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古都ひらいずみ

2018.12.09 13:18

https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20191223-445067.php 【 平泉 <夏草や兵どもが夢の跡> <五月雨の降のこしてや光堂>】より

中尊寺の金色堂覆堂(国重要文化財)と芭蕉像。覆堂は、金色堂を覆い保護する建物で、増改築を経て室町時代中期(16世紀)に現在の形になったとされる。写真の覆堂は1963(昭和38)年まで金色堂を覆っていたが、現在の新覆堂建設に伴い移築された

 塩釜、松島と、海沿いを東に来た松尾芭蕉たちは、石巻から一転、北上し内陸へ向かった。目指したのは平泉(岩手県平泉町)だった。

 平泉は12世紀、奥州藤原氏が居を構えた「古都」である。人口は10万人とも。藤原清衡が造営に力を注いだ中尊寺や、基衡、秀衡が多くの伽藍(がらん)を造営した毛越寺(もうつうじ)に象徴される華やかな仏教文化が花開いた。

 同時に悲劇の舞台でもある。1189(文治5)年、都は源頼朝率いる鎌倉勢に攻められ燃え落ちた。兄頼朝と敵対し、この地でかくまわれていた源義経も同年、自刃した。その平泉に芭蕉と河合曽良がたどり着いたのは1689(元禄2)年5月13日(陽暦6月29日)だった

 完成度高い文学

 平泉の場面は、松島などと並ぶ「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)のクライマックスの一つといわれる。解釈はいろいろあるが、文学としての完成度の高さは確かだろう。簡潔な文章と、芭蕉の〈夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡〉〈五月雨(さみだれ)の降(ふり)のこしてや光堂〉、曽良の〈卯(う)の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな〉の計3句。ここに無常観が結晶している。

 ことに「夏草や―」の句(夏草の茂るこの地は兵士たちが功名を夢見て戦った跡。私も夢にその面影を感じたことだ、の意)は、多くの人が知る傑作。

 さらに、わずかに残った遺産の一つ、中尊寺金色堂で詠んだ「五月雨の―」(すべてを朽ちさせる五月雨もここには降らずに残したのか、光堂は今も光を放っている、の意)の句で、虚無の中に光を見つけ、締めくくる。完璧だ。

 平泉に向けて情感を高める演出も、作中施されてきた。飯塚(福島市飯坂)の場面、佐藤一族(奥州藤原氏や義経の家来)の物語にふれ、芭蕉は涙を流した。この涙は、時刻の移るまで涙を流したという、義経自刃の地、高館(たかだち)の場面への助走だろう。

 さて、記者もクライマックスの地を巡る。金色堂や復元された毛越寺の浄土庭園など旧跡が点在する「文化遺産の中にあるまち」は、やはりすごい。ただ、国道4号を車が走る高館からの風景には、時の流れを感じながらも、芭蕉と心が重なる、というほどではない...。

 西行との一体化

 すると、名ガイドの一言が、視界を開いてくれた。古都ひらいずみガイドの会理事の岩渕洋子さん(80)は「『ほそ道』の旅は、義経と西行の足跡をたどる旅だった」と話す(「道標」参照)。

 歌人西行は、義経らの同時代人である。平泉には、大仏修復に使う砂金の勧請(かんじょう)などで2度訪れた。没年は1190年。義経が自刃し、奥州藤原氏が滅亡した翌年だ。芭蕉にとっても敬愛する旅の歌人だった。だが、なぜか芭蕉は、平泉の場面で西行の「さ」の字も記していない。そのため失念していたが、奥州の栄華と滅亡の、いわば目撃者。「西行は何を思っただろう」と考え、ふと思い当たった。

芭蕉は、彼の存在を消し去ったのではなく、逆に自身と重ね一体化を試みたのではないか。

 西行が、江戸時代の芭蕉に憑依(ひょうい)し、滅亡した平泉を見たなら何を思うか―。芭蕉の平泉紀行は、そんな仮想実験ではなかっただろうか。ならば、西行にふれなかったのは当然。芭蕉の言葉は、西行の言葉だからだ。

 西行にとって、平泉は未開の奥州に出現した新世界だったろうし、時代を切り開く人々の活気を感じたはずだ。しかし500年後は、荒涼とした風景があるだけ。無常とともに、失望も感じただろう。滅亡を傍観するしかなかった自身の無力を嘆いたかもしれない。だから、残された光堂に希望を見た...。

 まあ、記者の妄想である。真実は、平泉の草むらだけが知っていよう。

平泉

 【 道標 】義経、西行の足跡たどる

 この町を訪れる方々は皆「おくのほそ道」の平泉の場面に心ひかれるようです。一方、松尾芭蕉は、源義経や西行法師にひかれ、この地を訪れました。

 西行は、義経と同じ平安末期から鎌倉初期の人物で、芭蕉が憧れた旅の歌人です。平泉には、奥州藤原氏第3代秀衡公の治世に2度訪れました。そして〈きゝもせず束稲山(たばしねやま)のさくら花よし野の外にかゝるべしとは〉の一首を残しました。

 束稲山は、義経最期の地、高館から東に見える山です。西行の歌から当時、桜の名所だったことが分かります。今は再び、桜の名所にしようと地元で植樹などが行われています。

 時を経て芭蕉は、この束稲山を望む高館で、義経たちを思い涙を流しました。

 芭蕉が平泉を訪れた1689年は、義経が亡くなって500年後、西行が亡くなって499年後の年でした。ですから私たちは「おくのほそ道」の旅自体が、義経と西行の足跡をたどる旅だったのだと解釈しているのです。(古都ひらいずみガイドの会理事・束稲山吟社会長・岩渕洋子さん)


https://wabisabi-nihon.com/archives/18271 【松尾芭蕉が「奥の細道」平泉で感じたこと★無常観が表れた2つの名句を味わおう】より

松尾芭蕉と言えばあなたは、どんな俳句を思い浮かべますか?

古池や……?五月雨を……?私は、この句です。夏草や 兵どもが 夢の跡

この俳句が、いちばん歴史浪漫を感じるんですよ!

奥州藤原氏ですよ。源義経ですよ。『平家物語』ですよー!「夢の跡」というフレーズが、じーんなのです。今回は、この俳句について、お伝えします。

『奥の細道』

松尾芭蕉は、江戸・深川を出発してから44日目、5月13日(新暦6月29日)に、奥州平泉を訪れ、夏草が生い茂る荒野の風景を目の当たりにしました。

岩手県南西部に位置するこの地は、11世紀末から12世紀にかけての約90年間、藤原清衡(きよひら)に始まる奥州藤原氏が、栄華を極めた都市です。そして、兄・源頼朝に追われた義経が最期に身を寄せた場所でもあります。

この地に立って、芭蕉は、500年前に滅んだ藤原三代の栄華と源義経の最期に、想いをはせたことでしょう。

杜甫の名句「国破れて山河在り 城春にして草木深し」とつぶやき、時を忘れて涙を流したと、『奥の細道』に記しています。

芭蕉は、この平泉で2つの俳句を残しました。

(1)夏草や 兵どもが 夢の跡

まずは、平泉の荒野で一句………「夏草や 兵どもが 夢の跡」

(意味)高館にのぼってあたりを見渡すと、藤原氏の栄華の痕跡はあとかたもなく、ただ夏草が茂る風景が広がるばかりだ。(この夏草を眺めていると、すべてが夢と消えた儚さに心が誘われるなあ)

自然(夏草)と人事(兵どもが夢の跡)が、対比的に用いられています。

人間の思うこと・やることは儚く消えゆくのに、自然は何があっても変わらずたくましく存在しています。『平家物語』の諸行無常をに通じるものがありますね。

ちなみに、ここで同行者の河合曾良も句作しています。

「卯の花に 兼房みゆる 白毛かな」

義経主従が藤原泰衡の軍勢と戦ったとき、白髪を振り乱して、勇猛果敢に戦った兼房について詠んだ曾良の句です。

義経の老臣・兼房は、高館最期の日に、義経一家の最期を見届けた後、館に火を放ち、敵の大将ともども火の中に飛び込み、壮絶な最期を遂げたと伝わります。(架空の人物ともいわれます)

白い「卯の花」から「兼房の白髪」を連想して、当時に想いをはせて詠んだものですね。

(2)五月雨の 降り残してや 光堂

続いて、芭蕉は平泉の中尊寺を訪れ、美しい金色堂を参詣しました。ここで詠んだ句は、先の「夏草や~」とセットで出されることが多いです。

「五月雨の 降り残してや 光堂」

(意味)あらゆるものに降り注ぎ、朽ちさせる五月雨も、この「光堂」にだけは雨を降らせず残してくれたかのようだ。500年経っても「光堂」は色あせずに美しいままだなあ。(光堂(ひかりどう)は、中尊寺の「金色堂」を指します。)

この句も先のと同じく、移り変わる人の世と、時が流れても変わらず光り輝く「光堂」との対比が、感じられますね。

おわりに

松尾芭蕉は、この平泉に午前中3~4時間ほど滞在したようです。

『奥の細道』に記載されているのは、ほぼ史実どおりですが、経堂はこのとき実際は閉じられていて、芭蕉は中を見ていません。経堂に「三将の像」があると記していますが、実際にあるのは光堂です。これは、芭蕉が勘違いしたのだろうといわれています。

ちなみに、当時、金色堂(光堂)を保護していたのは、やはり仙台藩伊達家でした。


https://fm834.jp/%E7%BD%AE%E8%B3%9C%E3%81%82%E3%82%8C%E3%81%93%E3%82%8C%E3%80%80%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%AE%B6%E3%81%A8%E9%AB%98%E7%95%A0/ 【置賜あれこれ 伊達家と高畠】より

第1話「はじめに」

高畠町を含む置賜地方は、長きにわたって伊達氏の支配下にありました。

それは、江戸時代の前に伊達氏8代宗遠が奥羽山脈を越えて高畠町に侵入してから、17代独眼竜政宗が宮城県岩出山、そして仙台に移るまで210年余もの間でした。

伊達氏は、元々、現在の茨城県 常陸国真壁郡伊佐の荘中村に住んでいて、中村と名乗っていました。

伊達氏の初代は、中村朝宗という人でした。

時は源氏と平氏の戦い 源平合戦。

源氏の棟梁 源頼朝が兵をあげ、弟 源義経の大活躍もあり、壇ノ浦の戦いで平家をを滅ぼしました。

しかし頼朝と義経の兄弟は不和となり、義経は行方不明。

奥州平泉の藤原氏に匿われていることが判明し、頼朝は平氏に続き奥州藤原氏を打とうと決意し18万人という大軍を率いて攻めてきました。

これが奥州合戦と言われています。

第2話「奥州合戦」

藤原氏は、現在の福島県国見町厚樫山に三重の堀を掘って、阿武隈川の水を引き防御陣を造りました。

また福島市石名坂には、一族の信夫佐藤氏 佐藤元治を大将として源頼朝軍を迎えました。

この戦いに、のちに伊達氏の初代となる中村朝宗が4人の息子を連れて参戦。

石名坂の戦いで敵の大将 佐藤元春治を討ち大手柄をあげました。

この戦いは源頼朝の大勝利となり、奥州藤原氏は滅亡したのです。

戦いのあと中村朝宗は、敵の大将を討ち取った論功行賞、褒美として伊達郡を与えられました。

そして今までは常陸国は長男に与え、自分は次男を連れて伊達の土地に住み姓を伊達と改めました。

初代伊達氏、伊達朝宗の誕生です。

その後、伊達氏は徐々に勢力を広げて支配地を拡大し、伊達氏8代宗遠の時に奥州山脈を越えて高畠に攻めてきたのです。

当時この地を支配していた長井氏を追い払い、高畠にあった高畠城を大事な城の一つとしました。

その後も更に領土を拡大し、以後17代伊達政宗が豊臣秀吉の命令で宮城県岩出山に移るまで210年余りこの地を支配してきました。

第3話「高畠城を築いた理由」

なぜ、50キロ以上といわれた険しい奥羽山脈を越えてまで攻め入り、高畠町の高畠城を本城としたのでしょう。

それは、伊達氏が本城としていた桑折町西山城から置賜に攻め入るのに地理的に一番良かったから、また、この置賜が実り豊かな土地だったからと思われます。

1200年頃、高畠の地は屋代の荘と呼ばれ、摂関家藤原氏の支配地で、荘官 (管理人)は奥州藤原氏でした。

高畠城を築いたのは、奥州藤原氏の3代秀衡のいとこ、日詰五郎李平です。

当時、荘園と呼ばれたのは、豊かな土地だった証拠だとされています。

伊達氏が攻め入ったとはいえ最初は不安定で、平定するまで5年ほどかかったそうです。

そこで、もしもの時には伊達氏の本城桑折町に近く、守るに都合がよい険しい奥羽山脈をひかえ、多くの武士も住める高畠に攻め入ったのです。

その後、高畠城を本城をしてさらに領土を拡大、平定していったのでした。

第4話「高畠と伊達氏」

伊達氏は、親子同士の戦いなど苦しい時もあり、15代晴宗の時代に本城を米沢に移しました。

有名な17代独眼竜政宗は米沢城で生まれています。

この米沢城は、館山にあったようです。

政宗は、生まれは米沢城でしたが、少年時代に伊達氏の菩提寺である高畠町夏苅の資福寺隣の政宗館に住んでいました。

父輝宗が呼んだ資福寺住職の虎哉和尚から、後に政宗の片腕といわれ、白石城主となった片倉小十郎などとともに学問を授けられました。

残念ながら資福寺は、政宗が落ち着いた仙台市北山に移されたため現在は資福寺跡となっていますが、輝宗と殉死した遠藤元信の墓が残されています。

8代宗遠とともに高畠に攻め入った9代政宗は、儀山政宗ともいわれ、17代は貞山政宗と区別されています。

儀山政宗夫婦の墓は、高畠町の野手倉にあります。

また、伊達氏中興の祖といわれた勇猛な武将だったというので、貞山政宗はこの先祖の名前からとったといわれています。

第5話「17代政宗」

独眼竜といわれた17代政宗が、なぜ置賜を去り初代仙台藩主となったのでしょうか。

政宗は天下取りを夢に福島県南部を攻めました。

しかし時世は、本能寺の変で織田信長が討たれ、事実上の後継者となった豊臣秀吉が勢力を拡大していました。

秀吉は、政宗に戦いをやめて自分が攻撃している小田原に来るようにと連絡をしてきました。

ここで秀吉のところに行くということは、秀吉の臣下になるということです。

とても悩みましたが、小田原に行き秀吉に頭を下げ従うことを決断しました。

後に宮城県北部 葛西大崎地区に激しい一揆が起こりました。

これに陰で政宗が支援しているという疑いが出て、秀吉から、今までの伊達家の支配地はすべて取り上げる、そして葛西大崎地区を与えるとの命令が出されました。

210年余も支配してきた伊達郡、置賜郡をから去りたくないと色々運動しましたが、天下人豊臣秀吉の命令に逆らえず、やむなく岩出山城に移りました。

しかし、しばらくして ここは領地の北に寄りすぎて不便だということで仙台に青葉城を築き、ここを本城をし、17代政宗は初代仙台藩主となったのです。