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花の香

2018.12.11 05:34

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/kane3.htm 【鐘消えて花の香は撞く夕哉】より

(新撰都曲)

(かねきえて はなのかはつく ゆうべかな)

 貞亨年間(41歳~44歳)頃までの作。出典からして、もっと以後のものとする説もある。

 なお、この時期の制作年次不明のものとして、10句がある。

鐘消えて花の香は撞く夕哉

 鐘を撞くのであって鼻を撞くわけはないが、一句はそういう転倒をあえて用いている。入相の鐘がなり終えて静まりかえった春の夕べ、改めて花の香が鐘の音の余韻のように匂い立ってくる。

 正直のところ、良い句なのかそうでないのか良く分からない作品である。


https://www.kansai-u.ac.jp/Fc_soc/column_professor/detail.cgi?id=20050920142013 【芭蕉と共感覚】より

産業心理学専攻 雨宮 俊彦 教授

 もうだいぶ昔のことになってしまったが、大学時代、俳句のゼミに参加したことがある。毎週、俳句を作ってきて合評会をやり、それで単位になる。先生の人柄もあって楽しい授業だった。

 枯れ草の香や一色に冬の原

 まだクロ(黒い色の犬なのでそうつけた。)が生きていたころで、実家に帰省すると、近くの河原や野原につれてよく散歩に出た(散歩時間の近くになると尻尾を振って、いつも大はしゃぎだった。)。そんな大学時代の冬休み、クロをつれて散歩している時に、俳句のゼミの課題としてつくったものだ。枯れ草と冬が重なっているが、河原のまわりの野原があたり一面枯れ草色で、また枯れ草の香りがしたので、実感の句である。香と一色が、共感覚っぽいのが、ポイントだと思う。芭蕉の句を下敷きにしたような気がするのだが、自分でもはっきりしない。

 共感覚は、シートウィックの「共感覚者の驚くべき日常—形を味わう人、色を聴く人」草思社などがきっかけで、日本でも興味をもたれるようになった。音や文字に特定の色を感じたり、味の形を感ずるなど、異なった感覚属性の間に具体的な連合が、比喩や単なる印象としてではなく存在し、一方の感覚の刺激でもう一方の感覚が、同時に生じてしまうのが共感覚者である。共感覚者の頻度については色々な調査があるが、2万に一人くらいの希な存在である。

 Harrison、J. (2001)"Synaesthesia:the strangest thing." Oxford University Press.Harrisonの本では、共感覚か比喩かというタイトルの章で、ボードレール、ランボー、スクリャ−ビン、カンディンスキーなどと並んで、我が芭蕉がとりあげられている。鐘消えての句が上げられているが、英訳がわかりやすいので一緒にしめす。

 鐘消えて花の香は撞く夕哉  As the bell tone fades、 Blossom scents take up the ringing、 Evening shade.

 ここでは、消えゆく鐘の音(聴覚)が花の香(嗅覚)とまじりつつ、夕暮れ(視覚)に広がっていく様子が描かれている。Harrisonは、共感覚者では一方の感覚の刺激でもう一方の感覚を同時に感じる事を指摘し、この句で表現されている、鐘のringingから花の香のringingへの遷移は、共感覚者の経験の描写ではなく(他の証拠がないと芭蕉自身が共感覚者でないという結論は出せないがと断りつつ)、花の香のringingは比喩的な表現だと結論している。この結論は妥当であると思う。むしろ興味深いのは、西欧人の眼からみて、芭蕉が共感覚者かと真剣に問題にしている点である。

 芭蕉の共感覚的な俳句としては、「海暮れて鴨の声ほのかに白し」が有名である。Harrisonの本では「ありがたや雪をかをらす南谷」もとりあげられている。小西甚一(1998)「日本文藝の詩学」みすず書房によると、西欧は共感覚的な表現が用いられるようになったのは、ロマン派以降で、19世紀以前にはほとんど見られなかったらしい。そいういう点からすると、17世紀後半における芭蕉の共感覚的な俳句はかなり着目に値する現象らしい。

 芭蕉が共感覚者でなかったとすると、芭蕉はなぜ共感覚的な表現を用いるようになったのか?小西氏は、多くの文献を参照して禅林詩の影響を指摘している。禅では、概念やシンボリズムによってではなく、具体的身体的な経験そのものに密着し、これを組み替えることによる、あらたな視点の獲得、悟脱を目指す。禅林詩における共感覚表現技法はこうした背景から生まれたものである。もちろん芭蕉の俳句は仏教的思想の表現ではないが、芭蕉の俳句における共感覚的表現などに、感覚への密着を通じ、一種の日常を越えた視点を表現しようとしたものがあるのは、禅の影響によるものだろう。有名な「静けさや岩にしみいる蝉の声」などの句は、共感覚表現とは言えないだろうが、声が岩にしみいるという比喩、声の静けさという撞着語法がつかわれ、より禅語録に近い表現になっている。鐘消えての句でも、「花の香は撞く」という奇妙な表現は、比喩的な解釈も可能だが、「青山常運歩(青山は常に運歩する)」などの、禅語録における、常識的な概念図式の脱臼を行うような意図的なイロジカルな表現と近いものがあるかもしれない。


http://labellavitaet.blog40.fc2.com/blog-entry-162.html 【芭蕉と共感覚】より

共感覚についていろいろ調べていると気になる記事を見つけた。

共感覚と俳人・松尾芭蕉を取り上げている。

■芭蕉は共感覚者?

 Harrison、J. (2001)"Synaesthesia:the strangest thing." Oxford University Press.Harrisonの本では、共感覚か比喩かというタイトルの章で、ボードレール、ランボー、スクリャ-ビン、カンディンスキーなどと並んで、我が芭蕉がとりあげられている。鐘消えての句が上げられているが、英訳がわかりやすいので一緒にしめす。

 鐘消えて花の香は撞く夕哉

 As the bell tone fades、

 Blossom scents take up the ringing、

 Evening shade.

ここでは、消えゆく鐘の音(聴覚)が花の香(嗅覚)とまじりつつ、夕暮れ(視覚)に広がっていく様子が描かれている。Harrisonは、共感覚者では一方の感覚の刺激でもう一方の感覚を同時に感じる事を指摘し、この句で表現されている、鐘のringingから花の香のringingへの遷移は、共感覚者の経験の描写ではなく(他の証拠がないと芭蕉自身が共感覚者でないという結論は出せないがと断りつつ)、花の香のringingは比喩的な表現だと結論している。この結論は妥当であると思う。むしろ興味深いのは、西欧人の眼からみて、芭蕉が共感覚者かと真剣に問題にしている点である。

<<<芭蕉と共感覚より

もう一つ芭蕉の句と解釈を見てみよう。

 牛べやに蚊の声暗き残暑かな

 In the cowshed

 mosquito voices are dark

 the lingering heat

ここで興味深いのは、『芭蕉は共感覚を用いて“蚊の声暗き”という表現と”残暑”という季語から、夏の終わりとまもなく訪れる秋を予感させているのだ』と解釈しているところだ。しかしこれらは明らかに共感覚ではなく、共感覚比喩というべきだろう。

■ある俳句入門サイトで“construction techniques for haiku:Synesthesia (sense switching)/俳句の構成テクニック:共感覚(感覚の切替)”とあるのが、「sense switching」はある感覚を他の感覚を使って形容することを指し、この場合の「Synesthesia」も同様に共感覚比喩である。

[参考]詩人や小説家が多く共通に持っているものは共感覚ではなく比喩表現力である,BBC

比喩表現か否かは日本人ならば感覚的に分かりそうだけど。古くは和歌、百人一首や俳句のように、自分の中にある情景や想い・感性をルールの枠内でいかに豊かに表現するか。その創意工夫の中で日本語はさまざまな表現方法を模索してきたのだろう。「まったり」「こっくり」などフランスよりも日本の方が味の表現が多いと言われるのも納得。

■日本語と共感覚比喩(synesthesia metaphor)

体系

日本語において、共感覚比喩とは昔から言語学的に論じられ、体系化されている。共感覚比喩にみられる比喩の左から右への一方向性、つまり「一方向の右端に位置する視覚・聴覚の形容詞が、本来未発達で非常に貧弱であるために、他の感覚分野から借りるばかりで、それゆえ共感覚比喩に頼っている」という仮説は長く奉じられてきた。しかし、この「一方向性の仮説」に近年は反論の声も上がってきているのだが、そのあたりは共感覚と離れてしまうのでここまでにする。

[参考]比喩(メタファー)研究について

■芭蕉はなぜ共感覚比喩を用いたか

芭蕉と共感覚では「なぜ芭蕉は共感覚的な表現を用いるようになったのか?」という疑問に対して、禅の影響を指摘している。

>>>

禅では、概念やシンボリズムによってではなく、具体的身体的な経験そのものに密着し、これを組み替えることによる、あらたな視点の獲得、悟脱を目指す。禅林詩における共感覚表現技法はこうした背景から生まれたものである。もちろん芭蕉の俳句は仏教的思想の表現ではないが、芭蕉の俳句における共感覚的表現などに、感覚への密着を通じ、一種の日常を越えた視点を表現しようとしたものがあるのは、禅の影響によるものだろう。有名な「静けさや岩にしみいる蝉の声」などの句は、共感覚表現とは言えないだろうが、声が岩にしみいるという比喩、声の静けさという撞着語法がつかわれ、より禅語録に近い表現になっている。

<<<

この、『禅と共感覚表現;感覚への密着と切替』というキーワードでまたいくつかおもしろいエピソードを思い出したけど、それはまた別の機会に。。

参考資料

Synaesthesia and Synaesthetic Metaphors

Synaesthesia, metaphor and right-brain functioning

リルケの「世界内部空間(Weltinnenraum)」について


https://www.tokyo-blinds.co.jp/blog/2021/04/2003.html 【~エッセイ⑨ 共感覚②松尾芭蕉と共感覚~ 萩原光男】より

前回に続いて、色で音を感じるなどの世界、共感覚について話していきます。

「共感覚」の著者ジョン・ハリソンはこの本の中で、共感覚者として、色で音を、音で色を感じる色聴者に、作曲家のスクリャーピン、フランスの作曲家メシアン、抽象画画家のワシリー・カンディンスキーを挙げています。

彼等は共感覚者と特定されたわけではなく、彼等の作品などについて書いたコメントなどから、一部の人は共感覚を自覚していたのだとジョン・ハリソンは類推しています。

その中に日本人、松尾芭蕉もいます。

芭蕉も実際に共感覚者とされているわけではなく、「聴覚刺激や視覚刺激が瞬時に視覚・聴覚の共感的知覚を呼びおこす性格を個人が所有している」ことを論拠にしています。

実際に共感覚者とは定義できないがメタファーをつかって表現活動をしていた、ことに意味があります(メタファーの語は、心理学や哲学の分野では、精神分析の考え方に基づき、「行動や夢のイメージの置き換え」と訳すことができます)。

そうです、芭蕉は共感覚者とは定義できないが共感覚的感覚を持つ人、「自然への強い共感覚的知覚の持ち主」とジョン・ハリソンは言っているのです。そしてそれは日本人全体が共感覚的感性を持つ民族と定義できる、と私はその大きな意味を伝えようと思っています。

これについてはまた次回のテーマとするとして、今回は芭蕉の共感覚的な俳句の世界を味わっていきましょう。

鐘消えて 花の香は撞く夕哉

(消えてゆく鐘の音の振動が花の香と溶け合い、さらに夕暮れの薄闇の混じり合う)

有難や 雪をかおらす 南谷

(なんとありがたい、南谷には雪が残り、香らせている)

これらの俳句は、大自然を目にして聴覚・視覚刺激が「瞬時に」、視覚・聴覚的知覚を呼び起こした結果の詩句です。

日本人は特に色聴とは言及しませんが、欧米人には特異な感覚として映るようです。


https://pippins.exblog.jp/6830101/ 【祈りというもの】より

CD『アルボス(樹)』の、ライナーノート冒頭に、松尾芭蕉の俳句と、その英訳が挙げられている。

The temple bell stops  but the sound keeps coming out of the flowers.(訳者不詳)

鐘消えて 花の香は撞く 夕べかな   (松尾芭蕉)

芭蕉の句を誰が訳したのか、また、誰がこの句を載せようと決めたか。わからないが、この句はペルトの音楽を、実によく言い表している。

 鐘の音は止まる しかし響き続ける  その花々の間から  (上記英訳をぴぴん訳)

この句に続き、献辞が成される。

 In memory of Andrei Tarkowskij アンドレイ・タルコフスキーをしのんで

タルコフスキーは、ソ連の映画監督。ペルトと同世代だが、早くに亡くなった。

約二十年前、わたしの大学卒業の頃、最新作の『サクリファイス』が、遺作として上映された。『惑星ソラリス』や『ぼくの村は戦場だった』は既に見ていたが、『サクリファイス』には夢中になった。

千石の「三百人劇場」が、彼の作品の特集をした時には、そのメイキング版も見に行った。

ペルトが彼に自作を捧げたと聞けば、なるほどと思う。

ふたりに共通するものというと、その祈りの声だろうか。

今朝新聞で、パキスタンのベジナル・ブット暗殺の報に接した。

本当かとテレビを点けると、アフガニスタンのカルザイ大統領が、悔やみの声明を述べていた。本当に、殺されていた。嫌な世界だ。

タルコフスキーの映画『ノスタルジア』では、ひとりの男が、蝋燭の炎を守りながら、

この場所から、あの場所まで、歩き通そうとする。

風に吹き消され、吹き消されながら、やり遂げようとする。

それに意味があるかどうかは知らない。ただ、せずに居れない。祈りとは、そういうものだ。ブットの死が、せめて、暗殺者の思惑を越えた意味を持ちますように。


https://ori-japan.blogspot.com/2011/09/blog-post_05.html 【芭蕉と俳句と共感覚】より

今日は、俳句と共感覚について書いておきましょう。

共感覚とは何か?

家の近所にといっても2、3 Kmは離れていますが、芭蕉記念館なる建物が立っています。

隅田川のほとりに位置する芭蕉記念館あたりを散歩すると、芭蕉の詠んだ俳句が碑や看板になって道なりに配置してあり芭蕉の句が愉しめるようになっています。

それで、松尾芭蕉の詠んだ句を自分自身で読みながら味わってみると、この人は間違いなく、先天的な共感覚(synesthesia)を持っていたか、少なくとも共感覚を意識するような形式では俳句をつくっていたことが分かるようになってきます。

共感覚(きょうかんかく、シナスタジア、synesthesia, synæsthesia)とは、ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象をいう。 例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする。[1]

と定義されている感覚であり、先天的にこれを持っている人は、文字に色が見えたり、音に色が見えたりと五感の感覚が溶け合っている感覚を持っており特に芸術などでその天才性を発揮している人が居ると言われています。

また、共感覚を持っていないにしても敢えて共感覚を強化するような練習を行うことで何らかのコンテクストにおいて創造性が向上するのではないかというようなアイディアが浮かんでくるわけです。

俳句と共感覚

さて、「松尾芭蕉は共感覚者である、あるいは共感覚を知って利用していた」というような、私と同じ考えを思いついた人は他にいないのか?ということについて調べてみると以下のリンクなサイトが幾つか存在しており、松尾芭蕉の思考や知覚のプロセスにおいて異なる知覚を連結した共感覚についてかなり詳細に分析されています。

http://www.poetrylives.com/SimplyHaiku/SHv5n3/features/Ungar.html  

例えば、芭蕉の句である「海くれて鴨の声ほのかに白し」の知覚の部分を声という聴覚が白いという視覚にリンクされている共感覚について分析が行われています。[2]

 (2) Haiku by Basho (p. 55)

The sea darkens.

The voices of the wild ducks

turn white.

Bly's Commentary:

Basho mixes the senses

the auditory with the visual.

[synesthesia]

ここでは、知覚の表現の形式として、鴨の声という聴覚に対して、視覚的な評価が連結されており、言わば聴覚の感覚と視覚の感覚が溶け合った、リアリティのある情景が描写されています。

また、リチャード・シトウィックの著作「Synesthesia: a union of the senses」を読むと以下の句に見て取れる共感覚が紹介されています。[3]

鐘消えて花の香は撞く夕哉

 As the bell tone fades、 Blossom scents take up the ringing、 Evening shade.

ここでは余韻を残してフェードアウトしつつある聴覚的なお寺の鐘の音と、嗅覚的な花の香りが融け合い、夕暮れの空に聴覚的に広がっていく独特の世界が展開されています。

さて、このような句を味わいながら、芭蕉が俳句を創る場面を創造し、芭蕉の知覚・認識がどういうプロセスで動いていたのか?を想像すると非常に興味深いと思えてきます。

芭蕉は実際俳句で表現されている状況に身を置き、禅の純粋経験のように五感のチャネルを開き、今ココに居る、というような、経験を味わうというところから俳句を創り始めたように思ってくるわけです。

そして、まさに、芭蕉の経験のインデックス、あるいは知覚・認知プロセスの足跡である俳句を、自分の知覚・認知プロセスに戻して、自分の経験として思い描き、知覚の融け合った状態に戻すと、芭蕉の味わった心象が浮かび上がってくるという、何とも不思議な感覚が味わえるというわけです。

このように自分の知覚・認知プロセスに焦点を当てると、良い俳句とは読み手の想像力をかき立て、いくつかの知覚の感覚をミックスする形式でその情景を思い描かせる形式を取る必要があることが分かってくるわけですが、これを更に進めて、知覚を溶かすような共感を伴った純粋経験に戻すことでベイトソンのダブル・バインドを超えた新しい視座や世界観を身につける知覚・認知の補助線として俳句の利用はあるのではないかと考えているわけです。

文献

[1] http://ja.wikipedia.org/wiki/共感覚

[2] http://www.wisdomportal.com/RobertBly/Bly-Haikus.html

[3] http://books.google.com/books?id=fl6wX4xzb_kC&pg=PA320&lpg=PA320&dq=synesthesia+haiku&source=bl&ots=ih0tuHUdts&sig=0ow87ivfmM5iAPruSNhvyxyAqVk&hl=en&ei=dOJjTtOdEbD2mAW1oLynCg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=3&ved=0CCsQ6AEwAg#v=onepage&q=synesthesia%20haiku&f=false


http://npo-sannet.jp/blog/?p=684 【メタファーの生まれるところ】より

松尾芭蕉にこのような句があるそうです。

  鐘消えて 花の香は撞く 夕べ哉

(『脳のなかの万華鏡』リチャード・サイトウィック&ディビッド・イーグルマン、P247)

この句は有名だそうですが、私は知りませんでした。

 日が暮れ、薄暗くなったまち、鐘の音も消えていく。 あらゆるものの形がぼんやりしてきた すると、闇のなかから花の香りが私をつく(撞く、突く)。

  やがて私も夜に消えていくが、そのあと、香りだけが静かに残る。

 共感覚という現象を知る前にこの句と出会っていたら、芭蕉の大胆な修辞として片づけていたかもしれません。

 聴覚と視覚が、嗅覚と触感がクロストーク(混線)する世界で暮らす人がいるという現実。共感覚とは、人類が進化する過程で、あるいは子どもの成長プロセスでも生じる、普遍的な現象とつながっているかもしれないという仮定。

 このことを下敷きにしてこの句を読むと、たんなる作り物としてどこかの押入れにしまいこむわけにはいかないことに気づくのです。この世界の一部をしっかりとらえた表現、いやいやそれどこではなく世界そのものに違いないと思えてきます。

 『脳のなかの万華鏡』のテーマの一つは、人の認識は「知覚→共感覚→メタファー→言語」という連続体である、ということです。これは、わかりにくいですね。私にはたいへん興味深いことですが、うまく説明することは困難です。でもなんとか説明してみます。

 知覚(聴覚とか視覚など)はそれぞれが孤立しているのではなく、相互に作用します。相互乗り入れから混じり始めます。すると、知覚は複雑化し、快い音、美しい色、遊んでいるような葉っぱの水滴、笑っているような朝の光…このような世界が広がります。

 さらに、言語以前、しかし知覚を超えた領域ではメタファーが生まれます(ここがすごいと思うのです)。この領域は、哲学でいうところの「クオリア」に関係し、人が世界と結ばれるもっとも原初的な舞台でしょう(p28、218-227など)。

 しかも、この深い領域に学習(社会的作用)が働いていることを示唆しているのです(p299-304)。

 なんということでしょう! 私たちは集合としての人類として、あるいは一人の人間として、言語以前に「メタファーの世界」をもち、かつて、諸感覚と人間関係をクロストークしたというのですから。この領域から、名づけられた物、言葉、世界との結びつきそのものが生まれたというのです。

 私たちの意識や精神は、太陽系のはて、冥王星のはるかかなたで生まれ、長い時間をかけて太陽に近づき、激しく光り輝く彗星となんと似ていることだろう! と思うのです。

 芭蕉は共感覚者ではないかもしれませんが、彼はこの句を使って、私たちが思いこんでいる精神世界の表面をスッと切り開きました。あるいは、禅師がたたく警策(きょうさく)だったかもしれません。ほら! 気づきなさいよ、と。

 彼は、言語→メタファー→共感覚と逆進し、世界の懐に静かに沈んでいくよう、闇の雲の間から私たちをいざなっているのではないでしょうか。


https://sxcn.exblog.jp/23744330/ 【菊の香や 奈良には古き 仏たち/松尾芭蕉】より

秋九月、訪れた奈良を歩いていると、ちょうど花の季節を迎えた菊が、そのゆかしい香りを漂(ただよ)わせていた。この奥ゆかしい都の寺々には、古くから伝えられる仏様たちが、静かな微笑をたたえながら香(かぐわ)しい菊の香の中で鎮(しず)まっておられることだ。

菊の香、奈良、古き仏という微妙に異なる印象を含む三つの言葉を取り合わせ、それらが醸(かも)し出す微妙な調和によって、懐かしさや味わいを深めさせている。(秋・初句切れ)

※菊の香(きくのか)… 菊の香り。秋の季語。

※菊の香や… 菊のよい香りがすることだよ、と詠嘆を表している。

※切れ字… 「かな・けり・や」などの語で、☆句切れ(文としての意味の切れ目)、☆作者の感動の中心を表す。