いったい、日本は民主主義の国なのでしょうか。
たまたま、沖縄にルーツを持つ人間として生まれましたが、子どものころは、そのことを意識したことは、ほとんどありませんでした。19歳で島を出て、「本土」で暮らすようになってから、「私は日本人というよりも、沖縄人なのだ」と思うようになりました。
以下の文章は、日本人が大嫌いだった28~29歳ぐらいの時、1998年ごろに、大阪の小さな同人誌に投稿したものです。
沖縄をめぐる状況は、当時と変わらないどころか、2世、3世の政治家たちが強権的に沖縄県内に新基地建設を進める時代になっています。それに対して多くの日本人が無関心のままです。90年代の経緯も、昨年の沖縄県知事選や衆院選の結果も知らずに、「翁長知事はやりすぎだ」と無責任な発言をする人さえいます。
「引き取り運動」は、このような日本人の意識を変えようとする運動でもあると言えます。いまも変わらない日本人の意識について分析した文章を、お読み下さい。
「沖縄を語る会」 大山夏子
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保守でも革新でもない、”在日沖縄人”の言い分
福岡市 会社員 大城光
在日沖縄人という言い方は、ピンとくるだろうか。私が自分のことを沖縄県出身の日本人ではなく、日本に住む「オキナワン」だと思うようになったのは、つい最近だ。
とは言っても、別に無政府主義者でも独立論者でもない。沖縄島から九州に移り住んだごく普通の会社員。ただオキナワンは大和民族とは違う、歴史的背景や生活文化、社会を取り巻く「共同幻想」が違うということに気づいただけだ。一人のウチナーンチュ(沖縄人)の視点からヤマトンチュ(本土の人)に異議申し立てをしたい。
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話の前に、やや乱暴かもしれないが、歴史をちょっと説明しておく。昔、琉球という小さな国があった。独自の政治・文化圏を持っていたが、明治時代に「日本国」という近代国家ができる時に吸収された。「琉球人」と呼ばれ、アイヌや朝鮮人とともに「二等国民」扱いだった。戦前の徹底した皇民化教育の強化の中で「日本人」という意識を強め、沖縄戦でもお国のためにと戦った。
日本の敗戦後、なぜか沖縄だけ米軍統治が続いた。米軍基地が次々と建設され、先祖代々の土地を奪われた人たちは泣き寝入りした。戦闘機の墜落事故とか、米兵による交通事故やレイプ、殺人事件が多発したが大半が泣き寝入りだった。
1972年に「祖国復帰」。経済的には日本社会の枠組みの中で発展を遂げたが、面積では国土の〇・六%の沖縄に、今も在日米軍施設の75%が集中している。住民の不満は根深い。
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沖縄に育ちはしたが、実は深刻に考えたことはなかった。それがいつ、沖縄人としての『私』を意識し始め、沖縄人として生きるようになったか、と聞かれても説明するのは難しい。ひとつ思い出すのは、数年前に亡くなった祖母のこと。「ヤマトの人は本音と建前を使い分けるから、気を付けなさいよ」──。九州の大学に進学するため島を離れる孫の私に向かって、祖母はこう諭した。後から聞いた話だが、彼女の村では戦時中、住民が日本兵に虐殺される事件が起こっている。
私が卒業後、島には戻らず本土で就職してからも、帰るたびに「ヤマトの人にならないで。帰ってきなさいよ」といい続けた。少々ぼけが始まってからも。
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なぜ祖母がそんなことを言うのか、私は長い間分からなかったし、気にもとめなかった。本土では人に紹介される時は必ず「沖縄の出身」という注釈がつくことにも、あまり疑問は感じなかった。
ただ、本土の大学の寮に入り、同年代の若者と肩を寄せ合うような共同生活の中で、私の原風景には幼いころから体のしんまで染み通っている「沖縄」があることを感じた。部屋にはシーサー(沖縄の獅子の守り神)の置物を当然のように飾っていたし、一品持ち寄りのコンパではソーミンチャンプルー(そうめんのいためもの)を作った。母が送ってくるポークランチョンミート(アメリカ軍政時代に沖縄の食生活に定着した豚肉の缶詰)を友人に振る舞った。酒と言えば日本酒ではなく、高校時代から飲みつけた泡盛だった。
日本独特の整然と広がる田園風景も好きだったが、帰省した時に飛行機から見渡す沖縄の青い海は、格別だった。九州山地の雄大な山なみや針葉樹の景観、冷たく刺すような冬の空気は新鮮だったが、月桃(げっとう)やヤシ、巨大シダの茂る亜熱帯林を歩いた幼いころの記憶は、湿気を含んだ空気のねっとりした感触とともに、常に心の奥にあった。
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直接のきっかけは、東南アジアに行ったことだった。日本から沖縄を見るのでなく、東南アジアの国々から沖縄を見たことで、考えが変わった。初めて九州へ行った時は日本本土の地形や自然環境が新鮮に感じられたが、タイへ行った時は反対の驚きを持った。近いのだ。植物、空気、人々の顔つき。「なんだ、こっちの方が近いじゃないか」と思った。この感覚はフィリピンや台湾でも同じだった。
文化、風土的には東南アジアの国々と近く、かつて独立国だった沖縄が、なぜ今、日本社会の枠組みの中にあるのか。しかも多くの矛盾をはらんで--。アジアへの親近感は、私を沖縄問題の原点に立ち返らせた。琉球人が体験した日本への「同化」の歴史。それも、自ら努力し、熱望した「日本人になる」ということが、何だったのか。
台湾にも日本の植民地下で皇民化教育を受けた人たちがいる。今でも彼らは日本語を話す。日本兵として戦地に赴き、戦死した人が日本式の墓に日本名で葬られている。生き残ったおじいさんは、今でも東京へ行くと皇居と明治神宮に参拝する、とちょっぴり誇らしげに言った。戦前は、日本に行くのが夢だった、と流ちょうな日本語で話すのを聞いて、何とも言えない思いがした。
在日韓国人と話すときによく話題に上るのだが、差別を背景にした悲しいほどの同化願望は、さまざまなマイノリティに共通する。しかし、同化の対象である日本人は、そのことに非常に無頓着だ。
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話は本題に入る。「基地問題は沖縄では人権問題だが、本土では政治問題になってしまう」--沖縄でよく、こんな言葉を聞く。自分たちの思いがなかなか伝わらない、というもどかしさの現れだ。この2年ほど本土と沖縄を頻繁に行き来したが、「温度差」を痛感した。本土の人たちは一面的な見方しかしないか、無関心かのどちらかだった。
そして、こう思った。基地問題が解決しないのは、沖縄と日本の違いについて余りにも日本人が無頓着だからではないか、と。問題の本質は、安全保障条約の是非をめぐる論争ではない。根っこには日本が沖縄を植民地化して同化政策を行ったという前提がある。まず民族的な差別の問題が背景にある。その延長線上に唯一の地上戦となった沖縄戦があり、27年に及ぶ米軍統治があり、今も基地の集中という形で残っているのだ。
それを政治家や運動家たちが、イデオロギー対立の象徴という形にわい小化してしまった。1995年秋の米兵による少女暴行事件をきっかけにクローズアップされた問題を追えばそれが分かる。
95年、米軍用地の強制使用に関する大田昌秀知事の代理署名拒否
96年、基地整理・縮小を問う県民投票
97年、名護市沖への普天間基地代替ヘリ基地移設を問う市民投票
98年、同じく移設を問う名護市長選
この間、さまざまな立場の人たちが沖縄に入り、さまざまなことを言った。それを単純化すると、次のようなものになる。
(1)、保守系「安保は必要だ。基地がなくなると地主が困る」
(2)、革新系「安保廃棄、基地撤去。演習の本土移転も反対」
(3)、独立派「特措法改正は第二の琉球処分。独立しかない」
(4)、沖縄県「安保が必要なら日本全体で負担をしてほしい」
さて問題です。この中で「沖縄の心」の最大公約数はどれでしょう。日本本土のマスコミの中で目立つのは(1)、(2)。詳しいことが知りたければ(1)は産経、読売、諸君!など参照。(2)は朝日、世界、赤旗などをご覧ください。
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冗談はさておき、最大公約数がどれか知るのは難しい。私自身の感触では(4)が妥当だろう。沖縄の中でも、自民党県連や軍用地主会、経済団体など(1)に近い組織、革新政党や労働組合、一坪反戦地主会といった(2)の団体に分かれている。文化人を中心に(3)のグループもある。しかし、住民はすべてが政治的な運動に参加しているわけではない。むしろ中間層が多いのだ。
ただ、一定の年代以上の人が心の奥深くに抱く一つの共通項がある。「ヤマトへの不信感」である。これは、なかなか本土の人には理解できない。やさしい沖縄の人たちはそれを本土の人には決して言おうとしないからだ。しかし、沖縄戦や米軍統治時代の過酷な経験に裏打ちされた不信感は簡単には払しょくできない感情として残っている。
内側から沖縄を見ていると、保守層も革新層も民族派も、無関心層でさえぼんやりと、共通して基地の現状に不満と怒り(あるいはあきらめ)を抱いている。ウチナーンチュだけがいる所でざっくばらんに話していると「基地の重圧がなぜ沖縄にばかり」「本土にも基地を移すべきだ」などと憤りをあらわにする。しかし、その場にヤマトンチュが一人でもいれば、「基地問題を放置してきたヤマトへの不信感」は影をひそめ、決して表には出てこない。彼らは「沖縄をよく知ってくださいね」とにっこりと笑いかけるだろう。
こんな人々はあまり表立っては発言しないだけに、思いはなかなか伝わらない。本土の新聞やテレビが取り上げるのは、団体の会長や事務局長ばかり。先にあげた(1)とか(2)のような紋切り型のコメントしか出てこないだからだ。
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96年秋、基地の整理・縮小を問う県民投票が行われたが、やはり、保守-革新という紋切り型の構図となり、地域は混迷をきわめた。特に日米が返還合意した普天間飛行場の周辺では、地縁、血縁の入り乱れた狭い地域の住民が「返還されると地主が困る」「それでも基地はない方がいい」と二つに分かれ、心にしこりを残した。
投票の前、沖縄でお年寄りやおじさん、おばさんに話を聞いた。基地用地を提供している軍用地主、基地従業員には「投票には行かない」という人もいた。その中で、自民党の支持団体と言われる軍用地主会の幹部の話が印象に残っている。「先祖伝来の土地を奪われた上、米兵に村人を射殺されても泣き寝入りするしかなかった。あの時の悔しさは忘れられない」。そんな記憶を抱えながらも、「地主の利益は守らなければ」という。彼らの属する組織や地域はそれだけの拘束力を持つようだ。
ある地主は苦しそうに吐き出した。「投票には行かない。守るべき生活がある。だが、だからといってオレが基地に賛成していると、本土の人には絶対に思われたくない」。
こうした声にならない声は、本土の人々には届かない。沖縄の主張は保守系か革新系の政治勢力に立つ人によってしか語られていないからだ。しかも、直接語られるのではなく、それぞれの勢力の思惑によってわい曲されたり、恣意的に断片化されて伝えられる側面がある。
昨年12月、普天間飛行場の代わりになる海上ヘリ基地の建設候補地となった沖縄県名護市で、賛否を問う市民投票が行われた。政府は「建設と引きかえに振興策を約束する」として、防衛施設局職員を二百人動員して個別訪問や接待行為を繰り広げ、建設賛成派を後押しした。
ここでも地元は、「地域振興のため建設はやむなし」「金で心は売れない。絶対反対」と同じような構図になった。「国家権力」という巨大なブルドーザーが地域を分断し、土足で踏み荒らした。
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ここで基本的な疑問を提示したい。保守派の人たちは「日米安全保障条約」が必要だと言いながら、なぜ基地の本土移転を検討しないのか。演習の移転や戦闘機の移駐だけでなく、本土の基地への機能統合もアメリカ政府にかけ合い、国民に問うべきだ。
日米行動委員会(SACO)は沖縄の十一施設の返還を合意したが、うち七施設が県内移設。県外移設が前提になっているものは一つもない。そのことにこそ、沖縄の人たちの怒りがあるのだ。県内移設という条件がある以上、今後も沖縄では、名護市と同じように住民を二分した争いが起こるだろう。そして、そのたびに日本政府への不信感が募っていく。火種をこのような形で積み残すことは、国全体にとっていいことではない。
保守でも革新でもない、学生運動も経験していない世代の”オキナワン”からしてみれば、沖縄問題では余りに「語られない前提」が多い。海上ヘリ基地建設をめぐっても、橋本首相が「沖縄の基地縮少に向け努力はしたが米国に県内移転で押し切られた」という前提は語られない。「SACOの最終合意で『県外移設』は一つもない」という前提も語られない。「移設反対なら普天間も振興策も凍結」という政府の描いた筋書きだけが唯一の選択肢として一人歩きし、本質的な問題が置き去りにされている。
海上ヘリ基地をめぐる名護市の市民投票では、政府の賛成派へのテコ入れにもかかわらず反対票が多かった。住民の県内移設への拒否感の強さがうかがえる。が、そこで政府は「ヘリ基地の使用を二〇一五年までに区切る」という案を打ち出した。苦肉の策とはいえ、それこそ安保条約違反ではないか。それよりも他の基地の県外移設を打ち出した方が、市も県もヘリ基地建設を容認しやすい。なのに、そうならないのはなぜなのか。
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また、革新系の人たちは「沖縄と連帯する」と言いながら、なぜ演習の本土移転に反対するのか。安保廃棄の理念は分かるが、現実は今すぐ廃棄できる情勢ではない。全国紙による意識調査でも、現時点での条約継続を支持する人は六割を超す。皮肉にも沖縄問題をきっかけにして、安保に対する国民のコンセンサスが広がりつつある。その背景には、本土では米軍施設が沖縄ほど密集していない上、基地のほとんどが国有地であるため、それほど生活上の影響を受けないという現実があるのだが。
先日、実弾砲撃演習が移転された大分県の自衛隊日出生台演習場近くで、反対派市民グループが書いたこんな紙を見た。「沖縄にいらないものは日出生台にもいらない」。沖縄の人間がこれを見てどんな思いを抱くか、考えもよらなかったのか。そこには「連帯」などない。あるのは「面倒くさいものは目に見えない所に」という本音だ。
「安保廃棄、基地撤去」の訴えは今の時点では説得力を持たない。それを知っているからこそ沖縄県は「基地縮小と国全体での負担」を求めているのだ。七五%から〇%ではない。少なくとも〇・六%は持ちましょう、そういっているのである。
廃棄物処理場の建設問題にしても、ごみを出している以上「反対」ばかりでは解決しない。国民の責任ある負担という視点が重要だ。国の根幹にかかわる防衛問題でも、やはり国民全体で負担しなければならないはずだ。「連帯」するのであれば、いったん米軍基地を各地で受け入れ、国民に安保の存在やその意義、矛盾を実感してもらいたい。そうすることで初めて、新ガイドライン問題の訴えも説得力を持つだろう。
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しかし、保守─革新といった旧式のイデオロギー対立を背景に、現実には基地の県内移設が唯一の選択肢として沖縄だけに突き付けられている。県外移設なき「国策」の名の下、基地建設の賛否をめぐって地域も人の心も引き裂かれている。そのことに沖縄の人たちはなぜもっと怒らないのか。そこに沖縄の人たちの「弱さ」がある。本土の人たちはよく「優しさ」と表現するのだが・・・。
本土と沖縄、両方の共同体を知る私にとって、この「ずれ」が非常にもどかしい。「沖縄好き」を自認する本土の人は、そんなことを知りもせず、私は沖縄を知っている、と胸を張る。それに反発を感じる。声なき声が本当に聴こえているのか、そんな問いかけが口をついて出そうになる。
自民党から共産党まで、政党はどれも沖縄の人たちの気持ちを代弁し得ていない。一般市民も、それぞれの政治勢力が描く筋書きの範囲で思考停止している。そんな矛盾を支え、無理解を再生産しているのが本土のマスコミや政治家、知識人だ。そして、沖縄の中にもまた、提示された選択肢にしがみつくことしかできない人たちがいる。
昨年12月24日、名護市の比嘉鉄也前市長は橋本首相に「ヘリ基地建設容認」を表明し、辞任した。その三日前に行われた市民投票では建設反対票が多かったにもかかわらずだ。比嘉前市長は「地元の振興のため、郷土の捨て石になる」と語った。
何をか言わんや。市民投票の結果を考えれば、「郷土の」ではなく「日本政府の」捨て石である。50数年前、唯一の地上戦となった沖縄戦で、「お国のため」と多くの沖縄人が戦死した。悲劇は他県でもあった。しかし、戦後二十七年間も米軍統治が続き、現在も基地が集中するのは沖縄だけだ。ち密な日本研究を重ねたアメリカは、日本人と沖縄人の関係を熟知していて、それを占領政策に利用したと言われる。
「捨て石」発言を聞き、琉球国が日本の一部として歩み出した時代のことを考えた。はるか昔の薩摩入り、琉球処分の時も「発展のため」と時の権力に忠実に従ったリーダーたちがいたんだろうなあ、と思った。そうした遺伝子が、沖縄人の中に組み込まれてしまっているんだろう、と名護市近くに住む七十代の男性はため息をついた。
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「基地撤去」ができればいいが、できないなら「公平な分担」をすべきだ。沖縄人たちの小さなつぶやきは、耳をすまさなければ聞こえてこない。だからこそ、ヤマトンチュにどこまで伝わるか分からないが、あえて声に出してみようと本稿を書いた。
今後、海上ヘリ基地が建設されたとしても、建設されず普天間飛行場が返還されなかったとしても、県民の心の奥深くには大なり小なり敗北感や屈辱感のようなものが沈殿し、何十年にもわたって残るだろう。それは何年後か何十年後に、再び怒りのエネルギーとなってわき上がるのは間違いない。