して来た時に、あるバックパッカーの男性Iさんがこんな提案をしてくれました。「僕はここに来る前、編集者をしていたんだけど、尚美さん、やる気と時間があるなら、文章を書いてみたらどう?」と。まだまだやる気だけで足を掻き続けていた私には寝耳に水!「尚美さん、話が面白いから文章もきっと面白いはず。書くの好きでしょう?」と。
そう言えば22歳位のとき手相を見てくれた人が「文章と絵を書くのが好きでしょう? 上手いですね、それ続けた方が良いですよ」と言ってくれた。
そのIさんの言葉から生まれたのが幻の『sisiかべ新聞』(*Vol.8までですがご覧頂けます。稚拙!)
今もローテクの私。当時、持っていたのはワープロのみでした。それでカタカタとひとりでも多くの方に読んでもらうために、と工夫して自分で原稿を書き、取材し、友人にも原稿を依頼し作っていました。これを作っている時だけは辛い時間を忘れ生き生きとしていたと思います。
しかし、誰も知らない私、と知らない”sisi”に置いていては誰も読んでもらえない!これは”sisi”に興味を持って足を運んでもらうための「ツール」としてのもの。sisiではないところに置かねば、と置いてもらえる場所をあたりました。ウブド市場近くの「ツーリストインフォメーション」、和食屋さん(極貧の私は和食屋さんで食事するなんて夢のまた夢。なけなしのお金でお茶を飲み、帰りに思い切ってオーナーさんたちに声をかけ、『置いて下さい』とお願いしたものです)、日本人が来る人気のワルン(高級レストランには行けなかった!)、そして...赤面しながら自ら道で配っていました。
ガイドブックを持って交差点でキョロキョロしてる女性を見つけては 近づいて行き、怪しまれないよう さり気なさを装い「どちらに行かれるんですか?」と道案内してから 別れ際に思い切って「わ、わたし、こここ、こんなのを書いているんです! 良かったら、よ、読んで下さい!」なんて。怪しまれて無視されたり、恥ずかし過ぎて肝心の「かべ新聞」を渡さず道案内して終わったことも何度もありました。
「え? お店してらっしゃるんですか? 行きますよ、うれしい!」なんて中には言って下さる方もいて本当に泣いてしまいました。
50人に声かけて50人に渡しても何も起こらなくても、51人目で何かが動き出すかもしれない(100匹目のサル現象から考えると確率良い!?)。その方がsisiにいらっしゃらなくても、どこかで「そう言えばバッグのお店をしてる、って人がいたな」と記憶の片隅に残っていたら、どこかでその話をして下さるかもしれない。ひとり、の後ろには5人の人がいる、今日は5人に声をかけたから25人が知ってくれることになるかも、と。ゼロに何をかけてもゼロ、というのなら「私が動くだけだ!」と。
お金はない、でも時間はある。広告を出してもお金が要る、人にお願いしてもお金が要る。タダで使えるものは何だ? 自分の頭と体だ。考えろ、考えろ、考えろ! そして動け、動け、動け!と呪文のように言い聞かせていました。
今しないのは何故だ? 今しないと「刺す」と言われたらやるのでしょう? と言うことは私は甘えている。甘えていられる立場なのか?と 最初の5年はとにかくそう思い続けていました。
<つづく>