わが心の大洗海岸|大洗町の歴史と自然を楽しむ会(田山 久子)
現在、大洗町に在住歴27年になる私は、隣り村である「常澄村」で生まれ育ちました。その「常澄村」は、平成の初めごろ合併して、現在は「水戸市」になっております。
特に私の生家は、「大洗街道」とも呼ばれる「国道51号線」の道路沿いにあり、毎年の海水浴シーズンには、我が家の前が常に「交通渋滞」している様子を、目撃しながら育ったようなものです。
そういう立地条件の土地だったため、通った小学校の「春の遠足」の行先は、毎年定番の「大洗海岸」でした。低学年の1~2年生は、観光バスで行きましたが、3年生以上は「徒歩」で行きました。
今の「常澄駅」付近に小学校があるので、そこから「小泉地区」を抜けて「湊大橋」を渡り、那珂川縁にあった「ドック」で休憩して、その後「海門橋」を渡って、「大洗海岸」の長い砂浜にたどり着くコースでした。
目的のポイントは、「磯遊び」のできる「岩」がたくさんある場所辺り。そこで、お弁当の時間まで、しばらく「自由遊び」となるので、子どもたちはみんな、「ワ~~!」と「磯」へ向かって走り、思い思いに、岩場にいる「イソギンチャク」や「小魚」などを探しては、ずっと遊んでいた記憶があります。
裸足になって、海の水に足を浸すだけでも、なんともいえず興奮していた思い出があります。空き缶に穴を開けて、針金を通して作った「入れ物」を全員持参していたので、そこに収穫物を入れては、友だちと自慢ごっこをしている人もいました。
やがて、お弁当の時間となり、砂浜にビニールの風呂敷や新聞紙などを敷いて座り、持参したおにぎりなどを食べ、終わると、帰りのバスを待つ間、上の松林の中にあった「公園」で、遊ぶのがコースでした。
小学校の六年間、ずっと同じコースでしたが、全く「飽きる」ことはなく、新学年になり、「春の空気」を感じるようになると、「もうすぐ、春の遠足だ~!」と、ウキウキ気分になり、楽しみに待ったものでした。
また、夏休みになると、地区の子ども会で、毎年どこかに日帰り旅行をする習慣になってましたが、その小学校の場合、どこの子ども会も、行先はほとんど「大洗海岸」でした。夏の海水浴の場合は、ずっと並んでいる「海の家」の一軒を予約しておいて、親たちはそこで待機しながら談笑していたり、子どもたちは、海に入って遊んでいたりと、丸一日、それはもう時間を忘れて、楽しんだ印象が、今でも残ってます。
「大洗海岸」は、たぶん「大洗」に住む地元の人たちよりも、むしろ、その近隣の住民たちにとっての「楽しい場所」だったのではないかと、つくづく思われます。
県内の、少なくとも中央地区は元より、ほぼ全体の地区から「遠足のコース」に選ばれていただろうし、栃木、群馬などの「海のない県」からは、「臨海学校」の形で、「水浜電車」の頃から受け入れていた資料も残っているようです。私が、実家にて目撃していた他県からの、車のナンバーも、東京、栃木、群馬方面の物が多かったと記憶しております。
江戸時代の、水戸黄門こと「徳川光圀公」も、「大洗海岸」を見て「歌を詠んでいる」くらいだから、それこそ400年以上も昔にも見えた景色。しかも、その後も、与謝野晶子、正岡子規、西条八十、井上靖、山村暮鳥、と、数々の文人墨客が訪問しては、愛でてくれた「絶景」。それが今も「見える」ことが、大変貴重なことと思われ、その「遺産」のような景色を、次の子どもたち、孫たちにまで「繋げていく」ことこそ、現代に生きる我々の「使命」なのではないかと考えます。
遥かな悠久の時間をかけて、多くの人たちが愛し、守ってきた景色を、ほんの少しの「軽い考え」で、「見えなく」してしまったり、「壊して」しまうことが無いよう、説に願うものであります。
著者|田山 久子(大洗町の歴史と自然を楽しむ会)
登録者|田山 久子(ONCA)