"明智平”にまつわる明智光秀を巡る伝説
https://tabiiro.jp/likes/articles/view/pl588703/ 【【栃木】"明智平”にまつわる明智光秀を巡る伝説】より
【栃木】"明智平”にまつわる明智光秀を巡る伝説
2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀。織田信長を討った謀反人として知られている彼のゆかりの地を巡る連載です。
最終回は、本能寺の変のその後、明智光秀にまつわる伝説をご紹介します。
「本能寺の変」は徳川家康や明智光秀と共謀していた⁉
言わずと知れた天下人・徳川家康。
実は、信長は家康の暗殺を光秀に伝え、光秀がその計画を家康に話し打倒信長の密約を結んでいた……とする説があります。
それゆえに、その後も3代将軍・徳川家光の乳母に明智光秀の重臣の娘である春日局を重用するなど、光秀と家康が深いつながりをもっていたと語る説があり、それが栃木県にある「明智平」にまでつながっています。
1610年徳川家康に招かれて駿府城で講義を開いた天海僧正。これに感銘を受けた家康から帰依を受け、参謀としても重用されます。この時75歳。
そして、3年後の1613年に日光山の住職となり、1616年に家康が亡くなると、以前から残されていた遺言により、天海は日光東照宮の造営に着手、1617年3月に完成します。
日光にある「明智平」、そして日光東照宮にある「桔梗紋(光秀の家紋)」、また、天海の出自に謎が多い点などから、天海僧正は、山崎の戦いで秀吉軍に破れた後にひっそりと生き延びて僧となった光秀ではないか、という説も生まれました。
史実としては否定されていますが、その秀でた才知は共通しているといえるかも知れません。
栃木県にある"明智平”は光秀が命名した⁉
日光で一番といわれる展望スポットで、ロープウェイで約3分の明智平展望台からは、中禅寺湖、華厳の滝、男体山などが見渡せます。
家康・秀忠・家光の徳川3代に仕えた天海僧正が名付けたとされており、秀吉軍に敗れた光秀が生き延びて天海となり、日光で一番眺めのいいこの場所に明智の名を残したのだとする説もあります。
本能寺の変後も生き延び、江戸幕府の参謀として活躍し、家康が眠る日光の地に名前を残した……そんな、史実とは違う伝説に思いを馳せてみるのも、歴史を巡る楽しみのひとつです。
◆明智平
住所:栃木県日光市細尾町深沢709-5
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20211001-00260794 【【戦国こぼれ話】明智光秀が天海になったというのはデタラメも甚だしいので、気をつけてください】より
渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀が天海になったというのは、根拠のないデタラメである。(提供:アフロ)
先日、テレビを見ていると、「明智光秀が生き延びて天海になった」という説を紹介していた。大変驚いて倒れそうになったが、たしかな根拠のないデタラメである。以下、なぜデタラメなのか考えてみよう。
■そもそも天海とは
天海は、生年不詳。天文5年(1536)誕生説が有力で、寛永20年(1643)に亡くなった。これが事実ならば、100歳を超える長命だった。とにかく長生きしたのは事実だ。
なお、光秀も生年不詳。享禄元年(1528)誕生説が有力なので、天海より10歳ほど年長である。ほぼ同時代に生きた人物なのは、たしかなことであろう。
天海は天台宗の僧侶で、徳川家康の側近として活躍し、懐刀といわれたほどである。さらに、秀忠、家光の3代にわたって徳川家に仕え、江戸幕府の宗教政策に貢献した。
光秀が天正10年(1582)6月の山崎の戦い後も、生き延びて天海になったという説は、大正15年(1916)に刊行された須藤光暉『大僧正天海』(冨山房)で提起された。
以来、テレビなどで取り上げられることがあった。以下、光秀=天海説の根拠を取り上げ、考えることにしよう。
■明智平という地名
栃木県日光市には、観光地として人気スポットの明智平という場所がある。天海は光秀であったがゆえ、明智姓にちなんで「明智平」と命名したと伝わっている。
ところが、天海が「明智平」と命名したというたしかな史料があるわけではない。降って湧いたような単なる伝承にすぎない。したがって、「明智平」と命名したのは根拠がなく、天海であるとはいえない。
■徳川秀忠の名前から
江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の「秀」字は、光秀の「秀」字を採ったといわれ、光秀=天海が関与したといわれている。しかし、秀忠の「秀」字を授けたのは豊臣秀吉なので、この説は誤りである。
3代将軍・家光の「光」字についても、天海=光秀が関与したといわれているが、実際は金地院崇伝が「光」字を選んだので誤りである。天海は、秀忠、家光の命名とは関係ないのである。
■天海は関ヶ原合戦図屏風に描かれているのか
「関ヶ原合戦図屏風」(関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵)には、鎧で身を固めた天海と思しき人物の姿が描かれている。天海は戦巧者の光秀だったから、軍師的な役割を果たしたというのである。
実は、この「関ヶ原合戦図屏風」、成立は嘉永7年(1854)である。幕末に成立した合戦屏風を根拠にするなど、とうていありえないことで、光秀=天海の根拠にはならない。
■家紋や石灯籠に刻まれた光秀という名前
比叡山の天台宗松禅寺(滋賀県大津市)には、「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」と刻まれた石灯籠がある。この「光秀」が明智光秀のことで、天台宗の僧侶・天海との関係を重視する向きがあるが、この「光秀」が明智光秀と同一人物であるとは明言できない。
日光東照宮(栃木県日光市)陽明門の随身像の袴などには、明智家の家紋・桔梗が用いられているが、これは織田家の家紋・木瓜紋である。単なる見間違いであり、光秀=天海の根拠にならない。
■光秀が天海になったというのは話にならないデタラメ
ほかにも光秀=天海説の根拠は提示されている。たとえば、童謡「かごめかごめ」という歌を暗号のように読み解く向きもあるようだが、もはや私には理解不能である。考える気にも、反論する気も起らない。
ここまで触れたとおり、光秀が生き延びて天海になったという説は、根拠のないデタラメである。光秀が天正10年(1582)6月13日に死んだことは、『兼見卿記』などの一次史料にしっかりと書かれている。それだけ挙げれば十分だろう。
したがって、光秀=天海説はまったくの想像の産物で、誤りも甚だしい。テレビなどで繰り返し特集されているが、読者諸賢にはご注意いただきたいものである。
渡邊大門
株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
1967年神奈川県生まれ。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。十六世紀史研究学会代表。千葉県市川市在住。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』(星海社新書)、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(光文社・知恵の森文庫)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』 (朝日新書)など多数。
https://www.touken-world.jp/tips/7344/ 【明智光秀と刀】より
明智光秀は、美濃国(現在の岐阜県)守護・土岐氏(ときし)の分家出身と言われていますが、家系図に記載がないことから、あまり高い身分ではなかったことが窺えます。
父親についても複数の人物名が挙げられるなど諸説あり、はっきりと伝わってはいません。
生年は「明智軍記」の記載による1528年(享禄元年)説の他、「当代記」による1516年(永正13年)説がありますが、いずれも信憑性には疑いが残ります。
明智光秀の本姓(古代以来の氏族名)は源氏、通称は「十兵衛」(じゅうべい)です。
明智光秀
明智光秀のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。
1545年(天文14年)、美濃国の妻木城主「妻木広忠」(つまきひろただ)の娘「煕子」(ひろこ)と結婚。土岐氏を追放して国主となった「斎藤道三」(さいとうどうさん)に仕えます。
1556年(弘治2年)に斎藤道三とその長男「斎藤義龍」(さいとうよしたつ)が対立し、「長良川の戦い」が勃発。明智光秀が斎藤道三側に付いたため、明智光秀の生家である「明智城」は斎藤義龍軍の攻撃を受けます。
当時、城代(じょうだい:城主に代わって城を守る者)を務めていた「明智光安」(あけちみつやす:明智光秀の叔父とされる)は一族と共に籠城。
しかし、斎藤義龍にくみする「揖斐光就」(いびみつなり)、「長井道利」(ながいみちとし)らに攻められ、明智光安と一族の多くは防戦むなしく自害へと追い込まれてしまいます。その際、明智光安は自分の息子である「明智秀満」(あけちひでみつ)に明智光秀を託して城から脱出させました。
鉄砲の腕前が認められた明智光秀は、軍師として仕官
浪人となった明智光秀は、越前国(現在の福井県)の国主「朝倉義景」(あさくらよしかげ)を頼り、その優れた頭脳と鉄砲の腕前を買われ、軍師として仕えることになります。
明智光秀の射撃技術は神に入る(しんにいる)ほどで、約45.5mの距離から撃った的に百発百中、しかも68発は中心の星に命中。さらに、飛んでいる鳥も撃ち落としたと言われる凄腕でした。そのことから、約100名の鉄砲隊が部下として明智光秀に付くことに。
それから間もない1565年(永禄8年)、「永禄の政変」で室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)が暗殺されると、足利義輝の弟「足利義昭」(あしかがよしあき)は姉婿である若狭国(現在の福井県)守護「武田義統」(たけだよしずみ/よしむね)のもとへ亡命。
その後、足利義昭が朝倉家を頼り、朝倉義景に「上洛と将軍擁立を頼みたい、織田信長に交渉してほしい」と要請したため、明智光秀がその仲介役となります。
野心あふれる織田信長の家臣となった明智光秀
天下を取ろうという野心も器量もなかった朝倉義景に比べ、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)以来、めきめきと頭角を現した織田信長には勢いがありました。
1567年(永禄10年)、足利義昭からの信頼を得ていた明智光秀は、足利義昭に付き従う形で朝倉家を離れ、織田信長の家臣となります。天下取りを狙う織田信長にとって、足利家の重要人物を手中に収めることができたのは、まさに渡りに船だったのでしょう、翌年1568年(永禄11年)に織田信長はさっそく足利義昭を奉じて上洛。14代将軍「足利義栄」(あしかがよしひで)を失脚させ、15代将軍・足利義昭を擁立しました。
明智光秀は、織田信長の家臣であると同時に、室町幕府の幕臣でもあるという、いささか特殊な状況に身を置くこととなります。織田信長の重臣の中でも、明智光秀はとりわけ和歌や茶の湯に造詣が深い教養人としても抜きん出ていました。公家との連歌会(れんがかい:厳密なルールにしたがって、多人数が和歌を連作形式で詠む会)にも積極的に参加。朝廷との繋がりを保つことで交渉役を担い、織田信長を支えたのです。
京において明智光秀は、「木下秀吉」(のちの[豊臣秀吉])、「丹羽長秀」(にわながひで)、「中川重政」(なかがわしげまさ)ら重臣と共に京とその周辺地域の政務にあたりました。織田信長に仕えてまだ2年目の明智光秀が、織田家の古参武将と並んで取り立てられていたことからも、織田信長がいかに明智光秀のことを高く評価していたかが分かります。
明智光秀の尽力が無に帰す足利義昭と織田信長の決別
新将軍として室町幕府を再興した足利義昭は、当初こそ織田信長のことを「室町殿御父」(むろまちどのおんちち)と称し、尾張・美濃領有の公認の他、織田信長が支配を望む和泉国(現在の大阪府)の「和泉守護」に任じるなど、様々な恩賞にて織田信長の武功に報いようとしました。
しかし、幕府再興を願っていた足利義昭と、足利義昭を傀儡(かいらい:思い通りに利用できる者)として武力による天下統一を目指していた織田信長の思惑には明確な違いがあったのです。両者の関係はしだいに悪化していくこととなります。
1569年(永禄12年)、織田信長は「殿中御掟」(でんちゅうおんおきて)という9ヵ条の掟書(おきてがき)を足利義昭に承認させました。2日後には7ヵ条を、翌年には5ヵ条を追加。その内容は、「書状を出す際には織田信長の承認を得ること」、「天下の政治は織田信長に任せること」などです。
織田信長の影響力の大きさに不満を抱き始めていた足利義昭は、甲斐国(現在の山梨県)の武田氏、近江国(現在の滋賀県)の浅井氏、朝倉氏などの諸大名や、「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ:現在の滋賀県)、「石山本願寺」(いしやまほんがんじ:現在の大阪府)にも、織田信長を牽制するように呼びかけます。
足利義昭と織田信長が対立していくにつれ、最も苦悩したのは明智光秀だったそうです。両者の仲介役として尽くした努力が、結果として無に帰すことになるのですから無理もありません。
数々の武勲をたて、一国一城の主になった明智光秀
1570年(元亀元年)、「浅井長政」(あざいながまさ)が織田信長に逆らい、「金ヶ崎の戦い」(かねがさきのたたかい:現在の福井県)が起こります。
織田信長は浅井長政と同盟を結ぶため、妹の「お市の方」を浅井長政と結婚させていました。その同盟の条件が、「織田信長は、浅井氏と同盟関係にある朝倉義景を攻めない」という約束だったのですが、朝倉義景が織田信長の命令に従わなかったことから、織田信長は朝倉義景を攻撃。これに浅井長政が反発したため同盟を破ったのです。
金ヶ崎で浅井・朝倉両軍の挟み撃ちにあった織田信長は、やむなく京都へ撤退します。このとき、明智光秀は豊臣秀吉と共に殿(しんがり:軍が退くときに最後尾で防戦する役目)を務め、敵軍の攻撃を食い止めました。
また、1570年(元亀元年)6月の「姉川の戦い」(現在の滋賀県)では、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突。戦いは熾烈を極め、戦死者の血で姉川は朱に染まったと伝えられています。明智光秀にとっては、なお辛い戦いでした。敵方の朝倉義景は、浪人だった明智光秀を取り立ててくれた元主君です。
唯一の救いは、朝倉軍と対戦したのは徳川軍で、明智光秀の軍は浅井軍を相手にしたことだったと言えます。この戦いでは織田・徳川連合軍が勝利。敵は敗走しました。
数々の功績が認められた明智光秀は、1571年(元亀2年)に織田信長より近江国滋賀郡5万石を与えられます。さらに織田信長から築城資金として黄金1,000両を得て、琵琶湖の湖畔に居城となる「坂本城」を築城。実はこれは異例の厚待遇でした。織田家の家臣となってわずか4年の明智光秀が、家臣の中で最初に一国一城の主となったのです。織田信長に次ぐ地位の豊臣秀吉ですら自らの城「長浜城」を持つのは、この3年後になります。
築城にも才能を発揮。明智光秀の城とは
明智光秀は、頭脳明晰な人物として知られ、築城の才能もあったと語られています。明智光秀にゆかりの深い城には、どのような城があるのでしょうか。ここでは、居城となった坂本城、丹波(現在の京都府)攻略に際して築いた「亀山城」、丹波平定後に築いた「福知山城」、そして明智光秀が生まれたとされる「明智城」について述べていきます。
坂本城址
坂本城は、琵琶湖の南湖西側、現在の大津市北郊(ほっこう:北側の郊外)に位置していました。ここは東側に琵琶湖を臨み、西側には比叡山の山脈があったため、天然の要害としての条件も備えていたのです。
また、城内から水路を使って船で直接琵琶湖へ出ることもできる「水城」(みずき)形式の城であったと考えられており、明智光秀は船で琵琶湖を渡って、織田信長の居城である安土城へ向かうことができたと言われています。
このように、戦略的にも機能的にも優れていた坂本城は、比叡山延暦寺の監視と、琵琶湖の制海権を握るという織田信長の目的に適っていました。そんな織田信長の思惑通り、明智光秀は坂本城を拠点として近江国の平定を目指したのです。
当時、キリスト教の宣教師として来日していた「ルイス・フロイス」は、その著書「日本史」で坂本城について、織田信長が築城した安土城に次ぐ城であると記述。当時としては、大きな天守を持つ豪勢な造りを称えています。
ルイス・フロイスの他にも、公家で神道家の「吉田兼見」(よしだかねみ)が、自身の著書「兼見卿記」(かねみきょうき)のなかで、坂本城の天守がいかに壮大であるか述べているとのことです。
しかし、1582年(天正10年)の「本能寺の変」ののち、坂本城は豊臣秀吉軍に囲まれたため、明智光秀の女婿(じょせい:娘の夫。むすめむこ)である明智秀満が、明智光秀の妻子と自らの正室を刃に掛けたあと、城に火を放って自害。ルイス・フロイスらが称えた城は失われてしまいました。
亀山城
丹波攻略に従軍中であった明智光秀が、織田信長の命を受けて亀山盆地(京都府南部にある盆地)の中心地である亀山(現在の亀岡市)に1578年(天正6年)より築城。丹波平定後は丹波運営の拠点となります。
明智光秀は3層の天守を構えました。「山城」(やまじろ)が主流だったこの時期、平地に建てた珍しい「平城」(ひらじろ)として、時代の先を行くような城だったと伝えられています。
明智光秀亡きあとは、天下を統一した豊臣秀吉の拠点のひとつとなり、一門の武将が入りました。
江戸時代には、徳川家康も亀山城を重要視し、1609年(慶長14年)には譜代大名(ふだいだいみょう:関ヶ原の戦い以前より徳川氏の家臣であった大名)である「岡部長盛」(おかべながもり)を入封(にゅうほう)させると、「天下普請」(てんかぶしん)による工事で、近世城郭として大修築。本丸には、破風(はふ)のない5重の層塔型天守が上がりました。
明治維新以降、放置され荒廃していた亀山城は、1919年(大正8年)に新宗教「大本教」(おおもときょう)の指導者「出口王仁三郎」(でぐちおにさぶろう)が購入し、拠点のひとつとして整備されます。しかし、第2次世界大戦中、大日本帝国政府の宗教弾圧により、破格の安値で亀岡町へ譲渡され、破却が決定。神殿は1,500発ものダイナマイトで爆破されました。戦後は、大本教に所有権が戻され、大本教の聖地として現在に至っています。
亀岡市では、毎年5月3日に亀岡城下町一帯で「亀岡光秀まつり」を開催。これは、亀岡の基礎を築いた明智光秀の遺徳(いとく:後世まで残る人徳)を偲ぶ、市民挙げての大規模な春まつりです。
なかでも、明智光秀が率いる武者行列を総勢500人以上で再現する「明智光秀公武者行列」は勇壮の一言。亀岡市役所から、亀山城址東側の南郷公園まで練り歩く大行列は、見物客らを大いに沸かせます。
また、亀岡光秀まつりに合わせて、南郷公園で開かれる「かめまるフェスタ」も見逃せません。数々のイベントに加え、飲食店や手作り小物の販売など、多彩なブースが並びます。
福知山城
福知山城は、かつては横山城と呼ばれ、在地豪族である横山氏の砦(とりで)として使われていました。
1579年(天正7年)、横山城を攻略し、丹波を平定した明智光秀は、横山城を近世的な城郭へと修築。城名も福知山城と改めます。
横山丘陵(京都府福知山市)先端の地形を利用して築かれた福知山城は、平城と山城それぞれの特徴をかね備えた「平山城」(ひらやまじろ)です。南北に横たわる丘陵の上に本丸や二の丸などが位置し、目の前を流れる由良川(ゆらがわ)、土師川(はぜがわ)は、自然の堀として利用されました。
明智光秀は、由良川をただ堀として利用したのではありません。由良川は福知山の市街地を流れていて、氾濫を繰り返しては甚大な被害を出していたのです。
そこで明智光秀は、市街地を外れるように流れを変えると堤防を築き、さらに流れをゆるやかにするために藪も作りました。この藪は「明智藪」と呼ばれています。また、由良川の流れを変える工事に伴って、水運の発展にも寄与しました。
こうして城下町を整備すると、町の住民には宅地税の一種である地子銭(じしせん)免除の特権を与え、経済の活性化を促したと伝えられています。
さらに明智光秀は、自身の統治に反抗的な寺社を打ち壊し、石塔類を本丸から天守台にかけての石垣に転用しました。これは、神仏を畏れず「比叡山焼き討ち」(ひえいざんやきうち)を実行した織田信長に倣ったのだと言われる一方、石塔を城のお守りとしたのではないかとも言われています。
本能寺の変を引き起こしたため、明智光秀の福知山治世は3年足らずで終了。その後、福知山城は初代の明智光秀を含め、杉原、小野木、有馬、岡部、稲葉、松平、朽木の8氏が城主となっています。
明智城址
明智城は、1342年(康永元年)、美濃源氏の流れをくむ「土岐頼兼」(ときよりかね)が「明智」へと改名後に築城。以来、およそ200年の間、明智氏代々の居城として栄えました。
丘陵の尾根や谷など自然の地形を活かした中世的な山城で、天守はありません。現在の岐阜県可児市瀬田長山にあったと記録されています。
1556年(弘治2年)9月19日、明智城は稲葉山城主・斎藤義龍の軍に攻められ、城代の明智光安は弟の「明智光久」(あけちみつひさ)と一族の者870余人を集めて籠城しました。
しかし、斎藤義龍軍は3千7百人を超える勢力をもって2日間に亘り激しく攻撃。こらえ切れなくなった明智光安は、明智光秀に明智家再興を託して逃がすと、明智光久と共に自刃(じじん)します。明智光安の妻や側室も落城前に自刃したとのことです。
明智城は落ちたまま、再興されることはありませんでした。
爆走する織田信長。明智光秀は出世を果たすも、その心情は?
足利義昭に暇(いとま)を請う明智光秀と、室町幕府の滅亡
比叡山延暦寺
1571年(元亀2年)、織田信長は明智光秀ら家臣に比叡山延暦寺を焼き払うよう命じます。
姉川の戦いで敗走した浅井・朝倉が延暦寺に逃げ込むことを予想していた織田信長は、延暦寺に対し、織田信長側の味方になるか、中立の立場を守るよう要請。味方になれば所領を返還するが、聞き入れられない場合は容赦なく焼き払うと警告もしていました。比叡山に知り合いが多かったと言われる明智光秀は、織田信長を諌めます。
ところが延暦寺側は何の返答もせず、浅井・朝倉をかばい続けたため、織田信長軍3万の兵が延暦寺を攻撃。寺の建物や周辺地域に火を放ち、僧侶や女性、子供まで手に掛け、3,000~4,000人が犠牲になりました。
ただし、後年の調査により、このような大虐殺に関しては誇張が過ぎるとの指摘もあります。また当時、延暦寺では戒律を破る行為が横行し、天皇をもしのぐ権力を振りかざしていたとも言われ、延暦寺が京の鬼門(きもん:鬼が出入りするとされる北東の方角)を封じる重要な寺社であるにもかかわらず、織田信長の武力行使に対して、天皇や朝廷が正式に抗議していないことなどから、延暦寺側にも非があったとする見方が有力です。
比叡山延暦寺焼き討ちの一報を受け、危機感を強めたのが将軍足利義昭でした。織田信長との武力対決の準備を進める足利義昭に対して、直属の幕臣である明智光秀は、今の織田信長には勝てないと諭し、恭順(きょうじゅん:つつしんで従うこと)するよう説得。しかし、どう言葉を尽くしても翻意は望めないと知り、袂を分かって幕府を去ります。
1573年(元亀4年)3月、前年の「三方ヶ原の戦い」で徳川家康に勝利した武田信玄が京へ向かっていると聞き勇んだ足利義昭は、武田信玄の上洛を待たずに挙兵。織田信長からの講和の申し出も一蹴し、東から進軍する武田信玄、西の毛利、南に三好・松永の大坂勢、北にはいまだ抵抗を続ける浅井・朝倉という「織田信長包囲網」を作り上げました。
ところが翌4月、武田信玄が病気により死去。武田軍は撤退します。ここで戦局は大きく流れを変え、足利義昭は洛中(らくちゅう:京の市中)の居城「烏丸中御門第」(からすまるなかみかどだい)にこもって抵抗。明智光秀は、これを包囲する織田信長軍の攻撃に加わるよう織田信長から命令され従軍します。
大軍に攻められた足利義昭はついに降伏。織田信長もさすがに将軍を手に掛けることはありませんでしたが、京から追放しました。これにより237年続いた足利政権は終焉を迎え、明智光秀が力を尽くして再興させた室町幕府は、主君である織田信長の手によって滅びることとなったのです。
明智光秀は戦国時代屈指の大大名に
1575年(天正3年)、明智光秀は「惟任」(これとう)の賜姓(しせい:天皇から姓を賜ること)を受け、従五位下日向守(じゅごいのげひゅうがのかみ)に任官。「惟任日向守」(これとうひゅうがのかみ)と称せられます。
同年、明智光秀は「高屋城の戦い」において、高屋城(現在の大阪府)に立てこもった「遊佐信教」(ゆさのぶのり)、「三好康長」(みよしやすなが)の討伐軍として参戦。これは、織田信長と対立する石山本願寺との10年に及ぶ抗争「石山合戦」の一部とみなされている戦いです。
また、石山本願寺の高僧「顕如」(けんにょ)が、浄土真宗(一向宗)の信者に「仏の敵、織田信長を倒せ」と呼びかけたため、織田信長は「一向一揆」(いっこういっき)への対処に追われることとなります。なかでも、越前で独立国を作っていた一向宗徒への弾圧は容赦なく、住民全員を一揆衆と断定して攻撃。この「越前一向一揆殲滅戦」に、明智光秀も加わっていました。
さらに同じ年の「長篠の戦い」(ながしののたたかい)では、織田信長は3,000挺の鉄砲を揃え、当時最強と謳われた武田信玄の子「武田勝頼」(たけだかつより)が率いる武田騎馬軍を迎え撃ちます。射撃の名手である明智光秀は、戦場で目覚しい武功を挙げました。
明智光秀は、これらの戦いで健闘しながら、1579年(天正7年)、4年越しの丹波攻略を成し遂げます。相手方の波多野家当主「波多野秀治」(はたのひではる)による開城と降伏の条件を承諾し、織田信長に波多野秀治の助命嘆願をすると約束。その保証として明智光秀は実母を人質として波多野氏へ差し出しました。
しかし、織田信長は波多野秀治とその弟の「波多野秀尚」(はたのひでひさ)を磔にして処刑。怒った波多野氏の家臣達は、仕返しのために明智光秀の母親を磔にしたのです。
しかしながら、この悲劇的な逸話には明確な記録がありません。明智光秀軍に攻められて籠城していた波多野氏側ではすでに兵糧も尽き、明智光秀に降伏の条件を出せるほど強い立場ではなかったと言われています。
また、足利義昭上洛の際、織田氏に従いながら裏で地元の豪族と通じていた裏切り者の波多野氏を、織田信長が許すことはないと明智光秀にはよく分かっていたはずで、明智光秀が実母を人質に差し出してまで波多野秀治の助命を願う理由がないのです。そのため、この逸話は伝説の域を出ないと、現代では考えられています。
丹波攻略ののち、数々の功績が認められ、明智光秀は丹波国約29万石を加増されました。近江国滋賀郡坂本5万石と合わせて、合計34万石の戦国大名となるまでに出世したのです。
織田信長に仕えて八面六臂(はちめんろっぴ:ひとりで何人分もの活躍をすること)の働きを見せ、大出世を果たした明智光秀には、明智姓を刀名に冠した愛刀がありました。名刀「明智近景」(あけちちかかげ)です。金象嵌(きんぞうがん)で施された「明智日向守所持」の銘があったと伝えられています。
しかし、幕末にこの刀を入手した人が明智光秀の名に驚き、謀反人を嫌って、年期だけを残し銘と所持銘を削り取ってしまったとのことです。
明智光秀と織田信長~なぜ本能寺の変は起きたのか?
毛利征伐への援軍を命じられる明智光秀
1582年(天正10年)5月15日、安土城の織田信長のもとへ徳川家康が訪れます。この接待役に任じられていた明智光秀は、山海の馳走を用意して3日間に亘り徳川家康をもてなしました。
そこへ、毛利征伐のために中国地方へ出向いていた豊臣秀吉からの援軍要請が入ります。毛利氏は、足利15代将軍足利義昭の呼びかけに応じて織田信長包囲網を築いた勢力のひとつでしたが、足利義昭の追放後も織田信長の支配下には入らず、対立していたのです。
豊臣秀吉からの知らせは、現在攻めている備中国(現在の岡山県)「備中高松城」救援のため、毛利の大軍が来るというものでした。
織田信長は、「一気に九州まで平定する願ってもない機会」として、明智光秀を接待役の任から解き、豊臣秀吉の援軍として中国地方へ向かうよう命じます。
5月21日、明智光秀に正式な出陣命令が下されたとき、織田信長の言葉に明智光秀は耳を疑いました。「丹波、坂本などの領地を召し上げ、代わりに毛利が有する領地を与える」と言うのです。
ただ、これまでの織田信長からの重用ぶりを考えれば、「明智光秀の実力と意気込みがあれば、すぐにも毛利の土地を勝ち取れる」という激励だと受け取れたはずですが、織田信長の横暴な振る舞いを目の当たりにし続けていた明智光秀は、もはや前向きに考えることなどできませんでした。明智光秀が運営に力を注いできた領地のすべてを取り上げ、手に入るかどうかも分からない毛利の土地を領地とせよとは、とても納得できる命令ではなかったのです。
明智光秀、本能寺へ
1582年(天正10年)6月1日、織田信長の一行約150騎と小姓30人の約180名が京都の「本能寺」に到着。少人数編成になった理由は、茶会に出るための小旅行であったこと、また、織田信長配下の有力武将の多くが各地で戦闘中であったため、人員を割けなかったとも言われています。
一方、坂本城から出陣した1万3,000人の明智光秀軍は、西に向かってすでに京を越えていましたが、東へと進路を変更。明智光秀は、重臣達にのみ織田信長を討つ決意を明かします。その際、明智光秀が発したとされる「敵は本能寺にあり」という有名な言葉は、創作を含む軍記「明智軍記」にある俗説だと言うことです。
そして、6月2日の早朝、本能寺を取り囲んだ明智光秀軍は攻撃を開始。
起床したばかりの織田信長は、建物に鉄砲が撃ち込まれ、火が放たれると、「これは謀反か! いかなる者の企てぞ!」と問いただします。近習の「森蘭丸/乱丸」(もりらんまる)が答えました。「明智が者と見え申し候!」
「光秀か、是非に及ばず」(※)と言い放ち、織田信長は弓を取って応戦。弦が切れると、次には槍を持ち、敵を突き刺して奮戦するものの負傷して奥の間へ退きます。このとき、それまで付き従っていた女房衆(女性の使用人達)には逃げるよう指示をしました。
供の近習達も激しく応戦しますが、兵力の差はいかんともしがたく、いよいよ火の手が及ぶと、織田信長は自害。本能寺は炎に包まれ、鎮火したのは襲撃から2時間後のことでした。
この本能寺の変において、織田信長の遺体はついに発見されなかったという説が最も有力です。そのため、「織田信長は脱出して生き延びたのではないか」と、明智光秀はしばらく不安で仕方がないようだったと伝えられています。
また、本能寺の変のあと、有力武将達が明智光秀の味方になろうとしなかったのは、織田信長の死亡が確認できていなかったのも理由のひとつです。
※織田信長の「是非に及ばず」という言葉について。「仕方がない」と現代語訳されることが多いのですが、明智光秀の謀反を知ったあとも奮戦していることや、織田信長は日頃からこの言葉をよく使っていたことなどから鑑みて、あきらめの言葉ではなかったとの説も挙がっています。
本能寺の変
明智光秀は、なぜ本能寺の変を起こしたのでしょうか。自分が天下を取りたかったとする「野望説」や「室町幕府再興説」等多々ありますが、注目したいのは「怨恨説」。
武功を挙げて、34万石という褒美も得ていた明智光秀ですが、実は織田信長からひどい仕打ちを受けたとされています。
明智光秀は下戸(げこ:酒が飲めない)なので、織田信長に酒を勧められて断ると、「此の白刃を飲むべきか、酒を飲むべきか」と脇差を口元に突き付けられ、仕方なく酒を飲まされた。
織田信長は、明智光秀のかつての主君・朝倉義景を討ち取ると、その頭蓋骨で盃を作って酒を酌み、明智光秀に飲めと強要。明智光秀が断ると、額から血が出るほど殴り倒された。
突然、近江国と丹波国を召し上げると言われ、その代わり、これから戦う毛利氏の領、出雲国(いずものくに)と石見国(いわみのくに)は明智光秀の物にして良いと無茶ぶりを言われた。
他にも、普段から織田信長に「キンカ頭」(はげ頭)と揶揄(やゆ)され、足で蹴られていたとされています。しかし、豊臣秀吉もまた織田信長に「サル」呼ばわりされていたと言いますし(※)、徳川家康に至っては正室と長男を殺されています。それに比べれば、怨恨説というのは、少し弱いのかもしれません。
怨恨説の他に有力なのが、「黒幕は他にいた説」。織田信長が死んで一番得をするのは誰なのか。豊臣秀吉か、または徳川家康、それとも足利義昭か。
2017年(平成29年)9月、明智光秀が1582年(天正10年)6月12日(本能寺の変から10日後)に書いた、紀州の武将「土橋重治」(つちばししげはる)宛ての 手紙が発見されました。その内容は、「織田信長によって追放された足利義昭の入京をお受けしました」とする物。これは、反織田信長勢力と共に室町幕府再興を目指していたことを示しているそうです。
しかし、背後に豊臣秀吉か徳川家康がいたと考えられないこともありません。まだまだ真相は、日本史史上最大の謎なのです。
※織田信長が豊臣秀吉のことをサルと呼んでいたとするのが通説ですが、実際にはそのような呼び方はしていないとのこと。しかし、織田信長が豊臣秀吉の正室「おね」に宛てた手紙では、豊臣秀吉の浮気に怒るおねを慰めるため、豊臣秀吉のことを「はげネズミ」呼ばわりしているそうです。
本能寺の変を起こした明智光秀の背後に、糸を引いていた大物がいたかどうかは謎のままですが、謀反人の明智光秀が所有していたとされながら、のちに徳川家へと渡った日本刀があります。
茎(なかご)に亀甲菊花文様の彫り物があることから名付けられた「亀甲貞宗」(きっこうさだむね)です。明智光秀から、のちに徳川家康の孫「松平直政」(まつだいらなおまさ)のもとへ。その後、尾張徳川家に伝わり、徳川将軍家の重宝になりました。現在は東京国立博物館に所蔵されています。
明智光秀と豊臣秀吉~明智光秀の最期は意外な結末!?
明智光秀にとって、本能寺の変を起こしたタイミングは、まさに織田信長を排除して天下を掌握するための絶好の機会でした。
織田信長の家臣である「柴田勝家」や「前田利家」は北陸の「上杉景勝」と、羽柴(豊臣)秀吉は「毛利輝元」と交戦中で、徳川家康や「滝川一益」(たきがわいちます/かずます)は駆けつけるのが難しい状況にあったためです。
また、丹羽長秀の軍が近くにいたものの、3千人程度でとても明智光秀に立ち向かって勝利できる状態にはなかったと言います。
こうした家臣の状況を把握していた明智光秀は、好機を我がものとし、織田信長を討ったはずでした。しかし、まったく予測していなかった事態が起きてしまいます。中国地方の毛利氏と戦をしていた豊臣秀吉が、当時では考えられないスピードで明智光秀を討つために戻ってきたのです。これを「中国大返し」と呼びます。
当初、明智光秀は、豊臣秀吉の帰還には50日ほどかかると踏んでいました。そして、それまでに織田信長が本拠地としていた安土城を制圧して、織田信長がつかみかけた天下を取るつもりだったのです。しかし、わずか10日という豊臣秀吉の早期の帰還によって明智光秀の野望は断たれ、やむなく「山崎の戦い」へと進んでいきます。
山崎の戦いは、明智光秀軍1万6千人に対し、「高山右近」をはじめとした摂津衆、そして摂津衆の後ろには4万人の軍を率いる豊臣秀吉が構えていました。本能寺の変の謀反で、明智光秀は姻戚にある「細川藤孝」(ほそかわふじたか)が自軍の味方につくと考えていたはずです。しかし、細川藤孝は「今は、織田信長公の喪に服するのみ」とし、明智光秀に加勢することはありませんでした。明智光秀最大の不幸とも言えるでしょう。
勝ち目を失った明智光秀は、一旦拠点である坂本城に戻って立て直そうとします。淀川と天王山に囲まれた山崎は分が悪く、勝算が見いだせなかったためです。しかし、明智光秀は坂本城に戻ることはありませんでした。退路の途中、落ち武者狩りの農夫により重傷を負って、自害というあっけない最期を迎えます。
明智光秀亡きあと、明智光秀の築城した坂本城は一族が自害したのち焼失。残党軍もことごとく討伐され、大名家としての明智氏は、僧籍に属していた者を除いて滅亡しました。
そして豊臣秀吉は、この織田信長の弔い合戦に勝利した結果、「清洲会議」(きよすかいぎ:織田氏の跡継ぎ問題と領地配分に関する会議)を経て、織田信長の後継者としての地位を確立。天下人への道を歩むこととなります。
明智光秀の家紋・桔梗紋とは
本能寺の変が起こったとき、織田信長から「誰の企てか」と問われた森蘭丸は、なぜすぐに「明智の者である」と答えられたのでしょうか。
戦国武将達は合戦のとき、自軍の目印として必ず軍旗を掲げます。そこには武将それぞれが持つ家紋が描かれており、明智家の家紋は「桔梗紋」(ききょうもん)。桔梗の花を図案化したデザインで、明智光秀の軍旗は水色の地に桔梗を染め抜いていたため、特に「水色桔梗」と呼ばれていました。この特徴的な家紋を見れば、森蘭丸も間違えようはなかったのです。
桔梗紋は、清和源氏系の氏族で、美濃国を中心に栄えた土岐氏などが使っていました。平安時代から鎌倉時代の武将で土岐氏の祖となった「土岐光衡」(ときみつひら)が、戦場で桔梗の花を兜に挟んで戦ったところ、大勝利を収めたことから縁起物として、桔梗のデザインを家紋に採用したと伝えられています。
また、桔梗の漢字のつくりは「吉」と「更」であり、この前後を入れ替えると、「更に吉」(さらによし)と読むことができるので、縁起が良いとされました。
縁起が良いはずの桔梗紋ですが、明智光秀が主君であった織田信長に謀反を起こしたため、のちに「裏切り者の家紋」と認識されるようになってしまいます。同じ家紋を使っていた武将「水野勝成」(みずのかつなり)は、これを憚って「懸魚紋」(げぎょもん:懸魚は屋根の下に取り付けられる火除けのまじないの装飾用木彫)に変更しました。
現代でも、織田信長の子孫の家系では、桔梗の花を飾るのは避けているそうです。
本当は人望が厚かった?明智光秀と妻との逸話
明智光秀は人間らしい多面性を持った性格だった
せっかく本能寺の変で織田信長を亡き者にした明智光秀ですが、最大の不幸は人望がなかったことだと言われています。
明智光秀に味方してくれる勢力はほとんどなく、娘の玉(珠、のちの細川ガラシャ)の嫁ぎ先の細川家にさえ、賛同してもらえず最期を迎えました。
明智光秀の性格については、坂本城を絶賛したルイス・フロイスも著書「日本史」の中で、その才知や思慮深さ、忍耐力、築城で発揮される手腕などを褒める一方、「裏切りや秘密の会合を好む」、「計略と策謀を得意とする」、「残酷に刑を科する」、「独裁的」などと評し、「殿内にあっては外来のよそ者であり、ほとんどの者から快く思われていなかった」と記しています。
本能寺の変以降、十分な味方を付けられなかった明智光秀ですが、家臣思いで家中の結束は固く、近江国や丹波国の領民からもとても慕われていたという話も残っているのです。
例えば、一向一揆で戦死した明智軍の兵18人を弔うためにと、供養として米を西教寺(さいきょうじ)に寄進したこと。
当時、家臣へこのような心遣いができる武将はほとんどいなかったそうです。明智光秀のこのような心優しい一面をより頭の切れる誰かに利用され、四面楚歌となる羽目になったとする見方があっても不思議ではありません。
妻一筋! 愛妻家だった明智光秀
そんな明智光秀には、正室であった煕子(ひろこ)との逸話も残っています。
婚約中に、天然痘にかかった煕子は、治ったものの顔に「あばた痕」が残ってしまいました。それを恥ずかしく思った妻木家は、煕子ではなく妹を代わりに嫁がせようとしたのです。
しかし、明智光秀は「自分は他の誰でもない煕子殿を妻にと決めている」と言い、祝言を挙げとても大切にし、煕子の存命中はただひとりの側室も置かなかったと言います。
一方煕子も、斎藤道三亡きあとに浪人になった明智光秀を支え、明智光秀が連歌会を開催するおりに、自分の黒髪を売って費用を工面したという逸話が残っており、明智光秀を献身的に支えたのだそうです。
この、煕子が明智光秀のために黒髪を切った逸話は、江戸時代の俳諧師「松尾芭蕉」(まつおばしょう)の好むところとなり、芭蕉は、「月さびよ 明智が妻の はなしせむ」(寂しい月明かりのもとですが、明智光秀の妻の昔話をしてあげましょう)という俳句を詠み、伊勢詣の際に一夜の宿を提供してもてなしてくれた友人夫婦に贈りました。
ところが、煕子のこうした献身的な姿勢は裏目に出てしまいます。諸説ありますが、病気の明智光秀を看病する中で体調を崩してしまい、若くしてこの世を去ってしまったと言うのです。
煕子が明智光秀を看病していたのは、ちょうど織田信長が本願寺を攻めようと、織田一門が多忙を極めたときでした。重要な場面で、夫である明智光秀が復帰できるように、不眠不休で2ヵ月も看病を続けたのだと言います。最愛の妻を亡くした明智光秀の苦悩は、いかほどだったのでしょう。
時代に翻弄された明智光秀の娘・細川ガラシャ
明智光秀と正室である煕子の間には、少なくとも男子2名、女子3名の子がいたとされています。そんな明智光秀の子の中でも特に有名なのが、「細川玉」(珠)あらため、「細川ガラシャ」です。
細川ガラシャは、「細川忠興」(ほそかわただおき)の正室になった女性で、美しくもはかないキリシタンとして知られる人物。「ガラシャ」という名前は、キリシタンになったことでついた洗礼名(クリスチャンネーム)です。ラテン語の「Gratia」からきており、神の恩寵・恩恵の意味があります。
細川ガラシャが広く知られるようになったのは、その数奇な人生と、時代に翻弄されながらも強く生きたことが評価されたため。16歳で細川家に嫁いだ細川ガラシャは、4年ほど平穏なときを過ごします。細川忠興と細川ガラシャは仲むつまじい夫婦で、細川忠興は愛妻に自ら作った扇形の百人一首を贈ったというほど。しかし、細川ガラシャが20歳の年に本能寺の変が起こり、人生の歯車が大きく変わっていきます。
父・明智光秀の謀反によって、明智一族は坂本城で果てました。細川ガラシャ自身は、命だけは助かったものの、亡き織田信長や豊臣秀吉への忠誠を示すため、丹後の山中「味土野」(みどの:現在の京都府京丹後市)に幽閉されることになったのです。幽閉生活は、およそ2年。豊臣秀吉の計らいで屋敷に戻ることはできましたが、今度は屋敷に幽閉され、夫からも厳しい監視を受けるようになります。外部との接触は、ほとんど断たれた状態でした。
そうした生活を続ける中で、夫から聞いたキリスト教に興味を惹かれるようになった細川ガラシャ。教会へ説教を聞きに行ったのはわずか1回でしたが、細川ガラシャのキリスト教への興味は深いものでした。なんとか、侍女を教会に忍び込ませて洗礼の受け方を学ばせ、そして、自らに洗礼を授ける許可を得るのです。
当時、キリスト教は豊臣秀吉の「バテレン追放令」によってすでに禁じられており、大名の正室が受洗(じゅせん:洗礼を受け、キリスト教徒になること)することは危険な行為。幽閉生活を送る細川ガラシャにはいっそう厳しい状況となりますが、厳しい中でより洗練された、忍耐強い女性になっていったのです。
細川ガラシャは、38歳という若さでこの世を去ることになります。関ヶ原の戦いのとき、夫の細川忠興が徳川側の東軍についたため、細川家の屋敷は西軍の「石田三成」の襲撃を受けました。
人質としてさらわれそうになった細川ガラシャは、「人質になる前に自害しろ」という夫の言い付けに従い死を決意しますが、「自殺をしてはならない」というキリシタンとしての戒律を守るため、家老の「小笠原秀清」(おがさわらひできよ)に介錯させたのです。小笠原秀清はその後、細川ガラシャの遺体が見つからないよう屋敷に爆薬を仕掛け、火を点けてから自刃しました。
【細川ガラシャの辞世の句】
散りぬへき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
意:花も人も、散るときを知ってこその花であり人である。今こそ散るとき。
数奇な人生と、自分を貫いた女性ということで、細川ガラシャはヨーロッパにもその名を知らしめたのだと言えます。
現代でも活躍する明智光秀の子孫
明智光秀の子孫として有名なのは、先に紹介した細川ガラシャですが、実は現代にも明智光秀の血は脈々と受け継がれ、活躍している子孫がいます。
なかでも有名なのが、「明智憲三郎」さんです。明智憲三郎さんは、明智光秀の子である「於寉丸」(おづるまる:歴史書にはないが、明智光秀には側室がいて、側室の子ではないかと言われる人物)の血を引くという子孫で、大手電機メーカーに就職して情報システムの分野で活躍したのち、先祖である明智光秀がどんな人物だったか、精力的に歴史研究を重ねる歴史家です。
主に先祖である明智光秀の人生や出生を調査する中で、本能寺の変は本当に明智光秀による謀反だったのか、なぜ実行されたのか、新たな説を投げかける明智憲三郎さんの著書は40万部以上を売り上げるベストセラーとなりました。メディアにも取りあげられたことがある人なので、名前を聞いたことがある人もいることでしょう。
また有名人では、タレントやナレーターとして活躍する「クリス・ペプラー」さんも明智光秀の子孫である可能性が高いと言われる人物です。クリス・ペプラーさんの父親はドイツ人で、母親は日本人。日本人である母方の祖母が明智光秀の子孫であることをクリス・ペプラーさんに話したのだと言います。
実際に、テレビ番組で歴史家による検証が行なわれ、クリス・ペプラーさんの祖母が土岐家の血筋で、明智光秀も土岐家の血を引いていること、明智光秀の実子と思われる人物が土岐家にいることが分かりました。さらに、明智光秀の実子ではないかと言われる「土岐頼勝」(ときよりかつ)はクリス・ペプラーさんの直系の先祖で、明智光秀の子孫である証拠があるということから、クリス・ペプラーさんは明智光秀の子孫ではないかという結論に達しています。
なお、明智光秀とゆかりのある人物として、元内閣総理大臣の「細川護熙」(ほそかわもりひろ)さんも取り上げられることがあります。ただし、細川護熙さんは明智光秀の直系の子孫になる訳ではありません。さかのぼると、明智光秀の娘である細川家に嫁いだ細川ガラシャに繋がるものの、細川ガラシャの子孫は途中で血が絶えてしまっています。いずれにしても、明智光秀と関係のあった細川家の子孫ということには変わりありません。
こうみると、実に多くの明智光秀に関連する子孫が現代でも活躍していることが分かります。