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中国生活 1990年

2017.06.28 02:03

 1年後の中国-2

 空港からタクシーで学校へ向かった。タクシーとの話しで、あれ以降外国人がかなり減り、タクシーの数がかなり減った。残った運転手も前ほど忙しくないそうだ。後に自分でもそれは実感した。例えば、以前であれば北京飯店で夜10時を過ぎてもかなり多くのタクシーを見かけたが、今回は夜9時以降はまばらにしかタクシーを見受けられなかった。

 学校も変化が見られた。1年前、いちばんぼろかった寮がいちばん綺麗な寮になっていた。私が過ごした寮は改装中であった。学校内の銀行は多少位置を変えて、中の行員の態度が多少良くなっている印象であった。先生の待遇を改善する為に新しい先生用の住居が建てられてた。

 よく通った学校前の闇両替屋は、表の商売の籠屋から写真の現像屋に変わった。その通りは他にも現像屋に商売替えした所が2件あった。

 兌換券の闇両替レートは、前回帰国時1.8倍であったが、1.2倍にまで下がっていた。

 町の印象は、新しく高層のビルが建てられ、アジアオリンピック用の施設も急ピッチで建設が進められていた。

 北京でのアジアオリンピックは、90年の9月22日開幕。それに向けてサービス向上が各地で叫ばれていた。それが、機内や銀行で感じとった態度向上の理由であろう。

 当時いちばん有名はエピソード(サービスの問題)がある。レーガン大統領が北京を訪問した時の事だ。ナンシー・レーガン大統領夫人が北京で買い物をした際、店員からお釣りをもらった。その時、店員はお釣りを投げ返した。居合わせたアメリカ関係者は騒然となった。店員は当然、彼女が大統領夫人だと知っていた。これは、お金を投げ返すという行為が何も問題ないと認識していたことになる。

 アジアオリンピックに向けて、国際水準のサービスに近付くために必死で教育をしていた。

今回短期勉強は、オーストラリア人が同室となった。