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中国生活 1988年-1989年

2017.06.26 05:40

 当時書いたまとめ-3  戦争の傷跡

 私が留学して間もない頃、万里の長城で空き缶を集めるお爺さんに出逢った。我々がジュースを飲んでいると「かん、かん」と言って近寄って来た。我々は興味半分でなぜ日本語が話せるのか尋ねた。その人は中国語ではなく、ゆっくりと日本語を思い出しながら、昔日本人に習わせられたと語った。

 またそれから1週間後に土産物屋に行った時も日本語で話しかけてくる老人がいたので、反射的になぜ日本語が話せるか聞いてしまった。その老人も戦時中に日本語を習わせられたと言っていた。

 それ以降はそのような老人に出逢っても聞かないようにした。しかし、それ以降何度か列車旅などでそのような人たちと知り合いになったが、彼らは自分から戦争時に習わせられたと語った。

 成都に留学していた人は、何度が日本人とわかると「日本は戦争中、中国に酷い事をした!」と罵られたそうだ。その人が、南京へ留学先を変えた後は、町中で南京の人に罵られる事はなかったそうであるが、記念館の周辺では地方から観光に来た人たちから、日本人は厳しい目で見られ、喧嘩にもあった。桂林で子供にガイドされていると、突然抗日戦争展をやっている所に連れて行かれて「これはお前たちがしたことだ!」と言われた。

 留学生が集まるとそのような体験談を皆話していた。

 我々の留学先に60-70歳くらいの日本人が数名いた。その人たちは皆、戦時中に中国と関わった人たちであった。兵士として中国に来ていた人も数名いたが1名を除いて皆、当時の事を反省していた。1人は、当時の事を自慢げに話していた、あまりにも非情な事を話していたので、ここで書きません。

 東北地方で終戦を迎え、ソビエト兵に怯えながら、日本へ逃げ帰る状況を生々しく語る老婦人もいた。当時のソビエト兵の振る舞いはとても耐えられない。東北地区の中国の人も当時、ソビエト兵の方が悪かったと言う人もいた。