椿は日本から
http://catubaki.blog101.fc2.com/blog-entry-21.html 【ジャポネイラって何?】より
皆さん、こんにちは今日は、ジャポネイラのお話。ジャポネイラってどういう意味だろう。
日本的な感じ? 何語かなぁ。と、疑問に思われている方も多いのでは?
実は、ポルトガル語なんです。もともと「日本から来たもの」という意味です。
ポルトガル北部にあるポルト市という町をご存知でしょうか。リスボンに次ぐ、ポルトガル第二の都市で、その市街地は、ポルト歴史地区として世界遺産に登録されています。
美しい街並み・・・このポルト市近郊に、巨大なヤブツバキの古木があります。
その名もカンポ・ベロ・カメリア。カンポ・ベロ伯爵邸の庭に植えられています。
諸説あり、本当の所はわかりませんが、一説には樹齢400年とも言われています。
この町では、はるばる日本から渡来したツバキのことを、昔から親しみを込めて「ジャポネイラ」と呼んでいます。
それにしても、なぜこの町にヤブツバキの古木があるのでしょうか。
そもそも日本とポルトガルとの交流は、1543年、ポルトガル人の種子島漂着が発端です。
このとき、ポルトガルからやってきたのが火縄銃。以来、人も物もさかんに交流しました。
そして、日本からポルトガルに旅立ったものの中に、ヤブツバキの種があったといわれています。
このヤブツバキは西欧では大変に珍重され、当時の王侯貴族の間ではひとつのステータスシンボルとなっていました。なるほど、カンポ・ベロ伯爵邸にあったのはそいう訳なのね。
やがて、ヤブツバキを母に品種改良が繰り返され、ヨーロッパでは椿の花を愛でる文化が開花しました。いまや園芸種といわれる品種は3万2千種あるとか…。
これからもどんどん増え続けることでしょう。
もしヤブツバキが、日本からはるばる海を越えて旅をしなかったら、西欧の上流社会でもてはやされることもなく、ヴェルディの有名なオペラ「椿姫」も生まれなかったかもしれません。
今年は、日本ポルトガル修好通商条約150周年にあたります。
一年を通して、いろいろな催しがあるようです。ポルトガルと伊豆大島。
「ツバキが取り持つ縁を、何か形に出来るといいなぁ」と思っているカメリアちゃんデス。
http://chimotoportugal.blog76.fc2.com/blog-entry-384.html 【椿は日本から】
「 ホ゜ルトカ゛ルのつばきの花 」
「ホ゜国」の椿の花は、日本や中国よりもきれいに咲く、と言えるほどみごとな花を咲かせる。開花期間も長く、12月から咲き始め、次々と種類の違う花が2月3月をヒ゜-クに、4、5月まで続く。
山茶花は、7月8月に開花する。種類の違う樹が数ヶ月に亘って開花するので、全体の開花期間としては半年におよぶ。
一種類の開花期間も日本より長く、したがってこの国民には゛ポトリと落ちるから不吉だ゛というような感情は生まれない。
樹の丈も高く伸び、花のサイズも大きい。赤色系統の方があざやかに咲く。南のリスボン周辺より、北のホ゜ルト周辺にこの傾向がある。
世界的には8000種類もあるバラエテイィの中で、1900年代のホ゜国にはすでに600種類以上も観察されていた記述があり、その中の180種ほどはホ゜国でHBされたものであった。
「 椿の花の名の由来 」
椿の花の名をホ゜ルトガル語では一般的にはJaponeiraという。日本の戦国時代、日本で殉教した.ハ゜シェコ宣教師が1626年にホ゜ルトガルに送った書簡に、日本の国名をJaponと書いてあり、当時の国名がJapaoではなく「ジャポン」であった事がわかる。
「Japoneira」が日本の国名から派生したことと、椿の苗を中国からではなく、日本から持って来たことを物語っている。
同時にCamelia Japonicaとも呼び、さらにRosa Japonica、Rosa do Japaoとも使われる。
Cameliaという方の語源は、人名に由来している。ジェス゛イト派のGeorg Kamel( 1661-1706)が、17世紀後半に東南アジアで椿の研究を行い大きな足跡を残した。彼の死後30年後、その功績を称え、名前のKamelに llusを接尾語に加えて花の名前とした。ホ゜語では
Cameliaとなる。以上のとうり、通称名がJaponeira で、Cameliaは学名として後年使われるようになった。
「 椿の原産地と欧州への移植 」
椿の原産地は、中国、韓国、日本、その他の東南アシ゛ア諸国。椿を最初にアジア以外の国、欧州に移植したのは、ホ゜ルトガル人であるとするのが定説。樹齢350年以上とされる椿の古木が、ホ゜ルト市の河の対岸のガイア市に現存している。ワイン.セラ-が立ち並ぶ中腹に、Paço de Campo Beloという旧家の広大な屋敷がありその庭園内にある。この旧家は、中世のホ゜ルト市の守備隊司令官の子孫で、当代は22代目という。移植した年代が1645年前後
であるとすれば、この樹が、ホ゜国の椿の元祖/イコ-ル欧州のつばきの元祖と呼ぶことが出来よう。「ホ゜ルトはCameliasの祖国である」という文献も残っている。それほど広範囲に亘って殖えられていた。しかし、17世紀後半から18世紀にかけては、大商人か、貴族など富裕層の屋敷や別荘地などに植えられ、民間人にはずっと後年になってから移植された。
欧州は、冬に開花する花が少ない。冬の灰色風景の中で、椿は深い濃緑の葉を光らせ、そして紅白の美しい花を大量に咲かせて周囲を明るくしてくれる。まさに゛花を添える゛の実例で、これがつばきの大歓迎された原因であるようだ。
「 ギネ―ス.ブックに載った椿 」
ポルトガルの多くの都市や地方で、{椿祭り兼品評会}が毎年開催されている。ポルト市、Celorico de Bastos などが伝統的に知られている。地域によって異なるが、2月、3月とフェスチハ゛ルが続き、椿はまるで゛国花゛のように国民から愛されている。そうした中で、個人で3万8千本もの苗を育てた奇特な人がいる。育てた種類も1365種類というもので、個人のコレクションとしては欧州一とされる。
一箇所の土地に、一本も同じ種類がないという植え方をし、それがギネ-スに載るきっかけになった。
「緑色の椿 !!」」
この人は日本をはじめ、世界各国から苗を取りよせては新種のHBも行なうが、その過程で、まったく偶然だが、緑色の花を咲かせた新種が誕生したのである。緑色の椿の花は、おそらく世界でこれ一本しかないのでは。この人の名はPaulino Curvalさん。72歳。 ポルト市から60kmほど北にVila doCondeという地方の町があり、そこからさらに内陸に向かって8kmの所にある村のVilalinhoという農村である。
「つばきはわしの娘だ」が彼の口癖。私は密かに彼のことを゛椿男゛と思っている。日本から゛金花茶゛という名前の苗など20種類ほど取り寄せるお手伝いをした間柄のアミ-ゴ。
ポルトガルの墓地
「 つばきの短歌 」
ポルトガルの椿の花を短歌に詠んだ日本人がいる。
一首は、地面に散った花びらを詠んだもの
゛公園の歩道に並び咲く椿 散りし花びら芝生を染める゛
二首目は、やや怪訝に思われるかも知れないが、墓地を詠んだもの。ポルトガルのお墓/墓地は、世界でも珍しいほど綺麗に清められ、一年中花が絶えることがない。特に、地方の町や村の墓地では、毎週のようにして花を供え、先祖を偲ぶ姿が見える。
その先祖を大切にする心に感動した歌。
゛霊前に絶ゆることなく四季の花 この国の墓所冬日に映える゛
「南蛮人」が、椿をはるばる日本から持ち込んだ事への感慨。
゛大航海名残の遺産つばき花 紅や白咲く南蛮の地に゛Paulino Curval さんのサイトはこちら。ただしポルトガル語。また、本数などの数字がまだ更新されておらず、日本語でここに
書いたものが正解で、私が゛つばき男゛さんから3月に聞いて来たばかり。(略)
https://ameblo.jp/toudou455/entry-12527701179.html 【伊達政宗の鉄砲と仙台糒】より
仙台藩の藩祖は,稀代の英雄,独眼竜伊達政宗である。政宗公は、鉄砲を重視し,鉄砲の保有拡大と鉄砲隊の充実を推し進めていった。当時有名な鉄砲生産地の近江国友村から鍛冶職人を領内に招いたのもその一つである。政宗以降,仙台藩は,莫大な数の鉄砲を生産するなかで,独特な形状を持つ特徴豊かな鉄砲を作り上げた。現在,この鉄砲は,仙台筒と呼ばれている。
口径四匁の仙台筒
伊達政宗は、鉄砲ばかりでなく,戦兵糧の改良増産にも力を入れた。仙台味噌はその好例だ。このほか,正宗は,戦兵糧にするため上方の技術を導入して道明寺糒を参考にして糒(ほしいい)の改良も行っている。糒とは,もち米を蒸して日に干したものである。これに水や熱湯を注ぐと,もとのご飯のように柔らかくなる。いってみれば,今のアルファ米のようなものだ。軽量で長期保存が効き,火を使わずとも食べられるから,合戦の兵糧や旅の携行食として,昔から重用されていた。
写真引用 株式会社 綿惣 shop.wataso.com/?pid=103195851
伊達政宗やその嫡男の忠宗も鉄砲の名手であったが、両人とも治世の名君でもあった。天は,気に入った人物には,二物も三物も与えるらしい。政宗が技術導入して作り上げた糒は,守成の名君と呼ばれた嫡男忠宗が受け継ぎ,世に仙台糒と謳われるほどの特産品に育っていったのである。上質をもって知られた仙台糒は,伊達家から幕府や朝廷への献上品ともされた。
仙台糒は,道明寺糒が粉にして桜餅が作られるように,菓子の原料にも用いられた。今でも仙台駄菓子には糒を材料にした『干切 ( ほしきり) 』という菓子がある。名君の功績は,今も仙台の町に息づいている。
https://tokushima-kayaku.com/category2/entry6.html 【火薬と花火の起源及び日本への伝来】より
火薬の起源については諸説がありますが、中国の秦の始皇帝が全土を統一した際に、北方民族・匈奴の侵入を防ぐために築いた万里の長城の要所要所に掲げた「狼煙(のろし)」として硝石を利用したのが始まりという説が有力です。その後、年代ははっきりしませんが皇帝が命じた不老長寿の薬を作ろうとする過程で、偶然に硝石を用いた黒色火薬が発明されたと言われています。
やがて、中国では火薬を武器としての利用したり、花火として発達していきました。中国で発明された火薬や花火は、やがてシルクロードを通りイスラム諸国を経て、12世紀後半にヨーロッパへと伝わります。
ルネサンス期のヨーロッパでは、キリスト教の宗教行事に花火を利用することで、お祭りを盛り上げるのに効果的であったことから、都市の発達や商業資本の隆盛を背景として、ヨーロッパ全域に急速に広がっていきました。
16世紀にはイギリスのエリザベス1世がワーウィック城やケニスウォース城で大花火を楽しんだことや、17世紀のロシアのピョートル大帝がモスクワで大花火を開催し、花火研究所まで造ったなどの記録が残されています。
ところで、日本で火薬や花火が伝来してのはいつ頃だろうか。?
日本で初めて火薬が使われたのは、鎌倉時代中期の二度にわたる元寇(文永の役、弘安の役)で「蒙古軍」が使用した「てつはう」という火薬の武器であったと考えられています。
その後、16世紀に種子島に火縄銃とともに火薬の製造の技術が伝わります。このように、当初はもっぱら火薬は武器としての使用でした。織田信長が活躍した戦国時代、日本の鉄砲の数は、ヨーロッパ全体の数を凌駕するほどだったと言われています。
火薬の平和的な使用として花火が登場するのは、戦国時代とも、江戸時代とも言われています。
では、日本で最初に花火を見た人物は誰でしょうか。?
慶長18年(1613年)イギリス国王ジェームス1世の使者が徳川家康に花火を献上したという記録や、同年に駿府城で家康が明の商人による花火を見学したという記録などが残っています。
こうしたことから、家康が花火を最初に見た人物だとされていました。そして、このときの花火は竹筒から火花が噴き出すタイプのもので、家康の家臣がこの技術を三河に持ち帰ったことで、この地域で手筒花火が盛んになったと言われています。
この流れを受けて、今でも愛知県の東三河地方や静岡県の浜名湖周辺では、手筒花火による大会が行われています。
ところが、最近になって徳川家康よりも前の、天正10年(1582年)キリシタン大名の大友宗麟がポルトガルのイエズス会宣教師に花火を打上げさせ人々を驚かせたという記録や、天正17年(1589年)に伊達正宗が米沢城で唐人による花火を楽しんだという記録などもあるようです。
こうしたことから日本で初めて花火を見た人物は、大友宗麟ではないかと思われます。
夏の風物詩”花火”のルーツは江戸時代の大飢饉
夏の風物詩といえば花火だと言われています。全国各地で趣向を凝らした花火大会が開催されていますが、皆さんの中にも夏の夜空に輝く花火を心待ちにしている方も多いものと思います。
しかし、夏は蒸し暑く、屋外には蚊が多くいます。一方、春や秋は夜も過ごしやすく空を見上げてもすっきりと気持ちが良いものです。しかし、花火が春や秋でなく、夏の風物詩になったのはなぜなんでしょうか。?
そのルーツは東京三大花火大会の一つに数えられ、毎年7月最終土曜日に開催される「隅田川花火大会」にあります。
それは、江戸時代、今から遡ること約300年前、亨保の改革(幕府財政の立て直し、目安箱の設置、町火消しの制度化)で知らる第8代将軍・吉宗の時代でした。
亨保17年(1732年)、西日本一帯で長雨と冷夏により、収穫前の稲にウンカという害虫が発生し、稲作に甚大な被害がでました。『徳川実記』によると、飢饉による餓死者は全国で97万人にも及び、米価の高騰で困窮した江戸の民衆による打ちこわしなどの暴動も発生しました。
当時の人々は、このような飢饉などの災厄は悪霊のの仕業と考えていました。
そこで、将軍吉宗は翌年の亨保18年(1733年)5月28日、両国(隅田川)の川開きの日に「水神祭」を開催し、大飢饉で犠牲となった人々の慰霊と悪霊退散を祈願しました。その際に花火を打ち揚げたことが、現在の花火大会の由来になったと言われています。
このように花火には、灯籠流しなどと同様に鎮魂の意味があります。花火大会が先祖や亡くなった人達の霊が帰ってくるとされるお盆の時期に集中しているのはこうしたことによるものです。
徳島の花火の歴史
戦国時代から江戸時代にかけて、阿波国(徳島)でも火薬はもっぱら軍用の武器として使われていました。徳島県の勝浦川や那賀川沿の流域には火薬庫が設けられ、火薬も製造されていました。
江戸時代に入り戦乱の世が終わり平和な時代が訪れると、火薬は次第に武器からそれ以外の用途にも使われるようになりした。
花火もそのうちの一つで、これらの地域では花火業者が誕生し、職人達がより美しい花火を作るために試行錯誤し、競い合って発展させてきました。
現在、徳島県内の小松島市や那賀郡、海部郡などで製造されている花火の中には、藩政時代から吹筒の技法が代々伝えられたものがあります。
四国では徳島県が花火発祥の地と伝えられており、現在では、西日本有数の花火の生産地となっています。
花火の日
第二次世界大戦終了後、日本を占領したGHQ(連合国総司令部)は日本の再軍備を恐れ、火薬の所持や花火大会の禁止を命令します。
これは、花火といえども火薬であり、花火を許可することは、火薬の軍用化に道を開くとの考えがあったものと思われます。
一方、GHQはアメリカの独立記念日には、特別に日本の職人に命じて、日本国内にあった米軍基地で花火を打ち揚げさせることもあったようです。
花火の製造業者は、日本の伝統文化にもなっていた花火の製造及び花火の打ち揚げの復活を再三再四GHQに陳情します。日本の花火に魅了されていたGHQは、製造業者の訴えに耳を貸し、昭和23年8月から限定的ではありますが花火の製造と販売を解禁します。
これに伴い、昭和23年8月1日、両国川開き大花火が復活することになりました。そして、この日を記念して、8月1日が花火の日に制定されました(昭和42年制定)。
このほか両国川開きが旧暦5月28日であったことから、5月28日も花火の日となっているのです。