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Okinawa 沖縄 #2 Day 155 (16/12/21) 旧知念村 (4) Azama Hamlet 安座真集落

2021.12.18 14:24

[更新: 2021年12月24日 再訪問 (大神宮 (ウフジチュー) の墓 )]

旧知念村 安座真 (あざま、アザマ)



旧知念村 安座真 (あざま、アザマ)

安座真は知念地区を西部と東部に分けるその境界にある。旧知念村は大きく、久手堅~志喜屋の西部 (イリー) 又は、西方 (イリーカタ) と安座真~久原の東部 (アガリ) 又は、東方 (アガリカタ) の二つの地域に分れる。西部と東部では地勢においても異なり、西部は琉球石灰岩が多く断崖地帯で、水資源も豊かだが、東部は島尻層の泥岩 (クチャ) の上にわずかの石灰岩があるのみで、水資源に乏しい。 この安座真は東部のはじまりに位置している。確かに、集落の南端からは隣村の久手堅へは丘陵への上り道になっている。明治、大正時代はこの道はまだ存在せず、知念方面には、集落の東側から丘陵頂上まで通じる山道が唯一の道だった。

アザマは古語のアヅマ (東) が訛ったもので、アヅマ→アヂマ→アザマと転訛したと考えられている。安座真は旧知念村の西部と東部の境界にあり、東部に位置する最初の集落という意味に由来していると思われる。 

安座真は初期には知名に属していたが、17世紀半ばには、知名から独立して安座真村となっている。

安座真集落の村立ては、現在の集落の後方にある丘陵上部にあった安座真グスクの周辺だったという。この場所に、はじめて住むようになった血族集団がどれなのかは不明。時が経つにつれて人も多くなり、安座真城の麓は生活するのに狭くなり、不便をきたしたとされ、1768年 (尚穆王17年) に、生活するのに便利な現在の場所である江敷原 (現在のテーラヤシチ) 付近に移ってきた。 安座真村の本家である大門門中、玉城門中、門川門中が新たな村の傾斜地の高い所に位置しているので、これらが、元々の村に住んでいたことが判る。現在の安座真集落には四つのそれぞれの門中の総本家となる大元家 (ウフムートゥヤー) の大殿内、大門、玉城、仲田場が存在する。伝承によると、 安座真の起源は玉城按司の次男である安座間大親で、安座間大親の長男は大殿内門中の元祖となり、次男の息子のうち、長男の玉城仁屋が玉城門中、次男の具志堅大屋子が大門門中の元祖とされている。 また、別の言い伝えでは、 長男の玉城仁屋、 次男の具志堅大屋子、三男の仲里大屋子の三兄弟が垣花村から移住して村建てをしたともいわれており、集落ではこの三兄弟のことを三様 (ミサマ) と称し、村創設の神として祀っている。

1919年 (大正9年) の地図には、まだ海岸沿いを走る現在の国道331号線は存在していない。安座真集落の西側を丘陵の頂上へ登る道があるだけ。これを見ると安座真が 旧知念村で東方 (アガリカタ) の境であったことが判る。この旧道の下までは来たが、かなり急な坂道だった。集落の民家分布では戦後、民家はまばらになっているが、その後は元に戻り、少しだけ拡張している。

安座真の現在の人口は、旧知念村の中では中堅の村にあたるが、540人は南城市全体で見ると少ないグループになる。

明治時代には旧知念村では最も人口が少ない字だった。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: なし
  • 殿: 神アシアゲ真間之殿根所火神、安座真之殿 (大殿)

安座真のヌーバレーは戦後の1951年 (昭和26年) に復活し毎年行われている。 道ズネーではミルク加那志が登場する。かつては爬竜船競漕 (ハーリー) も行われていたが平成に入ったころに途絶えてしまった。


公民館の前にガイドマップが置かれている。ここに紹介されている文化財は全て見ることができた。


安座真集落訪問ログ



先日訪れた知名集落の海岸線を通って安座真集落に向かう。まずは、海岸線にある文化財から見ていく。



ウフマタジーの石

先日訪れた知名から安座真に向かい海岸の遊歩道を走る。海野海岸近くが水路になっている。自然にできた水路なのか、何らかの目的で造ったのか? 珍しい。

道を進み、ちょうど知名と安座真の境付近、安座真集落からみて北西にあたるところに巨岩が二つある。この場所は後屋取 (クシヤードゥイ) と呼ばれている場所。巨岩は戦後に雷に打たれて割れたそうだ。この巨岩はウフマタジーの石と呼ばれて、ユッカヌヒー (豊漁祈願祭) に海人によって拝まれている。


竜宮の神

ウフマタジーの石から安座真港に向かう途中の内陸方向に竜宮の神の祠が置かれている。これが作られたのは、ごく近代のことで、 ある漁民が海で の安全を祈願して作ったものを、 次第に集落の人たちが拝む ようになった。もともとは、海浜にあったが港湾整備の際に、ここに移されている。がされる前は海浜にあった。この竜宮の神もユッカヌヒー (豊漁祈願祭) に海人によって拝まれている。


サンサンジーの石

安座真港の漁港岸壁の石垣に一部飛び出た大石がある。この石はサンサンジーの石と呼ばれ、ユッカヌヒー (豊漁祈願祭) に海人によって拝まれている。かつては大岩だったが、港湾道路整備で削られてしまった。かつては台風の時に船を2、3隻サンサンジーの大岩に繋いで避難させていたという。 


安座真港

安座間には安座真港がある。

多くの漁船が陸に上がっている。ここもまだ軽石の影響で漁に影響が出ているのだろうか?ここからは久高島行きのフェリーと高速船が出てる。久高島への観光客が多く来るのだろう、港の周りには何軒か食堂があった。船待ちの客を相手にしているのだ。2週間ほど前は、フェリーは軽石の影響で数日間欠航になっていた。旧知念村巡りの中に久高島も計画しているが、なるべく軽石の影響が治まった時期にしようと思っている。

この安座真港ではかつてはイカ漁などの漁業が盛んだったそうだ。港の近くにはイカ料理の店もあった。


あざまサンサンビーチ

安座真港の隣には、平成12年にオープンした大きな人工ビーチがある。今はシーズン外なのだろう人はほとんどいない。

夏は人気スポットで、海水浴の他、マリンスポーツ施設もあり、バナナボート、ビッグマーブル、ハーフパイプ、マリンジェット、ウェイクボード、SUPがたのしめる。バーべキュ―設備も用意されている。海水浴シーズンは、4月中旬頃に海開きをし、10月末日までとなっている。


知念海洋レジャーセンター、待垣泊 (マチザチトゥマイ)

あざまサンサンビーチの隣にも、同じようなレジャー施設がある。今は軽石騒ぎで休業中。

こちらはマリンスポーツの他に、近くの無人島 (コマカ島、ウカビ島) への送迎やダイビングなどを提供している。この小さな港は、待垣泊 (マチザチトゥマイ) という昔使われた船着き場で、御新下りの時に船荷の陸揚げ地と伝わっている。

あざまサンサンビーチは一般社団法人 南城市観光協会の運営だが、こちらは民間企業が行っている。ちょっとしたライバル関係にあるのかもしれない。あざまサンサンビーチは家族向きだが、こちらの方はダイバーに無人島でのダイビングなどが目玉になっている。今は軽石の影響で船は出ていなかった。

写真左がウカビ島、右がコマカ島でここからも見える距離で、ウカビ島へは3分、コマカ島へは15分で着くそうだ。


待垣泊 (マチザチトゥマイ) の砂浜

待垣泊 (マチザチトゥマイ) の両側は砂浜になっている。親子で遊びに来ていた。


俎板石 (マルチャイン)

知念海洋レジャーセンターへの入り口にハマスギ (モンパノキ) の根元に岩がある。俎板石 (マルチャイン) と呼ばれ、石灰岩のでこぼこした岩で、前には香炉が置かれている。マルチャとはまな板のこと。大神宮の御祝、ユッカヌヒー、五月ウマチーの祭祀で拝まれている。かつては五月ウマチーの際、神饌の提げ魚 (サゲイユ) を吊した櫂を担いだ男が「ヘイヨー、 ヘイヨー」 と言うと、もう一人が「ハマレー、ウプシュー (頑張れ、 大主)」 と 応える儀礼があったそうだ。


ウチャンガナシーの拝所

俎板石 (マルチャイン) の近くにもウチャンガナシーという拝所がある。現在、村落祭祀は行われていないが、以前はは4月18日にウェエー (ウフジチュウ) という村落祭祀が行われていた。


安座真港まで戻り、次は安座真の集落内の文化財を巡る。



産井泉 (ウブガー)

安座真港から集落への道の脇に産井泉 (ウブガー) がある。産水井泉 (ウブミジガー) とも呼ばれ、以前はこの井戸から産水を汲んでいた。


村番 (ムラバン)

安座真集落の東部入り口に、安座真の村立てを行った人のものと伝わる門門中 (ジョームンチュー) の古墓があり、村番(ムラバン) という。ウフジチューの墓への遥拝所ともいわれている。


ヌル井泉 (ガー)

村番 (ムラバン) の西の国道331号沿いの民家の脇に狭い隙間がある。この奥にノロが使用したヌル井泉 (ガ-) がある。以前は小川だったそうだ。この通路がかつての川の跡なのだろうか?


水源池

ヌル井泉 (ガ-) から集落内に入る。安座真集落は小さな村で、東西に三本道が走り、北が現在の国道331号線 (大道か?前道?)、次に中道、そして丘陵側に後ろ道、この三本の道の間に民家が建っている。中道の角に簡易水道の水タンクが残っている。タンクの前は洗い場になっており、タンク側面には水道蛇口が三つ設けられている。戦後の名残。  


玉城 (タマグスク) 神屋

水源池の北側に安座真集落の有力門中の神屋が集中している。この場所は集落の中心地で、安座真グスク付近から移住してきた時、集落内では一等地で、有力門中の屋敷としてあてがわれていた。ここは玉城字垣花の上間から来て安座真の村立てを行ったという三様 (ミサマ) の長男であった玉城仁屋 (タマグスクニーヤ) の屋敷跡で、三様のいた時代は一番世または玉城世と呼ばれる。玉城仁屋の子孫といわれる玉城門中から、代々、集落のリーダーであった根人 (ニーチュ) が出ていた。

隣にはもう一つ神屋がある。


大門 (ウフジュー) 神屋

玉城 (タマグスク) 神屋の道を挟んだ東側には三様の次男だった具志堅大屋子 (グシチンウフヤシー) の屋敷跡があり、そこにも神屋がある。 具志堅大屋子の子孫は門門中 (ジョームンチュー) で、代々、男神役のニーブ (柄杓取り、二ーブトゥイ) を出していた。


田場 (ターバ) 神屋

玉城 (タマグスク) 神屋の北の傾斜地には、玉城仁屋 (タマグスクニーヤ) の息子と伝わる田場子 (ターバシー) の屋敷跡で、民家の中に離れの神屋がある。 田場は、根神 (ニーガン) を出した家。 このように一族の血縁者が集まっている。


田場隣の神屋

田場 (ターバ) 神屋の隣にも神屋があった。これも三様関連の神屋だろうか?


大殿内 (ウフドゥンチ) 

玉城 (タマグスク) 神屋、大門 (ウフジュー) 神屋、田場 (ターバ) 神屋の地域から集落の西に1ブロック進んだところには大殿内 (ウフドゥンチ) 門中の屋敷跡がある。広い敷地で、綺麗に庭が整えられている。この大殿内 (ウフドゥンチ) は、三様と呼ばれる三兄弟の三男の仲里大屋子 (ナカザトウフヤシー) の子孫という。先に訪れた玉城 (タマグスク) は長男、大門 (ウフジュー) は次男だったので、これで三様の三人の屋敷跡を訪れたことになる。


神アサギ

大殿内 (ウフドゥンチ) の屋敷内には神アサギがある。現在の建物は昭和60年に立て直されたもの。神棚の最上段中央に大神宮 (ウフジチュー)、右にサイハ神 (斎場御嶽の神)、左に村神が祀られている。神棚の右にはミルク (弥勒) 神の面や衣装などを収めた木箱が置かれている。神棚の左には火ヌ神 (ウミチムン) がある。琉球国由来記には神アシアゲと記され、稲穂祭に泡盛2合、ウンサク 1つをウフジチューの子孫が供えるとある。現在は1月7日の七日 (ナンカ) ヌスクー、1 月11日の初御願、2月の彼岸、3月の清明、4月18日の大神宮の御祝、5月4日の海神祭 (ユッカヌヒー)、5月15日の五月ウ マチー、6月15日の六月ウマチー、6月25日のアミシヌ御願、7月1日の朔日ズリー、7月7日の七夕 (ミルクガナシー)、7月16日のヌーバレー、12月24日の火ヌ神ヌ御願が行われている。安座真集落の神行事は全てこのアサギ屋で始まるそうだ。集落神行事では大殿内、玉城、大門、仲田場を四元と称し、クリングヮと呼ばれたその根人と根神が拝みの中心的役割を果たしていた。

「遺老説伝」によれば、大神宮 (ウフジチュー) は 「昔、安座真村に身長一丈(約3m) で大力無双の者がいた。120歳で死んだ。 葬って3日後、習俗の通りに棺を開 けてみたところ、唯、 草木の葉が棺一杯に詰まっているだけで遺骸はなかった。 そこで子孫はこれを神仙に違いないとして祠を村の中に設け、毎年4月18日に大神宮祭を行うことにした。また、その子は名を親嶽というが、 身体が巨大で大力無双なことはその父に同じであり、武芸は衆にはるかに勝っていた」とある。大神宮 (ウフジチュー) は「おもろさうし』では 「大ぢきよ」、「琉球神道記」の大ふぐりの来訪神「ヲウチキウ」とも関わる存在であったと考えられている。

別の伝承では「大神宮神」はその昔、 安座真村へどこからともなく大神宮 (ウフヂチュー) と自称する僧侶がやってきた。 六尺ゆたかな大男で怪力なうえ彼の持ち物も大きかった。 その大きな睾丸を布に包み、紐で首に吊して村々を回り、綱や小綱のすき方を各地にひろめ歩いたので、人々は彼のことをキンマムン (守護神) と称して敬愛したとある。

拝屋の前は庭で、 建物に向かって左手に サキシマスオウノキの大木が生えている。 


ヌルヤー

神アサギの隣の民家の離れにヌルヤーと呼ばれる神屋がある。詳細は見つからなかった。


安座真公民館

安座真公民館は何度か建て替えられているのだが、元々は現在の公民館の前のゲートボール場にあり、現在の公民館がある場所は池 (クムイ) があった。1960年に米軍の高等弁務官資金でそこを埋め立てて、子供のためのアシビナー (遊び庭) を建設。その後、1967年にコンクリート造りの公民館となり、現在の公民館をその隣に新設し、旧公民館跡地はゲートボール場になった。公民館の前には赤く塗られた酸素ボンベの鐘がつるされ、裏庭には小さな祠の拝所がある。何の拝所かは書かれていないのだが、ここは池 (クムイ) があった場所なので、池の神を祀っているのかもしれない。

戦後の公民館は木造トタン屋根 (写真左上) 公民館の前では安座真では一番之祭のヌーバレーが行われていた。 写真右上は1967年に建てられた公民館。現在でもヌーバレーは続けられている。 (写真下)

安座真公民館の裏庭の片隅ににはかつてあった馬車軌道の線路の残骸が残されている。戦前は馬車軌道が与那原から国道331号線を通り、安座真まで通っていた。西原町にあった製糖工場(旧中部製糖工場、現在のサンエー西原シティ)までのサトウキビ運搬の為で、安座真公民館の前辺りが終点で、物資の集積場があった。戦後しばらくはこの馬車軌道を利用して、米軍が物資の運搬をしていたそうだ。


カミ井泉 (ガ-)

安座真公民館から山に登る階段の下に村では一番の井泉であったカミ井泉 (ガ-) がある。資料によっては古樋川 (フルヒージャー) 、ユンブリガー、安座真樋川 (アザマヒージャー) 等とも呼ばれているとあるが、資料によってはそれぞれが別の場所に記載されている。(これはよくあることで、資料で場所が間違っていたり、名前が異なっていたりする) 琉球石灰岩の崖の野面積みの石垣下部に方形の水口 (写真右下) があり、ここから水が流れ出て下のコンクリートの水槽 (写真左下) に貯めて水を流す形になっている。現在は利用されていない。1月11日の初御願、12月24日 の火ヌ神ヌ御願で祭祀が行われている。


安久仁 (やすくに) 之塔

カミ井泉 (ガ-) 横の階段の途中に日露戦争から太平洋戦争までの戦没者81柱を祀った安久仁之塔がある。多分村の住民の犠牲者を含めれば戦没者はもっと多いと思う。1951年に造られており、旧知念村内ではもっとも早くに造られた慰霊碑で、以前は公民館横の広場あたりにあったそうだ。5月最後の日曜日に村で慰霊祭が行われている。 


真間之殿 (シンマドゥン)

集落の西側には4つの殿がある。その一つが、安座真から知名への国道331号に出る手前にある真間之殿 (シンマドゥン) で、小さな祠が置かれている。琉球国由来記にはシンマノ殿とあり、稲の初穂祭と大祭に神酒一宛の供物を供え、安座真ノロが祭祀を行うと記されている。現在は、1月11日の初御願、5月15日 の五月ウマチー、6月15日の六月ウマチーで拝まれている。(以前は5月4日の海神祭、6月25日のアミシヌ御願、12月24日のフトチ御願・火の神御願でも拝まれていた) この殿は村の宗家の一つの玉城家血縁集団が中心になって作られ、管理していたと伝えられている。 以前は塚石だけの拝所であったそうだ。


村火ヌ神 (ムラヒヌカン)

真間之殿 (シンマドゥン) のすぐ西には火ヌ神が祀られている拝所があり、村火ヌ神と呼ばれている。琉球国由来記の根所火神に相当するのではと考えられている。由来記には、稲の穂祭・大祭で安座真巫 (ノロ) により祭祀が行われたと記されている。現在は、1月11日の初御願、6月15日の六月ウマチー、12月24日の火又神又御願 (フトチ御願) が行われている。


中殿 (ナカトゥン)

村火ヌ神の更に西側、国道331号沿いに別の殿 (トゥン) がある。 左右の民家に挟まれたコンクリート敷きの空間にコ ンクリートブロックで囲まれた祠が置かれている。中殿 (ナカトゥン) と呼ばれており、以前はここは広い屋敷があったそうで、集落の一番の宗家である大殿内家の授かりであったと伝えられているので、大殿内家の血縁集団を中心に作られた殿であると考えられている。琉球国曲来記の名幸之殿の「名幸 (ナカウ)」 が変化して「中 (ナカ)」と称されたという説もある。また、この後訪れる大殿 (ウフドゥン) に対して中位であるというこ で、中殿 (ナカトゥン) と称されるようになったとの説もあるそうだ。 現在は、 1月11日の初御願、2月の彼岸、3月の清明、 5月4日のユッカヌヒー (海神祭)、 5月15 日の五月ウマチー、6月15日の六月ウマチー、6月25日のアミシヌ御願、8月の彼岸、12月24日の火ヌ神 ヌ御願が行われている。


殿の前小 (トゥンヌメーグヮー)

中殿 (ナカトゥン) の西側すぐの所に殿の前小 (トゥンヌメーグヮー) の拝所があり、別称で前ヌ殿 (メーヌトゥン)、後ヌ殿 (クシヌトゥン) とも呼ばれている。畑の中のビニールハウスの側に香炉が置かれている。 元家の一つである大門家授かりの殿 (トゥン) といわれてはいるが、先程訪れたムラ火ヌ神とクサイ (対、鎖) の関係にある井泉とも伝わっている。また、この殿の名称は定かではなく、「親嶽ヌ前の殿または殿の前小」とも称され、昭和の初期頃まで行われていた綱曳の時には四隅に竹を立てた一夜殿を作り祭の儀式が行われていたそうだ。この殿では、初御願 (1月11日)、海神祭 (5月4日)、五月ウマチー (5月15日 稲穂祭)、六月ウマチー (6月15日)、アミシヌ御願 (6月25日)、フトチ御願(12月24日 火の神御願) の際に拝まれている。


大殿 (ウフドゥン)

殿の前小 (トゥンヌメーグヮー) の側に、もう一つ拝屋造りの殿がある。大殿 (ウフドゥン) で、親嶽ヌ殿とも呼ばれている。拝屋の中には、正面入り口のやや左寄りにコンクリート製の小さな香炉、正面奥壁近くにも香炉が置かれ、その後ろに火ヌ神が祀られている。拝屋の奥手外の右にも香炉があり、海への遙拝所だそうだ。また、拝屋の左にも切石の香炉が置かれた遙拝所があり、 西南西の方向にあるチカノハナ山へのお通しになっている。琉球国由来記の安座真之殿に相当するのではと考えられている。現在は、1月11日の初御願、5月15日の五月ウマチー、6月15日の六月ウマチー、 6月25日のアミシヌ御願、 彼岸入りの日の彼岸、 12月24日の火又神又御願が行われている。この殿は、昔は、文字通り敷地面積が300坪もある屋敷だったそうだが、土地は昭和30年代初期に知念村より個人に売却され現在はサトウキビ畑の真ん中に15坪の小さな敷地になっている。もともとの殿は赤瓦葺きの殿屋であったが戦争で消失し、その後はコンクリート平屋根造りとなり、昭和60年に再建された。 この殿には大殿内門中からの分家で屋比久親雲上を始祖とする前ヌ殿内家の授かりと伝わっている。前ヌ殿内家は代々安座真ノロを受け継いでいた。


ワンジンの井泉 (ガー)

別称、親嶽井泉 (ウェータキガー)。集落南西の傾斜面の中腹にある井泉。 井泉の周辺はワンジンと呼ばれている。 大神宮の子である親嶽に使用されていたといわれる。


安座真グスク跡 (12月20日 訪問)

先日、12月16日には時間切れで、この安座真グスクには登れなかった。12月20日に久手堅集落訪問の際に立ち寄った。安座真グスクは安座真集落の南、安座真上原の標高106 ~ 117mの石灰岩丘陵上に築かれている。安座真グスクについて記された古文書などががないので、いつの時代に、誰が、何のために築いたのかは不明。調査では防御目的と考えられる構築物や縄張構造から判断すると、グスク時代~三山時代の14~15世紀に築城された可能性がある。そうであれば、知念グスクの出城的な性格があったのでは無いかと思う。

現在の安座真集落は、中城湾に面した海岸沿いに展開しており、その集落からグスクに行くには集落の南側後方の急な坂の山道を上っていく。 

道の途中には、大岩を利用した古墓があった。

更に登ると頂上の平場に出る。所々に石垣が残っている。

グスクは標高の高い石灰岩台地を利用して築かれ、その周辺は比較的平坦な空間になっている。平場にはいくつかの低い岩山がある。伝承によると安座真の古島が、この平坦地にあったといわれている。この場所がグスクのどの部分にあたるのかは、表示も無く分からない。グスクは整備されておらず、草が生え放題で先に進めない。

平場にはいくつかの墓があるが、口が開いており、現在は使用されていない様だ。


大神宮 (ウフジチュー) の墓 (12月24日 訪問)

安座真グスクの東側、斎場御嶽北方の森の中に大神宮 (ウフジチュー) の古墓があると資料にはある。ここへの道が記載されておらず、安座真グスクからここへの道らしきものも見当たらなかった。後日、12月24日に久手堅集落のナーワンダーグスクを訪問した際に、ここを訪れる事ができた。この古墓は隔年の4月18日に「大神宮の御祝」が行われ祀られている。安座真の神アサギの神壇中央にウフジチューを祀る香炉があったのだが、身長3mもあったと伝えられ、実在の人間ではなく、神としての神話の部類の伝承と思われる。その大神宮 (ウフジチュー) の墓とは、面白い。最も開闢の神のアマミキヨの墓も各地にあるので、沖縄では特に不思議では無い。伝承では、大神宮には息子が 一人おり、親嶽と呼ばれた。第一尚氏最後の王の尚徳王が鬼界島征伐の時に従軍したとある。 そうすると、大神宮は1400年前後の人になる。墓は典型的な古墓で、大岩の面を利用して、墓口を石で塞いでいる。大神宮 (ウフジチュー) の墓の隣にも、小さな古墓があった。



一昨日も暑く、夏に戻った様な気候だったが、今日は更に暑く真夏の様で、一日中汗が止まらなかった。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
  • 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)
  • 知念村の御嶽と殿と御願行事 (2006 南城市知念文化協会)
  • 知念村文化財ガイドブック (1994 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第一巻 (1983 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第二巻 知念の文献資料 (1989 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第三巻 知念の文献資料 (1994 知念村史編集委員会)