レポート2 ONAHAMA WALKING TOUR 学歩(まなぼ)~富ケ浦篇〜 浦で起きたこと
さて、南側を一回りしてスタート地点に戻りました。ここでこちらの地図をご覧ください。
明治41年測量、同43年発行 国土地理院地図
地図・空中写真閲覧サービス(国土地理院)より
明治41年測量、同43年発行の国土地理院による地図です。小名浜の市街域を見てみてください。
現在の鹿島街道は細くクネクネと曲がりながら御代坂に向かっています。本日のスタート地点付近、松之中から大原へ向かう南北の幹線は影も形もありません。湯本方面や泉方面には馬車鉄道の軌道が見られますが、一番注目してほしいのは鹿島神社から二ツ橋方面に伸びている道筋です。
先ほどの古地図でも見ましたが、このルートは意外にも歴史が古い。しかし今一つその理由がピンとこないんですよね。橋を架ける都合というのがひとつあるでしょうが、それでもその橋へ向かう道筋がここである決定的な理由は思い当たりません。
そんなことも考えながら、今日はこの街道を歩いてみたいと思っています。さあ行きましょう。
チェックポイント⑤ 鮫川堰
小名浜衆は知ってる人も多いでしょうが、この用水は鮫川から延々と水を引いています。取水口は遠野町滝字柿の沢。藤原川と交差するところはその下をくぐらせています。藤原川水系は背負っている山が浅いこともあり、水資源が豊かとは言えないのです。図を挙げておきましょう。
「鮫川堰土地改良区管内図」鮫川堰土地改良区HPより
http://www.ac.auone-net.jp/~samegawa/
最初に計画されたのは嘉永6年(1853年)ですが、大変な紆余曲折を経て、 昭和14年5月ようやく全工事が完成しました。時期で分かるかと思いますが、最終的なインパクトは「水素」の誘致に関わっています。上図で見る通り、現在でも旧「水素」である「日本化成」が大量に取水しております。小名浜ではこのような工業用水のほか、農業用水、上水道でも使っていまして、大変に重要なインフラです。
余談ですが、鮫川流域を歩くと、発電や用水のためにめちゃくちゃに水を取られてまして、水量が豊富だった昔とは、人々と川との関係が全く変わってしまっているように感じます。「なんてひどい!誰がこんなことを!」とか思ってたんですが、それを飲んでたのが自分だったというね、、愕然としましたけども。
鮫川堰は歴史的にも非常に面白いので、何日かかけて鮫川堰全線を歩くツアーとかやってみても面白いでしょう。
チェックポイント⑥ 県営復興公営住宅大原団地
こちらは今年2月に完成した福島県復興公営住宅「大原団地1号棟」です。入居対象市町村は富岡町と大熊町。3月から入居が始まっているようですが、入居者募集のウェブサイトを眺めていると気になる記述がありました。
特定非営利活動法人 循環型社会推進センター
福島県復興公営住宅 第三期募集団地
https://www.npo-junkan.jp/fukkou3/data_iwaki.html
小名浜衆なら聞いたことがあるでしょうが、この汚染された赤土は通称「アカバイ」と呼ばれています。漢字を当てれば「赤灰」でしょう。一時期小名浜地区では盛んに盛土に使われました。
デリケートな問題なのでオフィシャルな文書から引用したいところですが、公害問題の多くがそうであるように、ほとんど明確な記述が認められません。「アカバイ」については、実際に利用した方々がまだ存命ですから、直接の「聞き書き」としてここに載せることもできますけども、ここでは自粛し、場を改めたいと思います。
唯一ネット上で拾えた情報は「日本ヒ素研究会」の会報に寄せられた一本のエッセーでした。震災後に小名浜の幼稚園で起きたある問題が取り上げられていましたので以下引用します。
「同幼稚園は昭和38年に現在の土地に移転したが、それまでその土地は水田として用いられていたとのことである。経緯はわからないが赤土は盛土用に運び込まれたものと推測される。隣接する建築物の建て替えの際には赤土は見出されていない状況から、同園の建築の際にだけ持ち込まれたものなのであろう。園舎の災害復旧工事をした建設会社の現場監督が芝生除去によって露出した赤土を見て、小名浜地区で以前より問題になっている枇素を含む赤土に似ている事を指摘して、同建設会社の地質調査部の担当者が園庭の赤土を確認して行政機関への相談と土壌調査を幼稚園に勧めた。(中略)幼稚園が行政機関に問い合わせたところ「確かに、そのような話は耳にするが、環境の法が整備される昭和40年代以前の既成事実は法的に対処できないし、N社の産廃である根拠が無い」との返答を得たそうである。」
吉田貴彦「東日本大震災にともなう福島第一原発事故がきっかけとなって明らかになったヒ素による土壌汚染」より
http://www.arsenic-sci-soc.jp/No.16.pdf
小名浜の公害問題は根が深く、多くの企業が操業を始めると、名にし負う「松之中」の松林は壊滅状態。大気汚染が酷い日には町の中でも目を開けていられなかった程でした。当時「吹松」にあった県立小名浜高校は環境悪化のために現在地「武城」へ移転。小名浜の田んぼではコメは作れないとされ、鹿島街道より西のエリアは補償をもらっていたと云います。その負の歴史の記録は、少ないどころか皆無でして、詳しい事情を知ることはできません。蒸し返したくないのは分かりますが、後世の人々のためには、きちんと記録として残しておくべきだと考えます。同じようなこと、何度だって繰り返しますからね、ヒトは。
上の写真は、今も「吹松」の地に残る、旧小名浜高校の校門跡です。唯一の遺構でしょう。小名浜高校の移転は昭和42年。鹿島神社の移転は昭和43年。ちょうど公害の嵐が吹き荒れていた頃です。このへんに強引なルート設定の鍵があるように思いますが、残念ながらまだ調査不足。分かり次第レポートしていていきたいと思っております。
チェックポイント⑦ 仙台塚
来年は戊辰150年。この場所もイベント等で大きく扱われると思います。この地で戦死した仙台藩士の供養塔で、地元では「仙台塚」と呼ばれています。
「磐城戊辰史」に拠ると、1968年6月29日、仙台藩の部隊が、西軍(新政府軍)に占拠された泉館を奪還すべく、 小名浜から泉方面へと向かいました。ここ二ツ橋まで来ると既に西軍は対岸富岡村の丘にあって大砲小砲を乱射。応戦するも東軍は総崩れとなり、小名浜陣屋に退却。更に中ノ作へと敗走し、沖合の船へ撤退しようとしましたが、 一部陸側へ押し戻され、西軍の銃撃にさらされたそうです。この一連の戦闘による仙台藩士の死者は73名。
死者はここ「西橋本」に32名、少し下流の「後場(あとば)」に18名葬られました。その後、後場のものを西橋本に合葬。現在この地には50名の仙台藩士が眠っていることになります。また中之作では23名亡くなっており、石碑にはそれも併せて記してあります。
いわき地方の戊辰戦というのは諸相があって簡単には説明できません。なにせ磐城平藩領、湯長谷藩領、泉藩領、幕領小名浜、笠間藩分領、棚倉藩分領、多古藩分領、飯野神領と8つの領地に分かれていました。それぞれの藩の動向は「いわき」という地域での括りで語ることはできません。しかしせっかく来年は150年で日本中が大騒ぎするでしょうから、そのモザイク状の様子を追いかけるような企画があると嬉しいですね。
チェックポイント⑧ 二ツ橋
藤原川(滝尻川)と矢田川の合流点。明治の地図を見ると今歩いてきた街道からまっすぐ架橋されていたことがわかります。もともとは中洲で2つに分かれてたことが名前の由来です。
いよいよ対岸に渡り、旧富岡村へ。「富」の「岡」へと歩を進めましょう。